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第九話 白手袋(ホワイト・グローブ)【前編】

 下北沢(しもきたざわ)の路地は、昨夜よりも明るかった。


 明るいのに、暗い。

 水気がない。雨上がりの匂いがない。路面の黒が、乾いた布で拭き取られたみたいに均一だ。


 三笠(みかさ)陽菜(ひな)は立ち止まって、路地の入口を見た。


 そこにあるはずの木の看板がない。

 釘穴すらない。

 木片の影も、塗料の滲みも、雨にふやけた木目の癖も――何ひとつ残っていない。


 “無かったこと”の清潔さだった。


「……ここだよね」

 桐島(きりしま)(たまき)が、軽く言う。


 軽いのに、声が乾いている。

 乾きが喉に触れて、陽菜の胸の奥の靄がむず痒くなる。


「ここ、です」

 陽菜は言い切った。言い切らないと、自分の記憶が滑り落ちそうだった。

「ここに……店が」


 桐島は路地の壁に指を当てる。

 触り方は雑で、でも正確だ。汚れを探るみたいに、指先だけが働く。


「壁、粉っぽい。拭いた匂い」

「拭いた……?」


 陽菜はスマホを取り出した。

 昨夜の塔の白い画面を思い出す。黒いアイコン。冷たい分類。


 検索窓に言葉を入れる。

 ――入れようとして、指が止まる。


 入れる言葉が、無い。


 (もや)――。

 打っても、字面が軽い。軽すぎる。画面の上で単語が浮いて、着地しない。

 “ここ”に結び付く錨がない。


「……言えない」

 陽菜は唇だけ動かした。

「言葉が、浮く」


「消されたんだね」

 桐島は淡々と言った。

「目印だけ」


 目印だけ。

 その言い方が、昨日の通知の空欄を連れてくる。


 陽菜は路地の奥へ歩き出した。

 歩いても“到着”が発生しない感覚が、背中にまとわりつく。

 近づいているのに近づけない。距離が濡れない。空気が乾いて、呼吸の間が薄い。


 突き当たりに、カフェがある。

 そこは確かに現代の店だ。ガラス。白い照明。整えられた椅子。


 陽菜は店員に声をかけた。


「すみません。この辺りに……古い喫茶店、ありませんでしたか」


 店員は首をかしげ、すぐ笑った。

 悪意のない笑顔。接客の正しさの笑顔。


「古い喫茶店、ですか? この周辺は新しいお店が多いので……」


 笑顔が軽い。

 軽いのに、陽菜の胸が重くなる。


 店員は続ける。

「そういう“噂”みたいなのは、たまに聞きますけどね。ここらへん、夜に霧っぽくなる日があるって」


 霧っぽい。

 “靄の日”じゃない。

 言い換えられて、薄められて、丸められた言葉。


 陽菜の口の中に、苦い味が広がった。

 言葉が丸められると、記憶も丸まる。


 桐島が店員に向けて、にこりともせず言った。


「霧っぽい、ね。便利な言い方」

「え?」

「いいえ。ありがとう」


 店員の笑顔は崩れない。崩れないまま、陽菜を“何も無い場所”へ返そうとする。


 そのとき、陽菜の袖が、ふっと軽くなった。


 軽い。

 布の重さが変わったわけじゃない。

 肌の上から、何かが消えた。


 陽菜は反射で袖口を掴んで、めくった。


 【D-11】が無い。


 無い。

 剥がした跡も無い。赤みも無い。粘着のぬめりも無い。

 最初から無かったみたいに綺麗だ。


 世界が、軽くなった。


 軽くなって、怖い。


 目印が消えたら楽になるはずなのに、楽にならない。

 楽になった分だけ、何に掴まればいいのか分からない。

 息を吸う。吸える。吸えるのに、吸ったあとに置く間が、どこにも置けない。


「……やだ」

 声が喉の奥で擦れた。

「軽いのが……やだ」


 桐島が陽菜の袖を見て、目だけで舌打ちする。

 怒りじゃない。嫌悪だ。綺麗な手際への嫌悪。


「取られたね」

「……触られた感覚が、無い」

「そう。触られたって言えないのが一番やばい」


 背後で、布が擦れる音がした。


 振り向く前に、空気が変わる。

 漂白剤じゃない。消毒でもない。

 “規格”の匂い。新品の紙箱みたいな乾いた匂いが、鼻の奥に入ってくる。


 陽菜が振り向く。


 白い手袋が見えた。


 雨は降っていないのに、路地の端に水たまりがある。

 水たまりは濡れている。濡れているのに――白い手袋だけが濡れない。


 撥水じゃない。

 濡れが成立していない。


 手袋の持ち主は、男か女か分からない。輪郭が整いすぎている。

 濡れないコート。皺がない。靴の先が汚れていない。

 近づくほど、こちらの生活の汚れが恥ずかしくなる。


「……靄?」

 白手袋が、穏やかな声で言った。

「その本にですか? 見せていただいても?」


 丁寧な声。丁寧すぎて、断るとこちらが悪になる。


 陽菜は辞典を抱え直した。

 抱え直した腕が乾く。乾くのに汗が出ない。


「見せられません」

「そうですか」


 白手袋は頷くだけで、責めない。

 責めないまま、距離を詰める。


 陽菜は息を吸った。

 吸って、短く言い切る。祈りじゃない。読解だ。


「あなたは……目印を消しに来た」

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