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第二話 空欄は、内側にある【前編】

 新宿の夜風は、ビルの谷間で加速し、角を曲がるたびに質が変わる。

 歌舞伎町の甘い匂い、大久保の香辛料、駅前の消毒液、コンビニの揚げ油。都市の匂いは「混合物」だ。空気中の微粒子は、ただ漂っているわけではない。人間の選択を、ほんの少しだけ誘導する。

 匂いに引かれて足が伸びる。光に引かれて目が上がる。通知音に引かれて指が動く。

 つまりこの時代は、「自分で決めた気になっている」時代だ。


 三笠(みかさ) 陽菜(ひな)は、その“気になっている”を疑う癖があった。

 疑う癖があるから、外の正しさに頼る。

 頼るから、さらに疑う。

 疑いと依存が、互いの尻尾を噛んで輪になる。――自分の中に小さなバベルが建つ。


 店を出たあとも、封筒の軽さが肩から離れなかった。

 バッグの中で、紙が擦れる音がする。

 してはいけない。音がするはずがない。封筒は硬い紙で、動かしていないのに。


 陽菜(ひな)は歩幅を速めた。

 速く歩けば日常に戻れる、と体が信じている。

 帰宅、鍵、照明、歯磨き、ベッド。

 手順がある。手順は救いだ。

 救いは――棺でもある。陸奥(むつ)の言葉が、いやに綺麗に刺さって抜けない。


 駅のホームで待つ間、陽菜(ひな)は無意識にスマホを開いた。

 タイムラインが流れる。

 誰かが「炎上」を分析し、誰かが「共感」を演出し、誰かが「正義」を配達している。


 ——正しさは、無料で届く。

 届くのが速いほど、返品が難しくなる。

 陽菜(ひな)は封筒の存在を思い出し、画面を伏せた。


 早く帰って、開けてしまいたい。

 開けたら終わる。

 終わるなら、楽になる。

 楽になりたい。

 この矛盾が、胸の奥を掻きむしる。


 マンションのエントランスは、夜でも白い。

 清掃が行き届いた白は、生活の痕跡を消す。

 消すから安心する。

 でも消しすぎると、そこに「無」が生まれる。

 無は、何でも入る。

 陽菜(ひな)はそのことを、何度か身をもって知っている。


 エレベーターで上がる。

 鏡面の壁に自分が映る。

 目が疲れている。口角が下がっている。

 制服もないのに、どこか“役割の顔”をしている。

 「ちゃんとしている人」の顔。

 ちゃんとしていないと、誰かに怒られる気がする顔。


 部屋の前に着くと、隣の部屋のドアが少しだけ開いていた。

 そこから煙草の匂いが漏れてくる。


「あ」

 陽菜(ひな)が小さく声を出すと、隣人が顔を覗かせた。


 隣人――桐島環きりしま・たまき

 年齢は二十代後半くらい。長い髪を雑にまとめ、目の下に薄い隈。

 黒いパーカーに細身のデニム、裸足にサンダルという格好で、夜の廊下に立つのが似合いすぎている。

 役割は、隣人。たぶんそれ以上でもそれ以下でもない。

 特徴は、笑うのに目が笑わないこと。言葉が軽いのに、匂いが重いこと。


「遅いね。バイト?」

「……はい」

「真面目だ。真面目って、都市でいちばん損する才能だよ」

「損って……」

「だって、真面目な人が損しても、世界は真面目に謝ってくれない」

 桐島は煙草を指に挟んだまま、空を見上げる仕草をした。天井しかないのに。

「上はいつも、ちゃんとしてるふりをするからね」


 陽菜(ひな)はその言い方が苦手だった。

 何かを見透かす言葉は、正しいかもしれないのに、受け取る側の心臓を冷やす。

 正しさはときどき、凶器の形をする。


「……すみません、うるさかったですか」

「え? いや。うるさいのは廊下じゃなくて、頭の中じゃない?」

 桐島は笑った。

 笑いながら、陽菜(ひな)のバッグをちらりと見た。

「それ、なんか軽そうで重そう」

 陽菜(ひな)は反射でバッグを抱えた。

「……何でもないです」

「何でもないって言う人ほど、何でもある」

 桐島は煙草の火を消し、ドアを閉める前に囁いた。

「夜、変な音したら、無理に“意味”探さないでね。意味、見つけると住みつかれるから」


 ドアが閉まった。

 陽菜(ひな)は息を止めていたことに気づき、遅れて吐いた。

 隣人の言葉が、陸奥(むつ)の言葉と似た温度で胸に残る。

 違いは、陸奥(むつ)の言葉には「手順」があるのに、桐島の言葉は「予言」だけだということ。


 予言は怖い。

 手順は、もっと怖い。

 なぜなら手順は、自分に責任が返ってくるから。


 鍵を回し、部屋に入る。

 ワンルームの空気は、洗剤と古い木材と、冷えた布団の匂いが混ざっている。

 ここは日常だ。

 日常の匂いは、確かに肺に入る。

 肺に入ると、少しだけ生き返る。


 陽菜(ひな)は照明をつけ、バッグを机に置いた。

 封筒を取り出す。

 机の上に置いた瞬間、軽さが増した気がした。

 まるで「置かれた」ことを喜んでいるみたいに。


 ——距離を取りたい。

 ——遠ざけたい。

 ——でも、見たい。


 陽菜(ひな)は一度、手を洗った。

 意味が分からない行動だと自分でも思う。

 けれど手を洗うと、何かが“区切られる”。

 区切りがあると、日常が戻ってきたふりをしてくれる。


 椅子に座り、封筒の封を切る。

 紙が裂ける音が、やけに大きい。

 世界が静かすぎるからだ。


 中から出てきたのは、文庫本サイズの辞典。


『現代外来語辞典』


 黒い表紙。銀箔のタイトル。

 新品のように整った小口。

 なのに背表紙だけが柔らかい。

 何度も開かれた背中。

 そして決定的におかしいのは――匂いがないことだ。

 紙の匂いもしない。インクの匂いもしない。

 嗅覚から「曖昧」を奪い取った物体。


「……気持ち悪い」

 陽菜(ひな)は言い切った。

 言い切ると、少しだけ楽になる。

 言い切れないから苦しい。

 そのことを、陽菜(ひな)はようやく理解し始めている。


 辞典を開く。

 紙が鳴く。

 めくる音ではない。

 “紙が呼吸する”音だ。


 陽菜(ひな)はページをめくった。

 A、B、C――アルファベット順に並ぶカタカナの単語。

 普通の外来語辞典。

 ……のはずだった。


 「ロゴス」の項目で、指が止まった。

 説明の最後に、明らかに辞典の文体ではない一文が混ざっている。


——ロゴスは、世界が自分に似せて作る鏡である。


 陽菜(ひな)は眉を寄せ、文字をなぞった。

 活字は均一だ。印刷だ。

 それなのに、文字の周辺だけ空気が少し濃い。

 濃い空気が、指先にまとわりつく。


「……誰が書いたの」

 答えはない。

 辞典は辞典の顔をして、詩を吐く。


 陽菜(ひな)はスマホを手に取った。

 陸奥(むつ)にメッセージを送る。

 送るという行為そのものが、依存だと分かっている。

 依存だと分かっているのに、指が動く。


『さっきの封筒、中身が外来語辞典でした。差出人なし。匂いもしません。中身の文章が変です』


 送信。

 既読はつかない。

 深夜だから当然だ。

 当然なのに、既読がつかないと世界が不安定になる。

 陽菜(ひな)は自分を嫌いになりかけて、視線を辞典へ戻した。


 ページをめくる。

 「コンプライアンス」

 「アカウンタビリティ」

 「エビデンス」

 「ガバナンス」

 どれも最近よく聞く言葉だ。

 聞くたびに、胸の奥が痒くなる言葉だ。


 それぞれの項目の最後に、短い一文が刺さっている。


——コンプライアンスは、息継ぎを許さない鎧である。

——エビデンスは、涙を“データ”に干す布である。

——ガバナンスは、群れが一匹の影になる儀式である。


 陽菜(ひな)の喉が乾く。

 辞典は説明をしていない。

 説明ではなく、世界を断言している。

 断言が怖い。

 断言は確定だから。

 確定した瞬間に、戻れなくなる。


 陽菜(ひな)は辞典を閉じようとした。

 遠ざけたい。

 なのに、閉じる前にもう一つだけ見たくなる。

 “手癖”だ。

 曖昧が嫌いで、確定が怖い。

 その矛盾で生きている。


 そのとき、スマホが震えた。


 ブブ……ブブ……

 短い振動。通知。


 画面を見る。

 配達アプリのアイコン。


【受注依頼】

店舗:ミツバチと塔

商品:カフェラテ(ホット)×1

受取時間:今すぐ

配送先:——

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