第三話 配達員が余る夜【前編】
白い穴が、指先を呼んでいる。
配送先:——
空欄は、無垢ではない。
無垢の顔をした要求だ。
「ここに書け」と、言葉の形をした命令。
玄関の向こうで、丁寧な声が繰り返す。
「配送先を、入力してください」
敬語は、刃を布で包む。
布があるぶんだけ、刺されたときに痛みが遅れて来る。
遅れて来る痛みは、気づいたときには深い。
陽菜はドアに背中を預けた。
背中越しに、廊下の冷たさが染みてくる。
マンションの廊下は、いつも少しだけ外気より冷たい。
その冷たさは「共同生活の正しさ」だ。
個人の体温を奪い、同じ温度に揃えるための冷たさ。
揃う。
揃うという言葉が、怖い。
遠ざけたい。
配達員から。辞典から。空欄から。
何より、自分の中に生まれた痒みから遠ざけたい。
陽菜は、スマホの画面を伏せた。
伏せれば見えない。
見えなければ、存在しない。
そう思いたい。
でも、机の上の辞典が、ぱらりとページを鳴らした。
見ないふりをした瞬間、怪異は「見てもらえないなら触れる」と決める。
触れられると、存在する。
存在すると、責任が発生する。
責任。
アカウンタビリティ。
説明責任。
言葉が喉の奥に引っかかり、骨になる。
陽菜は、息を吸って吐いた。
肺の中の酸素が薄い気がする。
陸奥が言った。「言葉は酸素だ」と。
酸素が薄いと、思考が極端になる。
極端になると、他責が甘くなる。
――誰かのせいだ。
――店のせい。アプリのせい。辞典のせい。配達員のせい。
――私は悪くない。
その快楽が、舌の上で蜜みたいに広がった。
蜜は、ミツバチと塔の名前に似ている。
似ているのに、これは毒だ。
玄関の向こうの声が、少しだけ柔らかくなる。
「……お待たせしてしまい、申し訳ありません」
謝るな。
謝られると、こっちが悪い気がする。
陽菜は歯を噛みしめた。
「私、頼んでない」
声が出た。
言い切った。
言い切ると、少しだけ地面ができる。
でも返事は淡々としている。
「受注依頼があります」
「誰の」
「受注依頼があります」
会話が成立しない。
成立しない会話は、相手が人間じゃない証拠だ。
人間じゃない相手に、理屈は通じない。
理屈が通じないとき、人は“正しい言葉”の外側で息をするしかない。
陽菜は、机へ戻った。
辞典を睨む。
睨むというのは、相手を外に置こうとする行為だ。
外に置けば、距離ができる。
距離ができれば、責任を外へ投げられる。
辞典の『ゴーストオーダー』の項目が、黒い縁取りでこちらを見返している。
——依頼者なき過剰な注文。受け手の“役割”だけを食べる空腹。
——配送先の空欄は、受け手の内側に現れる。空欄を埋めた者が、配送先になる。
内側。
その二文字が、胸の奥に落ちた。
陽菜は、腹が立った。
怖いより先に、腹が立った。
内側って何?
私が悪いって言いたいの?
誰も悪くないのに、私が悪いことになるの?
正しさは、いつもそうだ。
誰も悪くないのに、誰かが悪くなる。
遠ざけたい。
この理屈から遠ざけたい。
けれど遠ざけるほど、空欄が増える気がした。
見ないふりは、怪異の餌になる。
陸奥の言葉が、胸の奥で小さく鳴った。
――「怖さを外注するな」
――「誰かのせいにすると、誰かの手に握られる」
握られる。
誰かの手に。
配達員の手に。
正しさの手に。
“最適化”の手に。
陽菜は、スマホをもう一度表に返した。
白い穴が、まっすぐこちらを見ている。
配送先:——
陽菜は思った。
外に原因があると思うから怖いのだ。
外にあるなら、手が届かない。
届かないなら、私はただ震えるしかない。
震えるしかないのに、誰かは「早く入力しろ」と言う。
――それが怖い。
原因が内側ならどうだ。
内側なら、手が届く。
手が届くなら、技術で解ける。
解けるなら、私は“ただの被害者”ではなくなる。
被害者でいるのは楽だ。
楽だから、甘い。
甘いから、罠だ。
「……私が、受け手」
陽菜は呟いた。
受け手。
受け取る人。
受け取る役割。
受け取ると決めた瞬間に成立する役割。
配達員は、役割を運ぶ。
運ぶ役割。
役割があるから存在する。
役割が消えれば、存在も消える。
陽菜の喉が鳴った。
ここで、陸奥の声がはっきり思い出された。
店の琥珀色の影と一緒に。
――「矛盾は敵じゃない。取っ手だ」
――「世界を持ち上げるために掴む場所だ」
取っ手。
掴めば、持ち上がる。
持ち上がれば、裏側が見える。
裏側が見えれば、条件が分かる。
条件が分かれば、成立を壊せる。
陽菜は、白い穴を見つめながら、ひとつの矛盾に触れた。
配達は、「送り主」と「宛先」が違うから必要になる。
違うから距離が生まれる。
距離があるから運ぶ者がいる。
運ぶ者がいるから“役割”が成立する。
では――
送り主と宛先が同じなら?
距離がない。
距離がないなら、運ぶ者はいらない。
運ぶ者がいらないなら、配達員は余る。
余った役割は、消える。
消える。
消えるという言葉が、怖さより先に美しく響いた。
美しいのは危険だ。
美しいものは、人を踏み出させる。
陽菜は指を、配送先欄へ置いた。
スマホのガラスが冷たい。
冷たいのに、指の奥が熱い。
外から声がした。




