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第十四話 逆行の湿度(リワインド・ヒューミディティ)【前編】

 翌日の夜は、雨の匂いがした。

 降っていないのに、空気が湿っている。

 湿りは、雲が低く垂れ込めているからだ。雲が低いと、街の光が反射して空が赤く見える。赤い空は、何かが起きる前の色だ。


 三笠(みかさ)陽菜(ひな)は、二冊の辞典を抱えて新宿駅へ向かっていた。

 矛盾の借用語辞典デュエリング・シールド削除語辞典ホワイトアウト・レキシコン

 二冊は、バッグの中で微かに震えている。

 震えは、共鳴だ。

 共鳴は、混ざりたがっている証拠だ。


 スマホの時刻表示は、19時47分。

 LOG 5/7の自動再生まで、あと13分。

 13分後、紗良が外出する様子が映る。


 そして――紗良は、ここへ来る。


 駅の構内は、いつもより人が多い気がした。

 多いのに、視線が合わない。

 誰もが下を向いて、スマホを見ている。

 スマホの光が、顔を青白く照らす。

 青白い顔が並ぶと、街が水族館みたいに見える。


 改札を抜けて、地下街へ降りる。

 階段の踊り場で、伊吹(いぶき)愛紗美(あさみ)が待っていた。

 ベージュのトレンチ。汚れた白いスニーカー。

 でも、今日は少しだけ表情が硬い。


「陽菜ちゃん、来た」


「……はい」


「辞典、持ってる?」


「持ってます」


 陽菜はバッグを見せた。

 愛紗美が頷く。


「いい。……(たまき)は、もう現場にいる」


「現場……」


「LOG 3の足音から特定した場所」


 愛紗美は地下街の奥を指す。


「あっち。人が避ける区画」


 二人は、地下街を歩いた。

 天井が低い。

 低いから、音が反響する。

 足音、話し声、店の音楽――全部が重なって、耳の奥で渦を巻く。

 渦の中で、陽菜の呼吸だけが浅くなる。


「ね、陽菜ちゃん」


 愛紗美が歩きながら言った。


「混成、怖い?」


「……怖いです」


「怖いって言えるなら、大丈夫」


 愛紗美は肩をすくめる。


「怖くないって言う人の方が、危ない」


 陽菜は、バッグの中の辞典を見た。

 二冊が、また震えた。

 震えるたびに、陽菜の手が少しだけ熱くなる。

 熱は、辞典から伝わってくる。

 紙なのに、体温を持っている。


 地下街の突き当たりに、白いフェンスで区切られた区画があった。

 フェンスには、何も書かれていない。

 書かれていないのに、人の流れがそこを避ける。

 避け方が、昨日のトー横と同じだ。

 揃いすぎている。


 フェンスの内側に、桐島(きりしま)(たまき)がいた。

 黒いパーカー。目が醒めている。

 環が手招きする。


「来た。早い」


「……ここ?」


「うん。LOG 3の足音、ここで録音されてる」


 環は地面を指す。


「反響パターンが一致した」


 陽菜は、フェンスの内側を見た。

 そこは、待合室のようになっている。

 椅子が並んでいる。

 椅子の角度が、完璧に揃っている。

 床にゴミ一つない。

 拭き上げられた清潔さ。

 清潔すぎて、息苦しい。


「……ここに、紗良が来る」


 陽菜は呟いた。


「来たら、どうするんですか」


「混成」


 愛紗美が短く言った。


「二冊を混ぜて、紗良ちゃんの名前を守る」



 そのとき――陽菜のスマホが震えた。


 震えたのに、音がしない。

 画面が勝手に点灯する。


【LOG 5/7】

【自動再生開始】


 動画が始まる。

 紗良が、玄関を出る。


 服装が――変わっている。


 いつもの派手なピンクのアクセサリーがない。

 服は、ベージュ。白。薄いグレー。

 安全な色に統一されている。

 紗良の表情が、丁寧すぎる。

 笑顔が、丸い。

 角がない。


 動画の中で、紗良が歩き出す。

 歩き方が、いつもより遅い。

 遅いのに、一定だ。

 一定すぎる歩き方は、人間の癖を失っている。


 画面の下に、コメント欄が流れる。


『安全第一で』


『個人情報の保護を』


『適切な行動ですね』


 その中に、また異質なコメント。


『六日目、移動開始』


 アカウント名が、空欄。

 投稿時刻は、たった今。


「……来る」


 環が低く言った。


「もうすぐ、ここに」


 陽菜は、バッグから二冊の辞典を取り出した。

 矛盾の借用語辞典デュエリング・シールド削除語辞典ホワイトアウト・レキシコン

 二冊が、さらに強く震える。

 震えは、もう共鳴じゃない。

 混ざろうとする衝動だ。


「……今、混ぜるんですか」


 陽菜が聞くと、愛紗美は首を振った。


「まだ。紗良ちゃんが来てから」


「来てから……?」


「うん。混成は、一回しか使えない」


 愛紗美の声が、低くなる。


「タイミングを間違えたら、終わり」


 陽菜は、二冊を抱きしめた。

 抱きしめると、少しだけ温かい。

 温かいのに、怖い。

 怖いのは、これが最後かもしれないからだ。


 そのとき――地下街の奥から、足音が聞こえた。


 一定のリズム。

 遅い。

 遅いのに、止まらない。

 機械的な足音。


 陽菜は、息を止めた。

 止めた瞬間、視界の端に人影が見えた。


 紗良だ。


 ベージュの服。

 白いスニーカー。

 髪は、いつもの茶色なのに、毛先が跳ねていない。

 真っ直ぐに、揃えられている。

 紗良が、こちらへ歩いてくる。

 歩きながら、笑顔を浮かべている。

 でも、笑顔が丸い。

 角がない。

 いつもの紗良じゃない。


「……陽菜ちゃん」


 紗良が、丁寧な声で言った。


「来てくれたんだ。ありがとう」


 ありがとう、という言葉が冷たい。

 冷たいのは、感情がないからだ。


 陽菜の喉が鳴った。


「紗良……」


「私、ここ、安全だよ」


 紗良は待合室を指す。


「整理されてて、安心する」


「……」


「一緒に、ここにいよ」


 陽菜の胸が、きゅっと縮む。

 紗良の声は優しい。

 優しいのに、命令の形をしている。


「紗良、帰ろう」


 陽菜は言い切った。


「ここ、紗良の場所じゃない」


「場所……?」


 紗良が首を傾げる。

 傾げ方が、機械的だ。


「ここが、私の場所だよ」


「違う」


 陽菜は一歩、前へ出た。


「紗良の場所は、もっと散らかってる」


「散らかってる……?」


「うん。代官山とか、自由が丘とか、トー横とか」


 陽菜は言葉を探す。


「誰にも伝わらないTシャツを着て、笑ってた」


 紗良の表情が、一瞬だけ揺れた。

 揺れは小さい。

 でも、確かに揺れた。


「……Tシャツ?」


「そう。『伝わらないのは自由』って、紗良が言った」


 紗良の目に、少しだけ色が戻る。

 戻るのは一瞬だ。

 すぐに、また丸い笑顔に戻る。


「……私、そんなこと言ったかな」


「言った」


 陽菜は、ポケットからメモ帳を取り出した。

 そこに書いた、紗良の記録。

 陽菜は、声に出して読む。


「髪は、明るすぎない茶。毛先が跳ねる」


 読んだ瞬間、紗良の髪の毛先が、ほんの少しだけ動いた。

 動くのは風じゃない。

 記憶が、形を取り戻そうとしている。


「口癖は『脳の湿り』『伝わらないのは自由』」


 紗良の唇が、わずかに動く。

 動きは無意識だ。

 無意識が、まだ残っている。


「代官山で、誰にも伝わらないTシャツを着て回った」


 紗良の目が、少しだけ見開く。


「自由が丘の坂の上で『名前って、持たれてるかな』って言った」


 紗良の表情が、崩れ始める。

 丸い笑顔が、少しだけ角を持つ。

 角を持つと、人間に戻る。


「……陽菜」


 紗良の声が、少しだけ軽くなった。


「私……」


 そのとき――


 待合室全体が、白く光った。


 光は眩しい。

 眩しいのに、熱くない。

 冷たい光だ。

 冷たい光は、情報の光だ。


 壁のデジタル時計が、日付を変える。


【7/7】


 七日目。

 その瞬間、機械的な音声が流れた。


「七日目、到着します」


「配置完了。中央へ移動します」


 陽菜の背中に、冷たい汗が浮く。

 七日目が、来た。

 来たのが早すぎる。

 まだ、20時を過ぎたばかりなのに。


 待合室の奥から、白い制服の集団が現れた。

 全員、同じ立ち方。

 同じ歩き方。

 同じ声の高さ。

 安全サポートの、大量出現。


「配置完了。中央へ移動します」


「配置完了。中央へ移動します」


「配置完了。中央へ移動します」


 声が重なる。

 重なるのに、ズレない。

 ズレないのが、不気味だ。


 紗良の手首に、白い札が貼られていた。


【C-07】


 陽菜の胃が冷える。

 札。

 配置の札。

 紗良が、物として扱われている。


「……やめて」


 陽菜の声が震えた。


「紗良は、物じゃない」


 安全サポートの一人が、陽菜を見た。

 見る目に、感情がない。


「配置対象です」


「配置対象って……」


「適切に配置します。ご協力を」


 愛紗美が、陽菜の肩を叩いた。


「今」


「……今?」


「混成。今しかない」


 陽菜は、二冊の辞典を見た。

 矛盾の借用語辞典デュエリング・シールド削除語辞典ホワイトアウト・レキシコン

 二冊が、激しく震えている。

 震えは、もう抑えられない。

 混ざりたがっている。


 陽菜は、二冊を重ねた。

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