第十二話 空欄の配置(ゼロ・レイアウト)【前編】
冬の光は、湿気を嫌う。
雨上がりの翌日、空気中の水滴が蒸発して視界が開けると、街は一段だけ輪郭を取り戻す。取り戻した輪郭は綺麗だ。綺麗なのに、息苦しい。
輪郭がはっきりしすぎると、曖昧が逃げ場を失う。曖昧が逃げ場を失うと、人間は「ここ」か「そこ」かを選ばされる。選ばされる速度が速いほど、呼吸の間が薄くなる。
三笠陽菜は、トー横へ向かう道を歩いていた。
横には伊吹愛紗美。ベージュのトレンチに、汚れた白いスニーカー。歩き方は雑なのに、軸がぶれない。
「ね、陽菜ちゃん。息、浅い」
愛紗美が軽く言った。
「……分かります?」
「分かるよ。肩の上がり方」
陽菜は意識して息を吸った。吸える。吸えるのに、吸ったあとに置く間が薄い。
間が薄いのは、恐怖だ。
恐怖があるから、身体が先に縮む。
「落ちたら拾うから」
愛紗美はそう言って肩をすくめた。
無責任な言い方なのに、妙に頼れる。
スマホの画面に、LOG 2/7が開いたままになっている。
動画のサムネイルは白い廊下。
どこか分からない。それが怖い。
場所が分からないのではなく、場所の「枠」だけあって、中身が空欄になっている。
位置情報欄。
――
ただの空白記号じゃない。
そこに「あるべきもの」が抜かれた痕だ。
「LOG 2、何回見た?」
愛紗美が聞く。
「……三回」
「三回で止めたの、えらい」
「えらい……?」
「うん。見すぎると、向こうに『見られてる』って伝わる」
陽菜の喉が乾く。乾きは、恐怖が喉を通る音だ。
トー横の裏手に入る。
普段なら人通りが多い場所のはずだ。昼でも夜でも、誰かが立ち話をして、誰かが座り込んで、コンビニ袋の音が混ざる場所。
今日は――誰もいない。
いないのではなく、避けられている。
人の流れが、ここだけ迂回する。迂回の仕方が妙に揃っている。躊躇の角度まで同じに見える。
「……これ」
陽菜の声が細くなる。
「あの白手袋がいた日と、同じ」
「うん」
愛紗美は頷いた。頷き方が軽い。軽いのに、目だけは仕事の目だ。
「靄の店は、『戻りたい』を餌にした。こっちは――」
愛紗美は路地の奥を顎で示す。
「『安全』を餌にしてる」
路地の突き当たりに、白いフェンスで区切られた区画がある。
フェンスには何も書かれていない。
書かれていないのに、人はそこを避ける。
陽菜は一歩、区画へ近づいた。
近づいた瞬間、空気が変わる。
匂いがしない。
匂いがしない、というのは正確じゃない。
生活の匂いがしない。排気ガス、食べ物、汗、煙草、コンクリートの湿り――そういう「ここに人がいた」痕跡の匂いが、全部消されている。
代わりにあるのは、拭き上げられた床の匂い。
洗剤でもない。消毒液でもない。
ただ「汚れが無い」ことを示す、規格の匂いだ。
「……気持ち悪い」
陽菜は呟いた。
「そう言えるなら、まだ大丈夫」
愛紗美が言った。
「違和感を飲み込むと、そこに住み始める」
陽菜はフェンスの柱を見た。
柱の表面に、画鋲の跡がある。
四つ。四隅に規則正しく。
でも――紙がない。
「……貼ってあった」
陽菜は指で画鋲の跡をなぞる。
金属の穴だけが、確かに残っている。
「剥がした跡、ある?」
愛紗美の声が低くなる。
「……ない」
糊の跡もない。
紙の繊維もない。
四角い日焼けの痕もない。
貼られていたはずの証拠が、画鋲の金属だけだ。
金属は嘘をつかない。嘘をつかないから、余計に怖い。
「これ」
愛紗美が短く言った。
声のトーンが落ちる。落ちた声は、確信の重さだ。
「『剥がした』じゃない。『最初から貼ってないことにした』やつ」
陽菜の胃が冷える。
下北沢の白手袋を思い出す。
目印を消す手つき。丁寧すぎる手つき。
あれと、同じ匂いがする。
区画の中へ、一歩踏み込んだ。
地面が乾いている。
昨夜の雨が嘘みたいに乾いている。
アスファルトの黒が均一すぎる。拭き取られた黒だ。
その黒の端に――何かがある。
小さな、ピンク色の塊。
陽菜は膝をついて、それを拾い上げた。
ヘアゴムだ。
布製で、少しだけ毛羽立っている。
使い込まれた柔らかさ。
誰かの髪を、何度も結んできた柔らかさ。
「……これ」
陽菜の声が震えた。
「紗良の」
愛紗美がしゃがみ込んで、ヘアゴムを覗き込む。
覗き込む目が、一瞬だけ細くなった。
「色、変わってる」
「え……」
陽菜は自分の掌の上のヘアゴムを見た。
ピンク色、のはずだ。
紗良が代官山で買った、少し派手なピンク。
「伝わらないのは自由」って笑いながら選んだ色。
でも――今、掌の上にあるのは、ピンクじゃない。
ベージュに近い。
淡いピンク、ではない。
ピンクが「丸められて」、安全な色に修正されている。
「やだ」
陽菜の喉が擦れた。
「色まで……」
「うん」
愛紗美は頷いた。頷き方が、いつもより重い。
「派手が消されてる。目立たない色に統一されてる」
陽菜は立ち上がった。立ち上がる瞬間、足元がふらつく。
ふらつくのは貧血じゃない。
怖さで、地面が揺れる。
そのとき――背後で、布が擦れる音がした。
振り返る。
白い制服が、立っている。
糊がきいた白いシャツ。鋭利な折り目の白いズボン。白い靴。
そして、白いマスク。
顔の下半分が完全に隠れている。
性別が分からない。
年齢も分からない。
分からないのに、立ち姿だけが完璧に揃っている。
背筋が一直線。
肩の高さが左右で同じ。
つま先の角度が、45度。
人間が立っているのに、人間の「癖」がない。
「……」
陽菜は息を止めた。
息を止めると、相手の呼吸音が聞こえるはずだ。
聞こえない。
マスクの向こうで、息をしていない。
白い制服が、口を開いた。
「この区画は、安全確保のため、一時的に配置整理中です」
声は穏やか。
穏やかなのに、断れない。
丁寧さが、命令の形をしている。
「配置……整理?」
陽菜が聞き返すと、白い制服は頷いた。
頷き方が、機械的に正確だ。
「はい。皆様の安全のために、不要な物品を整理しております」
不要な物品。
その言い方が、胸を冷たく撫でた。
「……ここに、友達が」
陽菜は言いかけて、愛紗美の手が袖を掴むのを感じた。
掴み方が強い。
「言うな」の合図だ。
でも、陽菜は言い切った。
「友達が、来たはずなんです」
白い制服は、ほんの一瞬だけ動きを止める。
止まるのは0.2秒。
その0.2秒で、陽菜は分かった。
この相手は、「友達」という言葉を、データとして処理している。
「お友達、ですか」
白い制服が言った。
「お友達は、安全な場所に」
「安全な場所って、どこ」
「適切に配置された場所です」
配置。
またその言葉。
陽菜の胸の奥で、靄が濃くなる。
外の霧じゃない。言葉にできない、内側の濁りだ。
「友達じゃない」
陽菜は言い直した。
「紗良です。結城紗良」
固有名を言い切った瞬間、空気が揺れた。
揺れは物理的じゃない。
言葉の重さが、空間を押した。
白い制服の肩が、ほんの少しだけズレる。
完璧な45度が、43度になる。
たった2度。
でも、そのズレが「人間の名前」の重さだった。
「……固有名は、記録に残ります」
白い制服が言った。
声のトーンが、ほんの少しだけ下がる。
「ご協力、ありがとうございます」
協力。
協力なんてしていない。
なのに、「協力した」ことにされる。
白い制服が、陽菜の袖口へ視線を落とした。
そこには何もない。
あの日、白手袋に消された【D-11】。
「札は、回収済みですね」
白い制服が言った。
「ご協力、ありがとうございます」
もう一度、同じ言葉。
繰り返しが、礼儀じゃなく「処理完了」の音に聞こえる。
陽菜は一歩、前へ出た。
前へ出ると、愛紗美の手が袖から離れる。
離れたのは、止めるのを諦めたからじゃない。
「行け」の合図だ。
「紗良は、どこですか」
陽菜の声は震えない。震えないことが、いちばん怖い。
「お友達は――」
「友達じゃない。紗良」
もう一度、固有名。
白い制服の指先が、ほんの少しだけ動いた。
動きは無意識じゃない。
「処理エラー」を示す、微細な反射だ。
陽菜は続ける。短く。刺す。
「紗良は、ここに来た。来たなら、いる。いるなら、どこ」
白い制服は答えない。
答えない代わりに、もう一度だけ陽菜の袖口を見る。
そこに何もないのに、あるはずだった位置へ視線が正確に刺さる。
そして――白い制服の背後から、もう一人。
同じ白い制服。
同じ立ち姿。
同じマスク。
二人が、揃って陽菜を見る。
「この区画は、安全確保のため、一時的に配置整理中です」
同じ声。
同じトーン。
同じ間。
二人が同時に喋っているのに、声がズレない。
陽菜の背中に汗が浮く。
汗は冷たい。冷たいのに、乾かない。
乾かないのは、恐怖が皮膚の奥に染みているからだ。
愛紗美が、小さく舌打ちした。
「……分裂した」
分裂した、という言い方が正確だ。
人が集まったのではない。
「配置整理」の役割が、増殖した。
陽菜は、喉の奥で一行を探した。
言い切れば取っ手になる。祈りじゃない。読解だ。
「配置整理って――」
陽菜は唇だけ動かして、声にした。
「物の話、でしょ」
愛紗美が、横で小さく息を吐いた。
吐き方が、「そう」の合図だ。
「配置って、物を並べること」
陽菜は続ける。
「人を、配置って言わない」
白い制服たちが、一瞬だけ動きを止める。
止まるのは0.2秒。
でも、その0.2秒で空気が変わる。
陽菜は一歩、踏み込んだ。
「人を、棚に並べてる」
言い切った瞬間、白い制服たちの肩が揃ってズレた。
完璧な45度が、一気に乱れる。
乱れは怒りじゃない。
「条件が言葉にされた」ときの、成立の軋みだ。
白い制服の一人が、低く言った。
「……整理は、安全のために」
「安全って、誰の」
「皆様の」
「皆様って、誰」
陽菜の声が、少しだけ強くなる。
強くなるのは勇気じゃない。
矛盾を掴んだときの、身体の反射だ。
「配置するなら、場所が必要」
陽菜は、スマホを取り出した。
LOG 2/7の画面を、白い制服たちへ向ける。
「でも、位置情報は空欄」
画面の空欄記号――。
それを見た瞬間、白い制服たちが一斉に後退した。
後退の仕方が揃いすぎている。
足の運び方まで同じだ。
「矛盾してる」
陽菜は言い切った。
「場所がないのに、配置できない」
白い制服たちの立ち姿が、さらに乱れる。
肩の高さが左右でズレる。
つま先の角度が、バラバラになる。
乱れるのは敗北じゃない。
「処理不能」の形だ。
一人が、マスクの奥で何か言いかけた。
でも、声が出ない。
出ないまま、もう一人と視線を交わす。
視線を交わす動作が、初めて「人間らしい」迷いに見えた。
そして――二人が揃って、一歩下がる。
「……今日の作業は、終了です」
声は穏やか。
穏やかなのに、撤退の宣言だ。
「ご協力、ありがとうございました」
もう一度、同じ礼。
礼の角度が完璧だ。
白い制服たちは、整然と去った。
去り方が完璧すぎて、むしろ怖い。
足音がしない。
影が薄い。
二歩目から、もう輪郭が滲む。
陽菜は、その場に立ち尽くした。
勝った気がしない。
勝ったのではなく、「処理が中断された」だけだ。
愛紗美が、肩を叩いた。
「固有名、効いた」
「……効いた?」
「あれが刺さった。人間の名前の重さ」
陽菜は、掌の中のヘアゴムを見た。
ベージュに丸められた、紗良のヘアゴム。
これが、紗良が「ここに来た」証拠だ。
そのとき――スマホが震えた。
震えたのに、音がしない。
通知音を切っているわけじゃない。
音が「成立しない」震えだ。
画面を見る。
新しい動画カードが、勝手に追加されている。
【LOG 3/7】
サムネイルは廊下。
白い廊下。
どこか分からない。
でも――廊下の壁に、小さな影が映っている。
人の影。
立っている影。
陽菜の胸が、きゅっと縮む。
動画の下に、コメント欄が見える。
礼儀正しいコメントが並んでいる。
『安全第一で』
『個人情報の保護を』
『適切な対応を』
その中に、一つだけ異質なコメントがある。
『七日目、中央』
アカウント名が、空欄だ。
空欄なのに、コメントだけが残っている。
陽菜は喉が乾くのを感じた。
乾きが、次の場所を指している。
「……七日目」
陽菜は呟いた。
「中央って、何」
愛紗美は答えない。
答えない代わりに、遠くのビル群を見上げた。
「たぶん――」
愛紗美は短く言った。
「全部の『配置』が集まる場所」
陽菜の内側の靄が、また濃くなる。
濃くなるのに、外の光は拭き上げられたまま綺麗だ。
綺麗すぎる光の中で、陽菜の呼吸だけが、まだ湿りを持っていた。




