第三話 配達員が余る夜【後編】
「配送先を、入力してください」
陽菜は答えなかった。
答えると、相手のルールの上で会話してしまう。
陽菜は、相手のルールではなく、自分の内側のルールで動くことにした。
住所を入力する。
郵便番号。
都道府県。
市区町村。
番地。
部屋番号。
ひとつ打つたびに、空欄が狭くなる。
狭くなるほど、怪異が廊下で薄くなる気がした。
薄くなるのは、恐怖が減るからではない。
成立条件が削れるからだ。
最後に、名前。
三笠 陽菜。
自分の名前を打つのは、いつだって少し照れる。
でも今夜は、照れではない。
自分の名前が、刃になる。
送信ボタンが、静かに光っている。
押せば確定する。
確定すれば戻れない。
戻れないのが怖い。
でも、戻れないのはいつもだ。
時間は戻らない。
正しさも戻らない。
なら、せめて自分の手で確定しろ。
陽菜は、深く息を吸った。
肺が痛い。
痛みは輪郭だ。
「……送り主も、宛先も、私」
陽菜は言い切った。
声が震えない。
震えないことが、いちばん怖い。
「……だから」
陽菜は、親指で送信を押した。
ピン。
音は小さい。
けれど部屋の空気が、一度だけ震えた。
蛍光灯の白が、一瞬だけ青に寄った。
都市の電波の川が、向きを変えるのが分かった。
流れが、外から内へではなく――内から内へ循環し始めた。
通知が止まる。
蜂の羽音みたいな振動が止まる。
玄関の向こうが、静かになる。
静けさが、重く落ちる。
重い静けさは、勝利ではなく“処理完了”だ。
陽菜はドアスコープを覗いた。
廊下に、配達員が立っている。
黒いヘルメット。黒いレインジャケット。四角いバッグ。
でも輪郭が薄い。
存在が希釈されている。
紙が水に溶ける直前みたいに。
配達員は、バッグから白い封筒を取り出した。
最初に店で渡されたものと同じ型。
違うのは、その動きが迷っていること。
陽菜はチェーンをかけたまま、ドアを少し開けた。
廊下の冷気が、針みたいに頬を刺す。
配達員が封筒を差し出す。
指先はやはり薄い。
薄いのに、今度は“軽さ”しかない。
恐怖の重みが抜け落ちている。
「……サインは」
陽菜が言うと、配達員は首を傾げた。
ヘルメットの黒い面が、蛍光灯を吸い込む。
そこには顔がない。
顔がない空間だけが、役割の形をしている。
「……いりません」
配達員の声が、かすれた。
「送り元と……送り先が……同じ……」
言葉が途中でほどける。
ほどけた言葉は、霧になって廊下へ溶けた。
配達員は、続きを言おうとして――言えない。
言えないのではない。
“成立しない”のだ。
陽菜は封筒を受け取った。
軽い。
だが、軽さは怖くない。
軽さは「余り」の証拠だ。
「……あなた、必要ない」
陽菜は言い切った。
言い切りは、相手の存在条件を削る刃だ。
配達員の肩が、一度だけ揺れた。
揺れ方が、人間のため息に似ていた。
似ているだけだ。
怪異は感情を持たない。
感情のふりをするのは、役割だ。
役割が余れば、ふりも消える。
「私は……必要……」
配達員が言いかける。
「必要は、距離が作る」
陽菜は返した。
理屈ではない。
比喩でもない。
ただの断言。
「距離がないなら、あなたは生まれない」
配達員の輪郭が、さらに薄くなる。
黒いヘルメットの面が、透ける。
透けた向こうに、廊下の蛍光灯がある。
つまりそこには、何もない。
何もないのに、役割だけが立っている。
それが怪異だ。
「……矛盾……処理……」
配達員の声が、機械の読み上げみたいに途切れる。
途切れた瞬間、体が崩れた。
崩れ方は静かだった。
砂が落ちるようでもなく、煙が散るようでもない。
ただ、いなかったことになる。
最初から、そこに“必要”が無かったことになる。
廊下には、冷たい空気だけが残った。
蛍光灯の唸り。
遠くのエレベーターの作動音。
誰かの生活の足音。
日常が、何事もなかったように戻ってくる。
陽菜は、ドアを閉めた。
チェーンを外し、鍵をかける。
鍵をかける動作が、ひどく人間的で安心する。
安心してしまう自分が怖い。
怪異は、安心の隙間に戻ってくるから。
机に戻り、封筒を置く。
封筒は、呼吸していない。
ただの紙だ。
ただの紙であってほしい。
陽菜は、辞典を見た。
辞典は閉じられていない。
閉じた覚えがないのに、閉じている。
棺の蓋みたいに、ぴたりと閉じている。
陽菜は、背筋が冷えた。
怪異は消えた。
でも辞典は残っている。
残っているということは、次がある。
スマホが一度だけ震えた。
配達アプリではない。
見覚えのないアイコン。白地に黒い塔のマーク。
通知の文面は短い。
【受信しました】
添付ファイル:〈未分類:言語データ〉
送信元:——
送信先:三笠 陽菜
送信元が空欄。
送信先は自分。
送り主と宛先が同じ。
配達員は不要。
――つまりこれは、さっきの矛盾処理を“学習した”形だ。
陽菜は笑いそうになって、喉の奥が乾いた。
笑いは、恐怖の逃げ道だ。
逃げ道は、次の入り口になる。
陽菜は辞典に手を伸ばした。
開けるな。
陸奥の声が記憶で刺す。
けれど、開けなければ次の条件が分からない。
条件が分からなければ、矛盾を掴めない。
陽菜は、辞典を開かなかった。
代わりに、掌を胸に当てた。
心臓が、まだ早い。
でもさっきより呼吸はできる。
原因が外にあると思うから怖い。
原因が内側なら、手が届く。
手が届くなら、解ける。
解けるなら――私は、ただの被害者ではない。
それは救いだ。
同時に、呪いだ。
責任が戻ってくるから。
陽菜は、暗い窓に映る自分を見た。
ちゃんとしている人の顔をしている。
でも、その顔の奥で、臆病が震えている。
「……明日、陸奥さんに会う」
陽菜は言い切った。
言い切りは、自分の足場を作る。
窓の外の新宿は、相変わらず美しい。
ネオンは星の代わりに瞬き、街は放熱し、正しさは配達され続ける。
何も変わらない。
だから怖い。
机の上の封筒の端が、わずかに浮いた。
風はない。
でも紙が、紙のままではいられないみたいに。
陽菜は、それを見なかったことにしなかった。
見た。
見て、息をした。
東京バベルは、今夜も塔を伸ばしている。
言葉を統一し、役割を配り、空欄を生むために。
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