第十話 ログの七日(デイ・ログ)【前編】
青白い画面の光は、夜の生き物みたいに人の顔を塗り替える。
液晶の発光は“熱”じゃなく“情報”で、温度を持たない。温度を持たないものほど、生活の湿りを奪うのが上手い。
そして、いまの街――この“中心”は、温度より先に情報が到着する。
到着が先に発生する世界では、人の感情は荷物扱いになる。
だから三笠陽菜は、湯気の立つマグを両手で包んでいた。
熱があるものを握るのは、ただの習慣じゃない。ここでは抵抗だ。
塔の蜜蜂の朝は、甘い匂いと焦げた匂いが混ざっている。
蜂蜜の瓶の琥珀色は、光を飲み込まず、光を透かす。
透かす光は、拭き上げられた白と違って、どこか“汚れていて許せる”。
カウンターの奥で、陸奥|は何も言わずに食器を拭いていた。
布巾の動きは遅い。遅いのに正確だ。
正確さが“規格”じゃなく“癖”として滲む。――この店が拠点である理由は、そこにある。
常連が一人、新聞を畳みながら言った。
「今日は湿気が抜けましたね。空が軽い」
「軽いですね」
陽菜は笑って返しながら、胸の奥がむず痒いのを誤魔化した。
軽い、が良いとは限らない。
九話で知った。目印が消えると、世界は軽くなる。軽くなって、怖い。
ドアベルが鳴った。
カラン、と古い音。金属じゃない。ガラスが薄く震える音。
「おはよー。働いてる顔、似合わな」
入ってきたのは桐島環だ。
黒いパーカーに、濡れていない髪。なのに、足元だけやたら現実的な汚れ方をしている。
綺麗すぎるものを嫌う汚れ方。
「……褒めてないですよね」
「褒めてる褒めてる。生活の顔。いいじゃん。陽菜ちゃん、生活の顔してると安心する」
安心。
その言葉が出るときの環は、善意じゃない。嗜好だ。
猫が段ボール箱を好きと言うのと同じ温度。
陸奥は環を見ないまま言った。
「砂糖は一回まで」
「厳し。俺の人生、甘くていいのに」
「甘い人生は歯が折れる」
「哲学やめて」
陽菜は苦笑して、注文を聞くふりをしながら、スマホを伏せた。
伏せても、画面の裏側が熱い気がする。
通知は鳴らない。鳴らないのに、“届いている”圧だけが貼りつく。
環がカウンターに肘をついて、軽い調子で言った。
「そういえばさ、陽菜ちゃんって、このあたりの大学だっけ」
「……そうですけど」
「へえ。知り合いで女子大生に話を聞きたいって人がいてさ」
陽菜は眉を寄せた。
「変なバイトとかじゃないですよね」
「え、俺そんなに信用ない?」
「あなたが“変じゃない”って言うとき、大体変です」
陸奥が布巾を止めた。
止めただけで空気が少し重くなる。湿りが戻る。
「貴重な人員を接収しようとしてるのか」
「接収って言い方やめて。軍なの?」
「この街の正しさは軍だ。名札を付けて人を動かす」
名札。
白い名札。
九話の、あの白。
陽菜は喉の奥が乾くのを感じた。乾きは、内側の靄が濃くなる前兆だ。
「……誰なんですか、その“人”」
「大丈夫だよ。女性だから」
「意味が分かりません」
「いや、あぁ……あれだよ。探偵」
環は“探偵”という言葉を、コンビニの新商品みたいに軽く置いた。
陽菜はその軽さに、逆に背中が冷えた。
探偵が必要な出来事が、もう起きている、という軽さだ。
そのとき、陽菜のスマホが――震えた。
音は鳴らない。
でも、指先だけが震えを受け取る。
鳴っていないのに鳴る、という手口よりも厄介なやつ。
生活の動作に紛れ込む“到着”。
画面が点灯した。
おすすめでも通知でもない位置に、一本の動画カードが刺さっている。
“あなたへのおすすめ”の文言がない。
“フォロー中”でもない。
どこにも所属していないのに、ここにある。
サムネイルは、部屋の天井。
生活の、ただの白。
「……これ」
陽菜の声が細くなる。
細くなるのは怖いからじゃない。細くしないと、言葉が削られるからだ。
タイトル欄に、短い文字。
【LOG 1/7】
「……紗良?」
陽菜が名前を口にした瞬間、胸の奥が一度だけ痛んだ。
痛みは、固有名の棘だ。
棘があるから掴める。
結城紗良。
髪は明るすぎない茶で、毛先だけいつも自由に跳ねていた。授業のノートは取らないのに、カフェの新作メニューだけは異様に覚えている。
甘いものを「脳の湿り」って呼ぶくせがあって、言い方が軽いのに、なぜか説得力があった。
――トー横の脇、眩しすぎるネオンの下のゲームセンター。
クレーンゲームだらけのあそこを、紗良は“現代の神社”って言って、千円札をお賽銭みたいに崩した。
「掴めそうで掴めないのって、ちょっと安心しない?」
「何それ」
「ちゃんと失敗できるから。予定どおりにいかないって、逆に誠実じゃん」
――代官山の、サイズと色だけやたら揃ってて、柄は意味不明なマイナーTシャツばかりの店。
紗良は“誰にも伝わらない”を誇りみたいに着て、陽菜の前でくるっと回った。
「これ、絶対ウケない。最高」
「ウケないのが最高って……」
「伝わるとさ、管理されるじゃん。伝わらないのは、自由」
――自由が丘の坂の上のケーキ屋。
ショーケースの前で真面目に悩んだあと、いきなりどうでもいい哲学を始める。
「ね、陽菜。人って、名前で持たれてると思う?」
「え……」
「持たれてるなら、名前を捨てたら落ちるよね。でもさ、落ちたら落ちたで面白くない?」
笑って、フォークで苺を刺す。軽いのに目だけは妙に本気だった。
――そういう子だ。
“今どき”の薄さじゃなく、“今どき”を遊び道具にしている厚みがある。
陽菜はスマホを握り直し、再生ボタンを押した。




