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第十一話 空白の中央(ゼロ・ゾーン)【後編】

 夕方、塔の蜜蜂へ戻ると、店の匂いが肺の奥に届いた。

 甘い。焦げる。湿っている。

 それだけで、世界が少しだけ“生活”に戻る。


 陸奥はカウンター奥で、いつもどおり食器を拭いていた。

 その拭き方は、規格の手順じゃない。癖だ。癖は人のものだ。


 愛紗美は軽く手を上げた。


「陸奥さん。あの――辞書、貸して」

「……どれ」


 陸奥が視線だけで示したのは、陽菜が抱えている“外来語辞典”ではない。

 カウンターの下、布で包まれた、妙に重そうな一冊だった。


 陽菜は息を止めた。

 布をほどくと、硬い装丁が現れる。

 表紙は古いのに、文字だけ新しい。新しいのに、読みにくい。


 削除語辞典ホワイトアウト・レキシコン


 タイトルを見た瞬間、陽菜の舌が少しだけ痺れた。

 言葉のはずなのに、粉の味がする。


「……これが」

「うん」愛紗美が言った。「噂のやつ?」

「噂じゃない」

 陸奥の声は低い。低いまま、言葉を増やさない。

「置いてあるだけだ」


 “置いてあるだけ”の言い方が、祈りに近かった。

 使うためじゃない。誰にも触らせないために、ここに置く。


 愛紗美は笑わない。

 軽く肩をすくめて、距離の取り方だけ上手い声で言う。


「じゃあ“貸して”じゃなくて、“見せて”」

「見せない」

「……一ページだけ」


 陸奥は布を指先で揃える。

 揃え方が丁寧すぎて、陽菜は逆に分かった。

 この辞典は、陸奥にとって“整える対象”じゃない。“静かにしておく対象”だ。


「調べるなよ」

 陸奥は言った。

 怒ってない。怒るより疲れている。

「調べたがると……向こうが書く」


「書く?」

 陽菜が聞き返すより先に、愛紗美が短く返した。


「うん。墓標ってさ、名前が増えるほど重くなる」


 陸奥が、いちどだけ目を閉じた。

 それが肯定だった。


 愛紗美は、スマホを覗き込む代わりに、陽菜の顔を見る。


「陽菜ちゃん。紗良のフルネーム、言える?」

「……結城紗良」


 口にした瞬間、胸の奥に小さな棘が立つ。

 棘がある。だからまだ掴める。


 愛紗美はその棘を、辞典の索引へ落とすみたいに指を滑らせた。

 止まる。止まる場所が、最初から決まっていたみたいに。


 ページが開く。


 見出し語の列の中に、ぽっかり白い行がある。

 白い。けれど紙の繊維が荒れている。

 削った跡でも、破った跡でもない。

 “最初から無かったことにした”ときだけ残る荒れ。


 陽菜は喉が乾くのを感じた。

 唾が出ない。言葉が紙に吸われる予感がする。


 白い行の右に、薄い線が生まれた。


 誰も鉛筆を持っていないのに。

 いま、書かれている。


【友達】


 陽菜の胃が縮む。

 スマホの表示名が丸められたあの感じが、紙に移ってきた。


「……やめて」

 陽菜の声が小さくなる。

「紗良は、友達じゃない。……友達でもあるけど、そうじゃない」


 陸奥がページを押さえる。

 押さえ方が強い。字を止めるみたいに。


「……見たろ」

 陸奥は陽菜を見ずに言った。

「いま、どこまで来てるかだけ」


 愛紗美は頷く。

 頷き方が軽い。軽いのに、目だけは仕事の目だ。


「順番、合ってる」

 短く言う。

「最初、名前。次、時間」


 陽菜の指先が冷える。

 時間、と言われて、九話の路地が浮かぶ。ページ番号だけ残って、言葉が抜けた辞典。

 “ここにあった”という主張だけが残るやつ。


 愛紗美の指が、別の項目へ移る。


「リワインド・シェルフ」

 言うだけで、息が少し重くなった。

 重くなるのは怖いからじゃない。時間を掴むには、重さがいる。


 索引の文字は読める。

 だが、見出し語の横が白い。

 白いのに――そこにも薄い筆圧が滲み出す。


【REWIND SHELF】


 英字が紙に沈む。

 沈んだ瞬間、陽菜の耳の奥で、あの乾いた微音が鳴った気がした。

 紙を揃える音。箱を畳む音。印鑑を押す音に似た――“到着”。


 愛紗美はそれ以上言わない。

 言わない代わりに、ページの隅の小さな注記を指で叩いた。


 注記の文字だけ、妙に新しい。


【巻き戻し(時間)/痕跡のみ残存】


 陽菜は息を吐いた。

 吐いて、もう一度だけ言う。


「……【D-11】は?」


 陸奥の指が止まる。

 止まり方が露骨だった。そこに触れたくない、という止まり方。


 でも――辞典のほうが先に反応した。


 ページが勝手に一枚だけずれる。

 風もないのに。


 白い行の横に、また薄い字が浮く。


【D-11】


 その下に、さらに一行。


【安全サポート】


 陽菜の背中がひやりとした。

 柔らかい言葉が、紙の上では釘みたいに硬い。


 愛紗美が、ほんの少しだけ唇を尖らせる。


「……ほら。混ざってる」

 短い。

「削除語の辞典に、“肩書”が入ってくるの、気持ち悪い」


 陸奥が、ページを閉じた。

 乱暴じゃない。丁寧に閉じる丁寧さが、逆に拒絶だった。


「これ以上、増やすな」

 陸奥は布を戻しながら言った。

 誰に向けた命令か分からない。

 愛紗美にも、陽菜にも、辞典にも。


 陽菜は、ポケットから小さなメモ帳を出した。

 スマホじゃない。紙だ。

 湿りを持てる媒体。


 そして、震えない字で書く。


――結城紗良。


 書いて、指でなぞる。

 掴むための棘を、自分で作る。


 愛紗美がそれを見て、軽く頷いた。


「うん。いい角」

 それだけ言って、立ち上がる。


「行こ。ログ2、場所の枠が空っぽなんでしょ」

「……なんで、それ」

「なんとなく。――当たったらラッキー」


 無責任な言い方なのに、妙に頼れる。

 陽菜はその矛盾に、少しだけ救われる。


 カウンターの下で、《ホワイトアウト・レキシコン》は布に包まれた。

 言葉の墓標として、静かに。


 それでも外の白は、相変わらず先に到着していた。

最後までお読みいただきありがとうございます。


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