第八話 靄の残り香(クリーンアップ・サイン)【後編】
「すみません!」
謝罪の声と一緒に、人の流れが押す。陽菜の身体が半歩ずれる。
半歩ずれた拍子に、袖口が引っかかり――
【D-11】が、ふわりと持ち上がった。
剥がれる、ではない。
抵抗なく、持ち上がる。
痛みがない。粘着がない。
“取れる”という行為だけが、綺麗に成立してしまう。
陽菜の心臓が遅れて跳ねた。
息を吸う。吸える。吸えるのに、吸ったあとに置く間が薄い。
「……っ」
陽菜が袖を押さえた瞬間、桐島の指が滑り込んだ。
速い。速いのに乱暴じゃない。むしろ手際が良すぎて怖い。
桐島はリップクリームを指に取り、札と布の境界にぬるりと塗り込んだ。
粘着が曖昧になる。札が“どちら側のものか”決めきれなくなる。
「……ほら」
桐島は陽菜の耳元で囁いた。
「綺麗に取れそうだったでしょ。あれが一番やばい」
「誰が、そんな綺麗なことを」
「白い人」
桐島は平然と言った。
「白いってさ、救いの顔するから嫌い」
陽菜は喉を押さえたくなった。喉が乾く。乾きが、さっきより細い。
乾いた微音が、呼吸の隙間で真似を始める。
ホームの端――広告のパネルの向こうに、一瞬だけ“白”が見えた気がした。
白い手袋。
もしくは、白い布。
もしくは、濡れない白。
見えたと思った瞬間、視線が滑る。
そこにあったはずなのに、見直すと誰もいない。
いない方が本当みたいに、周囲の空気が拭き上げられている。
「見た?」
桐島が聞く。
「……わかりません」
「わかんないのが、正解かもね」
桐島は笑わない。
「見えると、目印になるから」
電車が来る。
ドアが開く。
人が乗る。
日常が正しい速度で進む。
その正しさの中で、陽菜だけが“拭き上げられた匂い”に気づいてしまう。
駅の床。手すり。広告のガラス。全部が同じ光を反射している。
掃除の結果としての光――生活から余白を削る光だ。
陽菜は辞典を抱きしめた。
抱きしめた腕が、少しずつ乾いていく。
乾いていくのに、汗は出ない。汗が成立しない。
肌が紙みたいに、粉っぽくなる。
「……来てる」
陽菜が言うと、桐島は頷いた。
「うん。来てるね。管理しに」
その瞬間、陽菜のスマホが勝手に震えた。
通知音は鳴らない。鳴らないのに、耳の奥で――
ピッ。
画面が白く点灯する。黒い塔のアイコン。
文面は短い。温度がない。分類だけ。
【監査補助:クリーンアップ開始】
【対象:目印】
【実施者:——】
空欄が、最初からそこにあったみたいに清潔だ。
陽菜は指が動かない。動かないのに、喉が動く。喉が“乾いた微音”を真似して、息の間を削り始める。
辞典を抱えた腕が、さらに乾いた。
紙を抱えているのに、紙が湿らない。
湿らないことが、怖い。
桐島が画面を覗き込んで、低く言った。
「……やだな。これ、優しい顔してる」
陽菜は答えられなかった。
答えられない代わりに、胸の奥に薄い靄が生まれる。
外の霧じゃない。言葉にできない、内側の濁りだ。
その濁りが、乾かないまま息をしていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「先が気になる」と感じていただけましたら、画面下にある**【ブックマークに追加】や、【評価(☆☆☆☆☆を★★★★★に)】**で応援をいただけますと幸いです。
読者の皆様の評価が、何よりの執筆の励みになります。 次回の更新も、どうぞよろしくお願いいたします。




