第十一話 空白の中央(ゼロ・ゾーン)【前編】
塔の蜜蜂のドアを押すと、外の光が顔に貼りついた。
明るい。――けれど、湯気の匂いがない明るさ。
街の輪郭だけが先に来て、体温が追いつかない。
陽菜はポケットの中の紙片を指で探った。
さっき、愛紗美が走り書きした「白い名札は見ない」というメモ。雑な文字。雑なのに頼れる。
「じゃ、ここからは二人で」
環が言った。声は軽いのに、目が笑っていない。
トー横の方角に、ほんの少しだけ顎を向ける。
「俺、別口で回る。人数が増えると、向こうは“管理しやすい”から」
「……管理」
「だから、散らす。足音を増やす。視線を増やす。――陽菜、スマホだけに頼るなよ」
最後だけ、乱暴に優しい。
陽菜が何か言う前に、環は人の波に紛れた。
汚れた靴先が、雑踏の黒に溶ける。あの汚れが、逆にこの街での生存の印みたいに見えた。
残ったのは、陽菜と愛紗美。
「角担当、抜けたね」
「……角担当って言い方」
「便利だから。便利な言葉は強い。嫌い?」
愛紗美はそう言って、肩をすくめた。
ベージュのトレンチはきちんと見えるのに、ボタンは留めない。髪も完璧にまとめない。爪は短く、手の甲に小さな擦り傷がある。
“ちゃんとしてない”のに、歩く軸だけがぶれない人だ。
「LOG2、見せて」
陽菜がスマホを出すと、愛紗美は画面をじっと見ない。
視線は走る。指は止まる。必要なところだけ掴む。
「位置の枠、空。……うん。ここ、穴っていうより『指差しの欠片』が落ちてる」
「欠片……?」
「場所って、地図じゃないから。『ここ』って言う口の形」
短い。
短いのに、胸の奥に刺さる。
「行こ。見える席。近づく前に、距離を測る」
歌舞伎町へ向かう道は色が多い。
赤、紫、青、金。ネオンが重ね塗りされて、夜でも昼みたいだ。
でも、音がどこか平たい。
笑い声も呼び込みも、紙の上を滑るみたいに揃って聞こえる。
陽菜は自分の唾がうまく飲み込めないのに気づいた。喉が乾く。乾いて、息の出入りだけが薄くなる。
愛紗美は迷いなく、トー横を斜めに見下ろせるテラス席のある店に入った。
椅子は硬い。飲み物は甘い。なのに、甘さが体の中に沈まない。
手すりの向こうに人混み。
その奥に、フェンスで囲われた区画が見える。
そこだけ、景色が“抜けて”いる。
誰も叫んでいない。
立入禁止の派手な看板もない。
それでも人の流れは、そこだけ避ける。避け方が妙に揃う。躊躇の仕方まで同じに見える。
愛紗美が、遠くのフェンスを指先で軽くなぞるように示した。
「人がいるのに、いない。ああいうの、嫌い」
「嫌い、なんですね」
「うん。気持ち悪い。……でも、トキメキる」
陽菜が眉を寄せると、愛紗美は笑った。
「体が先に『変』って言うやつ。頭は後から言い訳する」
「……」
陽菜はフェンスの近くを見た。
柱のあたりに、画鋲だけ残っている。
紙はない。糊の跡もない。四角い影すらない。
貼っていたはずの“証拠”だけが、画鋲の金属として残っている。
「……何も貼ってなかったみたい」
「うん。『剥がした』じゃない。『最初から貼ってないことにした』感じ」
愛紗美の声は、そこで止まった。
余計な説明をしない。短く切る。だから、余白が怖い。
愛紗美はスマホを取り出し、連絡先を指で弾いた。
「今からアポ取る。似た被害の子」
「……もういるんですか」
「いるよ。こういうのは、ひとりにしない。群れにするから」
呼び出し音。
愛紗美は明るい声で言う。
「もしもし。伊吹。うん、今ね、見えるところにいる。会える? ……大丈夫、変なバイトじゃない。相談。そう、すぐ。来て。怖いまま来て」
切るのが早い。
早すぎて、逆に頼もしい。
「二十分で来るって」
「……そんな簡単に」
「簡単な方が、守れる」
愛紗美は紙コップを回し、ぽつりと付け足した。
「難しい話は、あと。現場は、まず指先」
依頼者は時間ぴったりに現れた。
きれいめの服。きれいめの髪。きれいめの笑顔。
その“きれいさ”が、今は少し怖い。整いすぎていると、削られやすい気がする。
「……伊吹さん?」
「そ。座って。名前は……今は言わなくていい」
愛紗美は、最初から固有名を避けさせた。
依頼者は驚きながらも頷く。頷き方が礼儀正しい。
「一番最初、何が変になった?」
「え……えっと……」
依頼者は目を泳がせた。目が泳ぐのに、言葉は丁寧だ。
「友だちに、急に『苗字って何だっけ』って言われました。冗談かと思って……」
「次」
「DMが……本文だけ、線みたいになって……でも時刻と既読は残って……」
「既読、増える?」
「……増えます。返事はないのに」
陽菜の胸が、また縮む。
紗良のDM。白い線。増える既読。
“確認だけが生き残る”あの手口。
愛紗美は依頼者のスマホを指で示した。
「LOG、ある?」
「……はい」
画面に並ぶカード。
【LOG 1/7】
【LOG 2/7】
そして、説明欄に居座る定型文。
【安全のため一部非表示】
丁寧。優しい。責めない。
だからこそ息が詰まる。
愛紗美は画面を一度、陽菜の方へ傾けた。
見せ方が“共有”のそれだ。説明ではない。見せるだけ。
「これ、消してない。言い換え」
「言い換え……」
「悪く見えない言葉に、着替えてる」
依頼者が震える声で言った。
「……私、どうしたら」
「重くならない。返事しない。名札は見ない。あと――“昨日”をメモする」
「昨日を……?」
「スマホの中の昨日は、巻かれる。紙の昨日は、まだ手触りが残る」
愛紗美はそこで止めた。
“まだ”と言うだけで、断言しない。知りえないことを、無理に決めない。
陽菜は、フェンスの方へ視線を飛ばした。
空っぽの区画は、今日もそこにいる。
そこに近づく人はいない。
いないのに、避け方だけが増えていく。
怖がって避けている、というより、“教科書どおり”に動いている感じ。
「……白手袋、思い出します」
陽菜が言うと、喉が少し擦れた。
「下北沢で……目印が……」
愛紗美は首を振らない。ただ、短く返す。
「似てる。けど、匂いが違う」
匂い。
愛紗美の言葉はいつも、そこに落ちる。
「……違う?」
「うん。あれはラベルを剥がす手つき。こっちは……時間がほどける感じ。『昨日』が粉になる」
依頼者が、息を吸って言った。
「……あります。予定が……なかったことになって……」
「ね」
愛紗美はそこで笑わない。
“当たった”という顔もしない。
ただ、テーブルを軽く指で叩いた。
「順番がある」
「順番?」
「最初、名前。次、時間。最後……本人」
言い切る言い方ではなく、置く言い方。
陽菜はその“置かれ方”に救われる。強く言い切られると、逆に反論できなくなるから。
依頼者は唇を噛み、頷いた。
陽菜は、紗良の顔を思い出した。
代官山で「伝わらないのは自由」って笑った目。
自由が丘の坂の上で「名前って、持たれてるかな」って軽く言った口元。
あの子は、丸い箱に収まる子じゃない。
陽菜は小さく言った。
「……紗良は、紗良です」
それだけ。
依頼者が、少しだけ顔を上げた。
その反応が、陽菜の背中を押した。固有名は、誰かのためにもなる。
愛紗美は依頼者に、紙片を渡した。
《塔の蜜蜂》のマッチの裏に書いた、短い注意書き。
――名札を見るな。
――返事するな。
――“昨日”を紙に残せ。
「これ、守って。あとは、ひとりで帰らない」
「……はい」
依頼者が立ち上がる。頭を下げる。下げすぎる。
丁寧さが刃になる、その感じを陽菜も知ってしまった。
見送ったあと、愛紗美は手すりの向こうを見た。
「現場、喋ってる」
「……喋る?」
「癖で。言葉じゃない」
愛紗美はフェンスの画鋲を顎で示す。
「貼ってあったなら、残るものがある。残らないのは、最初から無かったことにしたから。……そういう手つき」
“手つき”。
それが、人のものじゃないと分かる。
生活の乱暴さがない。迷いがない。丁寧すぎる。




