第十話 ログの七日(デイ・ログ)【後編】
動画が始まる。
紗良の部屋。
生活の散らかり。洗いかけのマグ。床に落ちたヘアゴム。
そこに“整いすぎた不在”が混ざっている。
『おはよー。これ、また勝手に上がるやつ?』
紗良が笑ってカメラに手を振る。
字幕が出る。出るのに――自分の名を名乗るところだけ、字幕が滑る。
『私は、——です』
空欄じゃない。
空欄にするほど露骨じゃない。
丁寧すぎる言い換えが入る。
『私は、友人です』
陽菜の胃がきゅっと縮む。
友人。丸い。便利。事故の起きない言葉。
環が画面を覗き込んで、笑わずに言った。
「……丸めてる」
コメント欄が見えた。
礼儀正しさが揃いすぎている。
祈りじゃない。規格の封だ。
『気をつけてくださいね』
『安全第一で』
『個人情報の取り扱いにご注意ください』
誰も怒っていない。
誰も責めていない。
だからこそ、呼吸の間だけが削られる。
紗良が玄関を出る。
内廊下の白が妙に均一で、影が浅い。
そして――画面の端に、一瞬だけ白い名札が入る。
名札の文字は、ピントが合わない。
合わないのに、読ませようとしてくる白。
陽菜は思わず、息を止めた。
止めた瞬間、動画がぶつっと途切れた。
回線の問題じゃない。
“区切り”として、切られた。
次の瞬間、陽菜の指が勝手に動いていた。
紗良とのDMを開いている。
最後に送ったのは、昨夜の何気ないスタンプ。
その下に、紗良から来たはずの未読が――白い線になっている。
本文はない。
スタンプもない。
でも時刻だけある。送信の矢印もある。
そして――既読だけが増えている。
既読。既読。
「……読んでる」
陽菜の声が震えた。
「読んでるのに、何を読んだか消えてる」
環が小さく言う。
「返事じゃなくて、確認だけ残すんだ」
「“見守りました”っていう規格」
陽菜は震える指で、もう一度送る。
『紗良、どこ?』
送信した瞬間、文字が浮いた。
浮いて、着地しない。
白い泡みたいに上へ抜ける。
それでも――既読が増える。
そして、相手の表示名が、ふっと変わった。
『友達』
陽菜の胸の奥の靄が、熱を持つ。
怖さじゃない。怒りに近い熱だ。
「……違う」
小さな声が喉の奥で擦れる。
友達なんて丸い言葉に押し込めるには、紗良は角が多い。
「紗良は、紗良だ」
言い切った瞬間、画面の白が少しだけ汚れた気がした。
汚れは生活の味方だ。掴むための角だ。
陸奥が、低い声で言う。
「名札を読むな」
「え?」
「名札は入口だ。返事もするな。復唱するな。――載る」
陽菜は陸奥を見た。
陸奥は初めてこちらを見る。目は冷たいのに、店の湿りは守っている目だ。
「“安全サポート”」
陸奥はその言葉を、嫌悪じゃなく“警告”として置く。
「役割だけが歩いてくる。顔は借り物だ。優しさの顔で、余白を殺す」
環が舌打ちした。
「……俺、名札ほんと嫌い」
そのとき、ドアベルがまた鳴った。
カラン、とガラスの薄い音。
入ってきたのは、乾いたベージュのトレンチの女だった。
スニーカー。髪はきっちり結ばない。爪が短い。
きちんとしていないのに、妙に“自信”だけが整っている。
「うわ、ここ甘い匂い。いい店」
女は入るなり、陽菜に目を向けて笑った。
「陽菜ちゃん? 顔こわ。かわいいのに」
「……誰ですか」
「ん? 私? 伊吹愛紗美」
名刺も出さない。
謝らない。
初対面の距離の詰め方が、無責任なくらい軽い。
環が肩をすくめて言う。
「さっき言った探偵」
「探偵……?」
「うん、探偵。たぶんね」
愛紗美は“たぶん”を最高の道具みたいに言った。
「たぶんって便利でしょ。責任が軽いから、よく飛ぶ」
愛紗美は陽菜のスマホ画面を一瞥して、すぐ結論だけ雑に投げた。
「うん、これ。“読むと持ってかれる系”だね」
陽菜は反射で言う。
「読むと……持ってかれる?」
「名札。白いやつ。読んだでしょ、紗良ちゃん」
「……」
「読んだ瞬間から丸められる。角がなくなる。角がないと掴めない」
陸奥が短く補足した。
「だから読ませる。正しさは読ませてから切る」
愛紗美は笑って手を振った。
「大丈夫。……って言っとく。責任はあとで拾う。落ちてたらね」
そして、急に真面目な目だけを一瞬だけ作る。
「でもルールはひとつ。白い名札は、読まない。返事もしない。復唱もしない。――名前って、思ってるより脆いから」
陽菜の喉の奥が乾く。
乾きが、次の場所を指す。
画面が勝手にスクロールした。
LOG 1/7の下に、もう一本、カードが出ている。
【LOG 2/7】
サムネイルは真っ白ではない。
けれど、拭き上げた床みたいに白すぎる。
そして本来あるはずの“場所”の欄だけが、空っぽだ。
位置情報の枠だけが残っている。
空欄は、地図じゃなく、呼吸を奪う穴だった。
陽菜はスマホを握りしめた。
握りしめても、角が削られていく気がする。
だから、先に角を作るしかない。
「……行きます」
環が笑わずに頷く。
「待つんじゃなくて?」
「待ったら、“到着”させられる」
陽菜は言い切った。
「……止めに行く」
愛紗美が嬉しそうに、軽く言う。
「いいね。よくわかんないけど付いていくよ、止めに行くの。たぶん止まんないけど」
「……怖がらせないでください」
「怖がらせてないよ。軽くしてるの。恐怖って重いでしょ?」
重いものは、持たれやすい。
軽いものは、飛ばされやすい。
陽菜は胸の奥の靄を抱えたまま、店のドアへ向かった。
《塔の蜜蜂》の湿りが背中を押す。
湿りは生きている証拠だ。汚れは生活の味方だ。
ドアを開けた瞬間、外の光が少しだけ拭き上げられて見えた。
白い。
乾いた白。
規格の白。
そしてその白の中で――陽菜の内側の靄だけが、乾かないまま息をしていた。
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