第十二話 空欄の配置(ゼロ・レイアウト)【後編】
夕方。
《塔の蜜蜂》へ戻ると、店の匂いが肺の奥に届いた。
甘い。焦げる。湿っている。
コーヒーの香りに、蜂蜜の琥珀色が混ざる。
それだけで、世界が少しだけ「生活」に戻る。
カウンターの奥に、陸奥がいた。
濃紺のエプロン。乾いた指先。体温のない静けさ。
でも、その静けさは「拭き上げられた白」じゃない。
人間の静けさだ。
「お帰り」
陸奥が短く言った。
「顔、白い」
「……言わないでください」
「事実だ」
陽菜は椅子に座る。座った瞬間、肩の力が抜ける。
抜けると、遅れて疲れが来る。
愛紗美が、カウンターに肘をついた。
「陸奥さん。予想、当たり」
「……配置、か」
「うん。物を並べるみたいに、人を整理してる」
陸奥は、何も言わずマグを拭いた。
拭く動作が遅い。遅いのに正確だ。
「七日間で、完了する」
陸奥が低く言った。
「七日目には、"中央"へ運ばれる」
陽菜の喉が鳴った。
中央。
さっきのコメント欄にあった言葉。
「中央って……」
「全部の配置の基準点だ」
陸奥はマグを棚に戻し、ようやく陽菜を見る。
目が冷たい。冷たいのに、店の湿りは守っている目だ。
「ここから距離が測られ、役割が分配される」
「……」
「中央に置かれたものは、動かせない。動かさないことが、安全の証明になる」
陽菜の胸の奥で、靄がさらに濃くなる。
動かせない。
その言葉が、紗良の笑顔を連れてくる。
紗良は、動く子だ。
代官山、自由が丘、トー横、下北沢。
街を動いて、誰にも伝わらないものを探して、軽く笑う子だ。
その紗良が、動かせない場所に――。
「……やめて」
陽菜の声が震えた。
「紗良を、そんなところに置かせたくない」
「なら、七日目が来る前に止めろ」
陸奥は言い切った。
慰めない。
慰めない代わりに、技術を置く。
「ログを、逆に辿れ」
「逆……?」
「記録は『到着』を作るために残される」
陸奥の声が、さらに低くなる。
「なら、到着を『未完』にすれば、ログが成立しない」
陽菜は息を吸った。
吸える。
吸えるなら、言い切れる。
「……行きます」
愛紗美が、横で笑わずに言った。
「迎えに行くの?」
「待ったら、"到着"させられる」
陽菜は言い切った。
「止めに行く」
愛紗美は肩をすくめた。
「じゃ、付き合う。止まるかは知らないけど」
「……本当に怖がらせるの上手いですね」
「違うよ。重くならない言い方してるだけ」
そのとき、ドアベルが鳴った。
カラン、とガラスの薄い音。
入ってきたのは、桐島環だ。
黒いパーカー。濡れていない髪。
でも、目だけが妙に醒めている。
「おー。戦闘態勢?」
環が軽く言った。
「俺も行く。……紗良ちゃん、放っとけない」
「放っとけないって……」
「趣味」
環は笑わない。
「角が多い子、見捨てたくない」
陽菜は、環の言い方に少しだけ救われる。
善意じゃない。嗜好だ。
嗜好で動く人間は、裏切らない。
陸奥が、カウンターの下から一冊の本を取り出した。
布で包まれた、硬い装丁。
《ホワイトアウト・レキシコン》。
削除語辞典。
陽菜の舌が、少しだけ痺れた。
言葉のはずなのに、粉の味がする。
「……これ」
「持っていきなさい」
陸奥は短く言った。
「ただし、開くな」
「開くな……?」
「調べるな。調べたがると、向こうが書く」
「書く……?」
「墓標は、名前が増えるほど重くなる」
陽菜の胸が、また縮む。
墓標。
その言い方が、冷たい。
でも、冷たいから頼れる。
優しさは、時々、甘すぎて喉を詰まらせる。
陽菜は布に包まれた辞典を受け取った。
重い。
重いのに、持つと少しだけ安心する。
武器ではない。でも、何かの盾になる気がした。
陽菜は、ポケットから小さなメモ帳を出した。
スマホじゃない。紙だ。
湿りを持てる媒体。
そして、震えない字で書く。
――結城紗良。
書いて、指でなぞる。
掴むための棘を、自分で作る。
愛紗美がそれを見て、軽く頷いた。
「その角、持っとけ」
環が、店の窓の外を見た。
「……そろそろ夜」
「夜?」
「LOG、夜に増える。昼は整理の時間。夜は配置の時間」
環の言い方が、妙に正確だ。
正確すぎて、怖い。
陽菜は、スマホの画面を見た。
LOG 3/7のサムネイル。
白い廊下。
人の影。
そして、コメント欄の一行。
『七日目、中央』
陽菜の喉が、また乾く。
乾きが、次の場所を指す。
外の光が、少しだけ落ちた。
夕暮れの光は、昼の拭き上げられた白と、夜の湿った黒の間にある。
間にあるから、まだ息ができる。
陽菜は、メモ帳を握りしめた。
紙が、掌の汗を吸う。
吸ってくれる媒体があるから、まだ生きられる。
「……行こう」
陽菜は立ち上がった。
愛紗美が頷く。
環が笑わない。
陸奥が、何も言わずマグを拭く。
その「何も言わない」が、いちばんの応援だった。
ドアを開ける。
外の空気が、顔に貼りつく。
夕暮れの街は、まだ拭き上げられていない。
生活の匂いが、ほんの少しだけ残っている。
その匂いを吸いながら、陽菜は歩き出した。
紗良を、止めに行く。
到着させない。
中央へ、運ばせない。
内側の靄が、まだ濃い。
濃いのに、呼吸はできる。
呼吸ができるなら、まだ戦える。
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