第X話 とある少女の怪奇的な回帰(結城紗良の場合)
第十話の前日譚になります
七日目の朝、結城紗良は、自分の名前を三回言い直した。
「さら。……さら。……ゆうき、さら」
声は出ている。舌も唇もちゃんと動いている。
なのに、空気が受け取らない。発声した音が、壁に触れる前に“薄くなる”。
ワンルームの鏡に映る自分の輪郭が、今日に限って軽い。
軽いのは寝不足じゃない。誰かに“拭かれている”軽さだ。
汚れが落ちたんじゃない。汚れの概念ごと、最初から無かったことにされていく。
紗良はスマホを立て、カメラを自撮りの角度に固定した。
七日連続で勝手に投稿される、あの“ログ”。最後の日。
画面の上部に、決められたみたいに表示が出る。
【LOG 7/7】
「……ほんとに私のアカウント? これ」
問いかけた瞬間、返事みたいに定型文が出た。
【安全のため一部非表示】
「何が? ……何が非表示?」
口の中で言葉が丸まる。
丸まったまま飲み込まれそうになって、紗良は笑って誤魔化した。
「ま、いっか。だいじょぶっしょ」
笑うと楽になる。
でも今日の笑いは、軽くなりすぎて怖い。
軽い笑いは、誰かに持ち上げられやすい。
紗良は玄関へ向かう。
ドアスコープの前の空気がやけに白い。漂白じゃない。消毒でもない。
新品の紙箱みたいに乾いた、“規格の白”。
ドアを開けた。
内廊下は古いはずなのに、蛍光灯が影を許さない白さで、壁の塗装が均一すぎた。
埃がないわけじゃない。埃が“見えないように整えられている”。
足音が揃って聞こえる。
揃っているのは、紗良の歩幅が紗良のものじゃないからだ。
ふと隣の部屋のドア脇を見る。
表札がない。
外した跡もない。釘穴もない。日焼けのムラもない。
最初から「名札」という概念が存在しなかったみたいに、白いプレートの影だけがそこにある。
「……え、ここ、空室?」
声に出した瞬間、廊下の白が一段だけ明るくなった気がした。
明るいのに暗い。
明るいのに、掴む場所がない。
背中側で小さな靴音がした。
振り向く前に、もう隣にいる。
胸元に四角い白。
名札。白い名札。
【安全サポート】
薄い文字。薄い肩書。
なのに、それだけが妙に重い。目が吸い寄せられる。
読め、と命令されているみたいに。
「おはようございます」
声は丸い。角がない。
角がないほど逃げ場がない、と紗良はなぜか知ってしまう。
「……おはよ」
返事した。
返事した瞬間、スマホが勝手に熱を持った。
【安全のためコメントを一部制限しています】
動画の下に、礼儀正しすぎる文章が浮く。
浮く文章を見ているうちに、紗良は自分が何に返事をしたのか分からなくなる。
「今日もお出かけですか?」
「うん、まあ……大学の、えっと」
“大学”と言った瞬間、固有名が喉の奥で粉になる。
学部名、駅名、サークル名――言おうとした角が、全部、丸く削られる。
安全サポートは微笑んで頷いた。
頷きが、許可みたいで怖い。
「良いですね。ですが、場所が分かると人が集まります。人が集まると事故が起きます」
正しい。
正しすぎて反論ができない。反論しようとすると、自分が“危険な人”になる気がする。
「だから、目印は外しましょう」
外しましょう。
救いの言い方。救いの顔。
救いの顔で、切り落とす言い方。
紗良は名札を見てしまった。
読んでしまった。
「……あんぜん、さぽ――」
最後まで言えなかった。
喉が乾いて、乾いた微音が呼吸の隙間で真似をした。
紙を揃える音。箱を畳む音。印鑑を押す音。――ピッ。
その瞬間、スマホ画面の自分の名前が消えた。
消えるというより、“丸くなる”。
『友達』
紗良のアカウント名が、ただのラベルになる。
ラベルは誰のためでもある顔をする。
誰のためでもある顔は、誰のことでもない。
「え、なにこれ……」
言ったはずなのに、字幕が追いつかない。
追いつかない代わりに、丁寧すぎる言い換えが出る。
『私は、友人と合流して……』
自分の口が、自分を“友人”に言い換える。
自分の声が、自分を丸めていく。
紗良は必死に笑った。
「や、だいじょぶだいじょぶ。私こういうの強いから」
根拠はない。
でも言わないと、消える気がした。
安全サポートは笑顔のまま瞬きをしない。
「大丈夫です。帰れます」
言い切る。
帰れるようにします、と同じだ。
そう言ってくれるのに、背中が冷える。
紗良は最後の力で、陽菜にDMを打った。
『陽菜、ちょっとさ』
送信した瞬間、文字が白い泡になって浮き、着地しない。
なのに――既読だけが増えた。
既読。既読。既読。
返事はない。
返事がないのに、確認だけが増える。
画面の中の紗良がカメラに向かって言う。
『ね、陽菜――』
呼びかけは途中で切れた。
呼び切れない。
呼び切れないことが、この白い廊下の作法みたいに綺麗だった。
動画がぶつっと止まる。
止まったのに、廊下の白だけが続く。
最後に、画面の中央に残ったのは――名札の白。
【安全サポート】
その白が、静かに呼吸していた。




