第十三話 記録の湿り(ログ・モイスチャー)【後編】
「……これ、開いたら」
陽菜の声が震えた。
「紗良を救う方法、載ってますか」
愛紗美と環が、同時に陽菜を見た。
見る目が、冷たい。
冷たいのは、優しさの裏返しだ。
「載ってる」
環が先に言った。
「でも、開いたら終わり」
「終わり……?」
「その辞典、『削除された後』しか載らない」
環は目を細める。
「つまり、紗良ちゃんの名前が載った時点で――もう手遅れ」
陽菜の指が、布を握りしめた。
握りしめた指が、冷たい。
「開いても、無駄なんですか」
「無駄じゃない」
愛紗美が言った。
「でも、開くタイミングが違う」
「タイミング……」
「今開いたら、『削除の記録』が見えるだけ。それじゃ、紗良ちゃんは戻らない」
陽菜は、辞典を抱きしめた。
抱きしめると、少しだけ温かい。
温かいのに、中身は冷たい気がする。
そのとき、陽菜のポケットに入っていた外来語辞典が、微かに震えた。
震えは小さい。
でも、確かに震えた。
陽菜は、外来語辞典を取り出した。
黒い表紙。銀箔のタイトル。
匂いがない辞典。
この辞典で、陽菜は何度も矛盾を作ってきた。
「……これも、震えた」
陽菜が言うと、愛紗美が目を見開いた。
「二冊、持ってる?」
「はい」
愛紗美は、少しだけ考える仕草をした。
考えながら、何かを思い出すみたいに目を細める。
「……前に聞いたことがある」
「何を」
「『対になる混成怪異は、惹かれあい混ざりたがる』って」
愛紗美は陽菜を見る。
「並べてみて」
陽菜は、テーブルの上に二冊を並べた。
左に矛盾の借用語辞典。
右に削除語辞典。
二冊が、微かに共鳴する。
紙が、同じ周期で呼吸する。
環が、息を吸った。
「……これ」
「何ですか」
「会話している」
環はテーブルに手を置き、二冊の辞典を見る。
「二冊、同じ周期で震えてる」
愛紗美が、二冊の間に指を置いた。
指を置いた瞬間、空気が少しだけ動く。
「……ね、陽菜ちゃん」
愛紗美の声が、いつもより真剣だ。
「これ、重ねてみて」
「重ねる……?」
「うん。二冊、ぴったり重ねて」
陽菜は、震える手で二冊を重ねた。
矛盾の借用語辞典を下に。
削除語辞典を上に。
重ねた瞬間――表紙が、溶け合うように一体化し始めた。
陽菜の手が、熱い。
熱いのに、痛くない。
熱は、紙から来ている。
二冊が、融合しようとしている。
「……何が起きてるんですか」
陽菜の声が震えた。
「混ざってる」
環が短く言った。
「二冊が、混ざろうとしてる」
愛紗美が、テーブルから手を離した。
離した瞬間、融合が止まる。
止まるのは、完全に混ざる前だ。
二冊は、まだ別々の本として存在している。
でも、表紙の境界が曖昧になっている。
黒と白が、灰色に滲んでいる。
「……混ぜるんですか」
陽菜が聞くと、愛紗美は頷いた。
「たぶん、それが答え」
「答え……」
「矛盾と」
愛紗美は左の辞典を指す。
「記録」
右の辞典を指す。
「でも、どっちも単独じゃ足りない」
環が補足した。
「矛盾を作っても、消される。記録しても、遅すぎる」
「……」
「だから、混ぜる」
環の目が、少しだけ光る。
「矛盾を作りながら、同時に記録する」
陽菜の喉が鳴った。
「同時に……」
「うん。削除の瞬間に、『矛盾が存在した証拠』を残す」
愛紗美は二冊を見つめる。
「そうすれば、削除が完了しない」
陽菜は、二冊の辞典を見た。
黒と白。
矛盾と削除。
外来語と、消された言葉。
それが混ざると――何になる?
「……でも」
陽菜は言いかけて、言葉を探す。
「混ぜたら、戻せないですよね」
「戻せない」
環が断言した。
「混ぜたら、元の二冊には戻らない」
愛紗美が、陽菜の目を見る。
「それでも、やる?」
「……」
「やらなくても、誰も責めない。これ、陽菜ちゃんの辞典だから」
陽菜は、メモ帳を見た。
そこに書いた、紗良の記録。
笑い方。歩き方。好きな食べ物。
全部、陽菜が覚えている紗良。
でも、覚えているだけじゃ、紗良は戻らない。
「……やります」
陽菜は言い切った。
「紗良を、戻したい」
愛紗美が頷く。
環が、小さく笑った。
「じゃ、混ぜよ」
「……今?」
「今じゃない。明日」
環はスマホの画面を見せる。
LOG 5/7の予告が、すでに表示されている。
【LOG 5/7】
【明日、20時、自動再生】
「五日目、外出」
環が言った。
「明日の夜、紗良ちゃんは新宿に来る。そこで、混成を試す」
「混成……」
「二冊を混ぜた、新しい一冊」
環の声が、少しだけ低くなる。
「それが、陽菜ちゃんの武器になる」
陽菜は、二冊の辞典を抱きしめた。
重い。
二冊分の重さ。
でも、重いから頼れる。
カフェを出ると、外の空気が顔に貼りつく。
夜の新宿は、相変わらず光が多い。
光が多いのに、息が浅くなる。
浅くなるのは、明日への恐怖だ。
「じゃ、今日はここまで」
愛紗美が言った。
「陽菜ちゃん、ちゃんと寝て」
「……寝れますかね」
「寝れなくても、横になって」
愛紗美は肩をすくめる。
「横になるだけで、身体は少しだけ回復する」
環が、別の方向を指す。
「俺、もうちょっと調べる」
「調べる……?」
「足音の続き。LOG 5が来る前に、場所を特定しとく」
環は笑わない。
「明日、遅れたら意味ないから」
三人が別れる。
陽菜は、一人で帰路につく。
辞典を二冊、抱えて。
重い。
重いのに、手放せない。
マンションに戻ると、部屋の前で立ち止まった。
隣の部屋のドアが、少しだけ開いている。
陽菜は、自分の部屋に入る。
鍵をかける。
照明をつける。
机の上に、二冊の辞典を並べる。
並べた瞬間、また共鳴する。
紙が、呼吸する。
陽菜は、メモ帳を開いた。
紗良の記録を、さらに書き足す。
――声の高さ:少し低い。笑うと高くなる
――癖:考えるとき、髪を触る
――好きな時間:夕方。「昼と夜の間が好き」
書くたびに、紙が汗を吸う。
吸うたびに、紗良が近くなる。
近くなるのに、遠い。
遠いから、追いかける。
窓の外、新宿の夜が光っている。
同じ夜。
新宿のどこかのオフィスビル。
スーツ姿の人物が、モニターを見ている。
画面には、陽菜の顔と、二冊の辞典。
そして――
【混成候補:確認】
【評価:S】
【監査対象:追加】
人物が、小さく笑った。
「面白い」
笑い声は軽いのに、空気の密度が上がる。
陽菜の部屋で、二冊の辞典がまた震えた。
震えは小さい。
でも、確かに震えた。
まるで、明日を待っているみたいに。
陽菜は、辞典を見つめた。
見つめながら、小さく呟く。
「……紗良、待ってて」
呟いた声は、誰にも届かない。
届かないのに、紙が震える。
震えは、応答だ。
夜は、まだ長い。
長いのに、明日はすぐに来る。
明日が来たら、混成を試す。
試して、紗良を取り戻す。
取り戻せなかったら――
陽菜は、その先を考えなかった。
考えると、呼吸が止まる。
代わりに、メモ帳を握りしめた。
紙が、掌の汗を吸う。
吸ってくれる媒体があるから、まだ生きられる。
内側の靄が、まだ濃い。
濃いのに、呼吸はできる。
呼吸ができるなら、まだ戦える。
最後までお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「先が気になる」と感じていただけましたら、画面下にある**【ブックマークに追加】や、【評価(☆☆☆☆☆を★★★★★に)】**で応援をいただけますと幸いです。
読者の皆様の評価が、何よりの執筆の励みになります。 次回の更新も、どうぞよろしくお願いいたします。




