第十五話 余白の呼吸(マージン・ブレス)【前編】
翌日の新宿は、いつもより静かだった。
静かなのは、音がないからじゃない。
音はある。車の走る音、人の話し声、店のBGM――全部ある。
でも、それが耳に入ってこない。
入ってこないのは、陽菜の内側がうるさいからだ。
三笠陽菜は、《塔の蜜蜂》の前に立っていた。
店のドアに、CLOSEDの札が掛かっている。
開店時間のはずなのに。
陽菜は、ドアを押してみた。
鍵が掛かっている。
陸奥が、店を閉めたまま消えた。
陽菜は、スマホを取り出して環に連絡した。
三回のコール音の後、環が出た。
「もしもし」
「環さん。陸奥さんが、いない」
「……店?」
「はい。閉まってます」
環の息を吸う音が聞こえた。
「十分で着く」
陽菜は、店の前で待った。
待つ間、何度もドアを見た。
ドアの向こうに、陸奥がいる気がした。
気がするだけで、いない。
いないことが、不安を膨らませる。
十分後、桐島環が来た。
黒いパーカー。息が少しだけ上がっている。
「愛紗美にも連絡した。すぐ来る」
「……ありがとうございます」
「裏口、見てみよう」
二人は、店の裏口へ回った。
裏口のドアは、半開きだった。
開いているのに、中から音がしない。
音がしないのが、怖い。
環が、先に入った。
陽菜が続く。
店内は、整っている。
椅子が並んでいる。カウンターが拭かれている。カップが洗われている。
全部、いつも通りだ。
でも、陸奥がいない。
伊吹愛紗美が、裏口から入ってきた。
ベージュのトレンチ。息が少しだけ乱れている。
「陽菜ちゃん、環」
「愛紗美さん」
愛紗美が、店内を見回す。
「……荒らされてない」
「はい」
「じゃあ、自分で出た」
環が頷く。
「逃げた、かも」
陽菜は、カウンターの奥を見た。
いつも陸奥が立っている場所。
そこに、布が置かれている。
布の置き方が、いつもと違う。
いつもより、丁寧に畳まれている。
愛紗美が、布を開いた。
布の下に、削除語辞典があった場所。
今は、何もない。
何もないのに――一枚の紙切れが残っている。
陽菜が、紙を取り上げた。
紙には、一文字だけ。
「白」
筆跡が乱れている。
急いで書いた文字。
急いで書いて、逃げた。
環が、紙を見て目を細める。
「これ、警告?」
愛紗美が首を振る。
「いや……逃げた、かも」
「逃げた……」
「『白』が来るから、って」
陽菜は、バッグから混成語辞典を取り出した。
灰色の表紙。
黒と白が混ざった色。
辞典を見ていて、気づいた。
「陸奥さん……これを、隠そうとしてた」
愛紗美が陽菜を見る。
「隠す?」
「この布」
陽菜は、カウンターの布を指す。
「いつもより丁寧に畳まれてる」
「……」
「まるで、何かを包もうとしてたみたいに」
環が、布を触った。
「たしかに。いつもは、もっと雑」
「私がこれを持って来ることを、知ってた」
陽菜の声が、少しだけ震える。
「そして、これを『白』から守ろうとした」
「でも……」
「間に合わなかった」
愛紗美が、店の外を見た。
外は、いつもの新宿。
人が歩いている。車が走っている。
でも、何かが違う。
「誰もいない。でも……」
愛紗美の声が低くなる。
「空気が、変」
「変……?」
「拭き上げられてる」
環が頷く。
「生活の匂いがしない」
「生活の……」
「規格の匂いだけがする」
環の目が、醒めている。
「『白』が、近くにいる」
陽菜は、辞典を開いた。
開くと、中央の余白に新しい文字が浮かんでいる。
自分で書いたのではない。
辞典が、勝手に書いた文字。
「保管者、対象」
その下に、もう一行。
「三ヶ月」
陽菜の喉が鳴った。
「保管者……」
「陸奥さん、だね」
愛紗美が短く言った。
「辞典を預かってたから、狙われた」
環が補足する。
「『白』は、混成語辞典を回収しようとしてる」
「回収……」
「たぶん、破棄するため」
陽菜の胸が、きゅっと縮む。
「……私のせいだ」
愛紗美が、陽菜の肩を叩いた。
「違う」
「でも――」
「陸奥さんは、陽菜ちゃんを守ろうとした」
愛紗美の目が、真っ直ぐだ。
「守ろうとして、逃げた」
そのとき、店のドアが開いた。
入ってきたのは――結城紗良。
髪の毛先が跳ねている。
ピンクのアクセサリー。
いつもの、紗良だ。
「陽菜、どうしたの。連絡くれたから」
紗良の声が、軽い。
軽いのに、目が心配そうだ。
陽菜が事情を説明する。
陸奥がいないこと。
紙切れの「白」。
辞典を守ろうとしたこと。
説明するたびに、陽菜の声が細くなる。
紗良の表情が、珍しく硬くなった。
「……陸奥さん、私のことも助けてくれたのに」
「うん」
「それで、消えた?」
「逃げた、と思う」
紗良が、カウンターの布を見る。
「じゃあ、探さないと」
環が首を振った。
「探せない」
「なんで」
「『白』から逃げた人は、見つからないように消える」
環の声が、低い。
「見つかったら、また連れて行かれる」
陽菜は、辞典をカウンター下の布に包んだ。
包んだ瞬間、辞典が震える。
震えは、いつもより強い。
まるで「ここにいたい」と言っているみたいに。
「じゃあ……」
陽菜は、布を見つめたまま言った。
「待つ。陸奥さんが戻ってくるまで」
紗良が首を傾げる。
「待つって……」
「この店、閉めたままにしない」
環の目が、少しだけ見開く。
「開けるの?」
「うん」
陽菜は顔を上げた。
「陸奥さんが戻ってきたとき、店がなくなってたら悲しい」
愛紗美が、小さく息を吸った。
「……陽菜ちゃん」
「怖いけど、やる」
陽菜の声が、震える。
震えるのに、止まらない。
紗良が、陽菜の肩を叩いた。
「私も手伝う」
「紗良……」
「だって、陸奥さんに助けてもらったし」
紗良の声が、少しだけ軽くなる。
「恩返し、したい」
愛紗美が頷く。
「私も」
環が肩をすくめる。
「俺も」
四人が、店を見つめる。
CLOSEDの札が、まだドアに掛かっている。
でも、明日はOPENに変える。
変えることが、待つことだ。
陽菜は、辞典を包んだ布を見た。
陸奥が戻ってくるまで、ここを守る。
それが、今できることだ。
窓の外、新宿の光が揺れている。
揺れているのは、風のせいかもしれない。
でも、風じゃないかもしれない。
どこかで、陸奥が息をしている。
息をしているなら、いつか戻ってくる。
陽菜は、それを信じることにした。
信じることは、技術じゃない。
でも、信じることが、今できることだ。




