第九話 白手袋(ホワイト・グローブ)【後編】
白手袋は否定しない。
否定しない代わりに、陽菜の袖口へ視線を落とす。
そこに何も無いのに、あるはずだった位置へ視線が正確に刺さる。
「目印を消してあげただけです」
白手袋は柔らかく言った。
「安全のために」
それだけ。
それ以上、説明しない。
言葉を増やさない硬さが、“規格”の刃だ。
陽菜の胸の奥が、また靄る。
外の霧じゃない。言葉にできない濁り。
白手袋が、辞典に指を伸ばす。
指先で、ページの見出し語の辺りをなぞる。
わざとらしく、丁寧に。
まるで人前で片付けをするみたいに、“正しさの儀式”として。
紙は消えない。
ページも破れない。
消えるのは、インクだけだ。
――いや、インクが消えるというより、“読めること”が消える。
凹凸と匂いだけが残る。
紙の繊維の手触りだけが残る。
言葉の骨が抜かれて、肉だけ残ったみたいに、ページが薄くなる。
陽菜の喉が乾く。
乾いた微音が、呼吸の隙間で真似を始める。
桐島が一歩前へ出た。
善意じゃない。喧嘩でもない。嗜好で前へ出る。
「それ、趣味? それとも仕事?」
桐島の声は軽くも重くもない。
ただ、乾いている。
白手袋は初めて、桐島の方を見る。
見るというより、分類する。目の温度がない。
「……共犯候補」
白手袋は小さく言った。
それは台詞というより、ラベルの読み上げだった。
桐島の眉が、ほんの一瞬だけ動く。
0.2秒の表情。嫌悪と、興味の間。
「やだな、それ」
桐島は笑わずに言う。
「俺、名札つけるの嫌いなんだよね」
陽菜は反撃の形を探した。
目印を消されるなら、目印を一つに固定できない状態を作るしかない。
媒体をずらす。紙と光と油性の矛盾を重ねる。
陽菜はポケットから油性ペンを取り出した。
ペン先の匂いが強い。現代の匂い。生活の汚れの匂い。
スマホの画面を白く点ける。
その白は、拭き上げた白じゃない。
目が痛む白。生活の白。
陽菜は地面にしゃがみ、スマホを路地の湿った箇所に置いた。
画面が水面に反射して、白が揺れる。
揺れる白は、規格になりきれない。
その上に、辞典の端を当てる。
紙が少し湿る。湿ることが、ここでは武器になる。
陽菜は油性ペンで、辞典の余白に“目印”を書いた。
【D-11】ではない。
消された番号を真似しない。
番号を作り直すのではなく、番号が決められないようにする。
陽菜は短く断言する。
「目印が一つに決まらないなら、消せない」
白手袋の指先が止まる。
止まるのは動揺じゃない。処理の計算だ。
整列欲が、わずかに乱れる。
白手袋は、しかし笑わない。
怒らない。
ただ、手袋の指先で空中をなぞるようにして、何かを“確定”させる。
そして、陽菜の耳の奥で鳴った。
ピッ。
鳴っていないのに鳴る。
その音は“通知”というより、印鑑の押される音に近い。
陽菜は胸騒ぎに耐えながら、白手袋を見る。
白手袋は、ゆっくり手を引いた。
引く動作が綺麗すぎて、撤退が“整って”いる。
「……今日は、ここまでで」
白手袋は言った。
同じ主張は繰り返さない。
その一言だけで、こちらを“作業対象”として片付ける。
白手袋は去る。
去りながら、道を汚さない。
足跡すら残さない。
陽菜は勝った気がしなかった。
矛盾は作れた。目印を揺らせた。
でも、何かが“処理済み”になった気配がある。
桐島が小さく舌打ちする。
「……今、俺の名前、滑った」
「え?」
「呼ばれた気がしたんだよ。……でも、呼ばれてない」
桐島は自分の喉を指で押す。
「言おうとすると、喉が乾く。きも」
陽菜の背中が冷える。
敵は引いたのに、持っていった。
持っていったものが、何か分からないのが一番怖い。
陽菜は辞典を開いた。
さっき白手袋がなぞったページ。
見出し語は白い。
白いというより、穴が開いている。
ページ番号だけが残っている。
番号は残っているのに、そこに載っていたはずの言葉が無い。
言葉が無いのに、番号が“ここにあった”と主張してくる。
陽菜は顔を上げた。
店員の笑顔が思い出される。
悪意のない笑顔で、「そんな店、ありません」と言った口元。
その笑顔が、今やっと不自然に見える。
気づけなかった。
気づけないように、整えられていた。
胸の奥の靄が濃くなる。
外の霧は薄い。
薄いのに、内側が濃い。言葉がないぶん、厄介だ。
「……正しいことって」
陽菜は息を吸う。吸える。吸えるのに、間が置けない。
「こんなに、いけすかないんだ」
桐島が横で、笑わずに頷いた。
「うん。だから、面白い」
路地の奥で、乾いた光がまた一段だけ強くなる。
拭き上げられた白が、街を正しくしていく。
その正しさの中で、陽菜の内側の靄だけが、乾かないまま息をしていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「先が気になる」と感じていただけましたら、画面下にある**【ブックマークに追加】や、【評価(☆☆☆☆☆を★★★★★に)】**で応援をいただけますと幸いです。
読者の皆様の評価が、何よりの執筆の励みになります。 次回の更新も、どうぞよろしくお願いいたします。




