第一話 欠落の手癖(ミツバチと塔)【後編】
閉店札を裏返す。
椅子を上げる。
床を掃く。
日常の畳み方は、陽菜の得意分野だった。
畳めば片づく。片づけば終わる。終われば眠れる。
世界は、畳めるものだけでできていればいいのに。
「今日、客多かったな」
陸奥が売上を確認しながら言う。
「ですね。観光客、増えてる」
「増えるのは言葉もだ」
「……言葉?」
陽菜が聞き返すと、陸奥は軽く肩をすくめた。
「増えた言葉は、定義が間に合わない。定義が間に合わないと、街は苦しくなる」
「だから酸素?」
「だから酸素」
陸奥はマグを拭く手を止めずに言った。
「陽菜。君は、曖昧が嫌いだろう」
不意に名前を呼ばれて、陽菜は少しだけ身構えた。
「……嫌いというか、気になる」
「気になる、は嫌いの丁寧語だ」
「違います」
「違わない。君はいつも、言葉の輪郭を確認してる。輪郭が曖昧だと落ち着かない」
陽菜は反論しようとして、できなかった。
図星は、黙るしかない。
陸奥は、拭き終えたマグを棚に戻し、ようやく陽菜を見る。
目が静かすぎる。
その静けさが、ときどき怖い。
優しいのに、優しさが「観察」の形をしているからだ。
「……別に、悪いことじゃない」
陸奥が言った。
慰めではない。判定でもない。
ただ事実を置くみたいな言い方。
「世界はほどける。ほどけた糸を見つけるのが早い人間がいる。君はそういうタイプだ」
「ほどけた糸を見つけたら……結べばいいじゃないですか」
陽菜が言うと、陸奥は少しだけ口角を上げた。
「結び目は増える。結び目が増えれば、自由は減る」
「……自由って、そんなに必要ですか」
口から出た瞬間、陽菜は後悔した。
自由なんて、綺麗事みたいで嫌いだ。
でも嫌いと言い切るのも怖い。
結局、曖昧にしたくなる。
陸奥は、答えをすぐに言わなかった。
沈黙のあと、マグをひとつ、カウンターに置く。
陶器の音が、静かに刺さる。
「自由が必要かどうかは、人による」
陸奥は淡々と言った。
「ただ、自由が減ったぶん、別のものが増える。役割だ」
「役割……」
「“あなたはこれをする人”。“あなたはこうあるべき”。そういう札が増える」
陸奥は指先で空中に札を作るような仕草をした。
「札が増えると、札を配る人間が必要になる。札を受け取る人間も必要になる。札を運ぶ人間も――」
陽菜はそこで言葉を遮った。
「……配達みたい」
陸奥が目を細める。
「そう。配達だ。いまの新宿は、正しさを配達してる」
「正しさを……」
「配達された正しさは、便利だ。便利だから、受け取ってしまう。受け取った瞬間、返品ができなくなる」
陸奥は言い切った。
言い切りの刃が、陽菜の胸にすっと入る。
痛い。けれど、痛みは輪郭を作る。
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
陽菜は、外に答えを求める声で聞いてしまった。
陸奥は、答えを渡さない。
渡さずに、別の刃を置く。
「矛盾は敵じゃない」
「え」
「矛盾は、取っ手だ。世界を持ち上げるために掴む場所だ」
「意味が分からない」
「分からないままでいい。分かろうとする癖が、君を怪我させる日もある」
陽菜は笑って誤魔化したかった。
でも笑えない。
陸奥の言葉はいつも、倫理じゃなく技術の形で残る。
嫌だ。
技術は、使わされるから。
片づけが終わり、照明を落とす。
夜の店内は琥珀色になり、影が長く伸びる。
外の街の音が、ガラス越しに薄い膜を通して聞こえる。
その膜があるから、この店は守られている。
膜があるから、外の正しさが全部入ってこない。
「今日は上がっていい」
陸奥が言う。
「でも、洗い物――」
「俺がやる」
「またそれ」
「店主の特権だ」
陸奥は冗談みたいに言うが、目は冗談じゃない。
陽菜は、その目が“何かを待っている”ように見えて、胸がざわつく。
ざわつきを振り払うように、陽菜はバッグを肩にかけた。
帰る。
日常に戻る。
そのはずだった。
その瞬間、店のドアベルが鳴った。
チリン。
閉店札は裏返してある。
なのに、鈴が鳴る。
音が、店内の空気を一枚だけ切り取って、別の世界を覗かせた。
陽菜は固まった。
陸奥は動かなかった。
動かない陸奥の方が怖い。怖いのに、安心もする。
陸奥はカウンターに手を置いたまま、低く言った。
「開けるな」
「……え、でも」
「ベルが鳴るのは、呼ばれている証拠じゃない」
言い切り。
その言い切りが、夜の酸素を薄くする。
陽菜はガラス越しに外を見た。
ヘルメットの影が立っている。
黒いレインジャケット。背中に四角いバッグ。
雨は降っていないのに、肩が濡れて見える。ネオンが水滴みたいに瞬いているだけかもしれない。
影は、手に白い封筒を持っていた。宅配袋ではない。硬い紙の封筒。
影が、口を動かす。ガラス越しで声は聞こえない。
でも唇の形が、言葉の輪郭だけをくっきり作る。
――「三笠 陽菜さん。届け物です」
名前を呼ばれた瞬間、陽菜の胸の奥の痒みが、怖さに変わった。
名前は、自分のもののはずなのに。
閉店後の夜のガラス越しに呼ばれると、鍵穴に差し込まれる鍵みたいに感じる。
カチリ、と何かが回る予感がする。
陽菜は、反射的に陸奥を見る。
陸奥は、小さく頷いた。
頷きは許可ではない。確認だ。
「ここから先は、君の手で掴め」という合図。
「……受け取れ」
陸奥が言った。
「でも、開けるな」
「矛盾だ」
陽菜が言うと、陸奥は淡々と返す。
「矛盾は取っ手だ」
陽菜は震える手で、チェーンをかけたままドアを少しだけ開けた。
隙間から夜気が滑り込み、コーヒーの香りに金属の冷たさを混ぜる。
影は封筒を差し出した。
指先が見えた。
薄い。
人間の指なのに、紙の切れ端みたいに薄い。
陽菜は息を止めた。
怖い。
遠ざけたい。
でも、遠ざけたくなるほど“受け取らされる”気がした。
「……サイン、いりませんか」
陽菜が言うと、影は首を傾げた。
ヘルメットの黒い面が、店内の琥珀色を吸い込む。
そこに映った陽菜の目が、一拍遅れて瞬いた気がして、背中が冷えた。
「いりません」
声が、今度は聞こえた。
ドアの隙間を通って、やけに鮮明に耳に入ってくる。
「これは、もう“届いている”ので」
陽菜は封筒を受け取った。
軽い。
紙一枚どころか、空気を折り畳んだみたいに軽い。
軽いものほど、重い意味を持っている気がする。
それが怖い。
影は一礼し、振り返りもせずに夜へ溶けるように去った。
二歩目から、足音が消えた。
陽菜は、封筒を胸に抱えたまま立ち尽くした。
陸奥が、背後で静かに言った。
「拾ったな」
「……拾ってません」
「誰も落としてないのに、そこにあるものを拾った。――それを拾ったと言う」
陽菜は、封筒を見る。
差出人がない。住所がない。
ただ、自分の名前だけが、均整の取れた活字で印刷されている。
紙なのに、紙の匂いがしない。
陽菜は封を切るべきか迷い――
迷う自分を嫌悪して、指を止めた。
陸奥が、店の照明をさらに落としながら言った。
「開けるのは、君が一人の時にしろ」
「……どうして」
「今夜の店は、閉める」
陸奥は答えになっていない答えを置く。
答えを外に求める癖が、また疼く。
でも、疼くほどに、陸奥の言葉が思い出される。
――矛盾は取っ手だ。
陽菜は封筒をバッグに入れた。
軽いのに、肩が沈む。
それは重さじゃない。
“確定”の前の、嫌な予感だ。
ドアを閉める。
外では新宿のネオンが、何事もなかったように美しい。
正しさが配達され、役割が配られ、誰かの息が細くなる夜が、いつも通り続いている。
陽菜は、封筒がバッグの中で微かに“呼吸”する気配を感じた。
錯覚だと分かっている。
分かっているのに、胸の奥の痒みが消えない。
――この荷物は、どこから来た?
――そして、なぜ私の名前を知っている?
答えはまだ開けない。
開けた瞬間、世界が一段“確定”してしまう気がしたから。
その確定を、陽菜は心のどこかで望んでいる。
望んでいる自分が、いちばん怖い。




