第十四話 逆行の湿度(リワインド・ヒューミディティ)【後編】
矛盾の借用語辞典を下に。
削除語辞典を上に。
重ねた瞬間――
表紙が、溶け合い始めた。
黒と白が、混ざる。
混ざって、灰色になる。
灰色が、さらに混ざって、別の色になる。
色は、言葉にできない。
言葉にできない色は、矛盾の色だ。
陽菜の手が、熱い。
熱いのに、痛くない。
熱は、紙から来ている。
紙が、生きている。
二冊が、完全に融合した。
新しい一冊が、陽菜の手の中にある。
表紙は灰色。
でも、灰色の中に黒と白が揺れている。
タイトルが、浮かび上がる。
混成語辞典
陽菜は、その一冊を開いた。
開くと、左ページに「外来語」。
右ページに「削除された言葉」。
そして中央の余白に――
何も書かれていない。
白い余白。
その余白が、陽菜を待っている。
待っているのは、書き込みだ。
環が、低く言った。
「左に、分類語。右に、固有名。中央に、矛盾を書く」
陽菜は、震える手でペンを取り出した。
ペンの先が、紙に触れる。
触れた瞬間、紙が熱を持つ。
陽菜は、左ページに書いた。
――友達
外来語。friend。
分類語。
丸い言葉。
次に、右ページに書いた。
――結城紗良
固有名。
一人しかいない名前。
角がある言葉。
そして――中央の余白に、陽菜は書いた。
――友達という分類と、結城紗良という固有名は、同時に成立する。
書いた瞬間、辞典が光った。
光は白い。
白いのに、冷たくない。
温かい光だ。
温かい光は、生きている証拠だ。
陽菜は、辞典を紗良に向けた。
向けた瞬間、紗良の手首の札【C-07】が、ぐにゃりと歪んだ。
歪むのは、成立条件が崩れたからだ。
安全サポートたちの立ち姿が、乱れ始めた。
肩の高さが、左右でズレる。
つま先の角度が、バラバラになる。
揃っていた動きが、崩れる。
「処理不能」
「矛盾が、消えない」
「削除、完了しない」
陽菜は、紗良の手首に手を伸ばした。
手を伸ばして、札を剥がす。
剥がれた札は、空中で灰になって消えた。
紗良の髪の毛先が、ぱっと跳ねた。
服の色が、ベージュから少しだけピンクに戻る。
目に、色が戻る。
角が戻る。
「……陽菜」
紗良の声が、軽くなった。
「私、変なとこいた?」
いつもの口調。
軽いのに、目が本気の口調。
陽菜の喉が、熱くなった。
熱くなるのは、涙が来るからだ。
でも、泣かない。
泣くと、言葉が出なくなる。
「……いたよ。すごく変なとこ」
陽菜は笑った。
「でも、もう大丈夫」
紗良が、陽菜の手を握った。
握る手が、温かい。
温かいのは、生きているからだ。
安全サポートたちが、後退し始めた。
後退の仕方が、揃わない。
揃わないのは、システムが壊れた証拠だ。
「配置、中断」
「再処理、不能」
「撤退します」
白い制服たちは、整然と去った。
去り方は、まだ完璧だ。
完璧なのが、逆に怖い。
陽菜は、手の中の混成語辞典を見た。
辞典が、少しだけ軽くなっている。
軽くなるのは――
ページが、減っている。
開くと、左ページも右ページも、半分だけ白紙になっていた。
使った分だけ、消えた。
愛紗美が、横で小さく言った。
「……使い捨て、だったんだ」
陽菜は、辞典を抱きしめた。
抱きしめても、もう震えない。
震えないのは、役目を終えたからだ。
環が、出口を指す。
「逃げよ」
陽菜は、紗良の手を引いた。
「行こう」
「……うん」
紗良の声に、少しだけ角が戻った。
四人は、地下街を走った。
走りながら、陽菜は混成語辞典を抱えている。
重い。
重いのに、軽くなった。
地上へ出ると、外の空気が顔に貼りつく。
夜の新宿は、相変わらず光が多い。
光が多いのに、息ができる。
息ができるのは、紗良がいるからだ。
紗良が、立ち止まって言った。
「……ごめん」
「え?」
「迷惑、かけた」
紗良の声が、少しだけ沈む。
陽菜は、首を振った。
「迷惑じゃない」
「でも――」
「紗良が、紗良でいてくれたら、それでいい」
紗良が、少しだけ笑った。
笑い方が、軽い。
軽いのに、目が本気だ。
「……陽菜、ありがと」
「ありがとって、言わないで」
「なんで」
「返す言葉が、なくなる」
紗良が、もう一度笑った。
今度は、声を出して笑った。
その笑い声が、夜の空気を少しだけ温める。
愛紗美が、肩をすくめた。
「じゃ、今日はここまで」
「ここまで……?」
「うん。紗良ちゃんは、ちゃんと帰って」
愛紗美は真面目な顔をする。
「今夜は、一人で寝ないで。誰かと一緒にいて」
紗良が頷く。
「……分かった」
環が、別の方向を指す。
「俺も、帰る」
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
環は笑わない。
笑わないけれど、目が少しだけ柔らかい。
四人が別れる。
陽菜は、混成語辞典を抱えて歩いた。
重い。
重いのに、軽くなった。
マンションに戻ると、部屋に入る。
鍵をかける。
照明をつける。
机の上に、混成語辞典を置く。
置いた瞬間、辞典が微かに震えた。
震えは小さい。
でも、確かに震えた。
まるで、「お疲れ」と言っているみたいに。
陽菜は、メモ帳を開いた。
紗良の記録。
髪の色。口癖。好きな場所。
全部、まだそこにある。
消えていない。
消えていないのは、紙に書いたからだ。
紙は、湿りを持てる。
湿りがあるから、完全には消えない。
陽菜は、窓の外を見た。
新宿の夜が、いつも通り光っている。
ネオンが瞬き、看板が輝き、街が放熱している。
その光の中で、陽菜だけが少しだけ息をついた。
今日は、守れた。
紗良を、取り戻せた。
それだけで、十分だった。
陽菜は、辞典を撫でた。
撫でると、紙が温かい。
温かいのは、まだ生きているからだ。
窓の外、どこかのオフィスビルで灯りが一つ、消えた。
消えただけ。
それ以上、何も起きない。
陽菜は、ベッドに横になった。
横になると、肩の力が抜ける。
抜けると、遅れて疲れが来る。
疲れが来ると、眠くなる。
眠くなるのは、生きている証拠だ。
陽菜は、目を閉じた。
閉じた瞬間、紗良の笑い声が聞こえた気がした。
聞こえたのは、錯覚かもしれない。
でも、錯覚でもいい。
その声が、まだそこにあるなら。
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