第八話 靄の残り香(クリーンアップ・サイン)【前編】
朝の光は、夜の湿りを嘘みたいに乾かす。
窓の外の白は、冬の白ではない。拭き上げた床みたいな白――“汚れが無い”ことを示す白だった。
三笠陽菜は洗面台の前で口をすすいだ。
水の冷たさが歯に刺さる。いつもなら目が覚める刺さり方なのに、今日は違う。冷たさが“正しい位置”に入ってこない。喉の奥に薄い膜があって、そこへ水が当たって滑る。
袖口に指を入れる。
【D-11】。
あの夜から、ずっと。
剥がしても貼り替わる。洗っても残る。痛みだけが残る。
残るという事実が、生活の輪郭を変えてしまう。歯ブラシの柄、シャツの縫い目、スマホの角――触れるたびに「ここに目印がある」という情報が先に立つ。呼吸の間が薄くなる。
陽菜は爪を札の角に当て、ほんの少しだけ持ち上げた。
痛みが来ると思った。皮膚ごと引っ張られる、あの赤い痛み。
来ない。
来ないことに、背筋が寒い。痛みがないのは優しさじゃない。痛みが成立しないほど“綺麗に”扱われている。
札は、半分だけ浮いたまま戻らない。
浮いているのに剥がれていない。
剥がれていないのに、“取れていく予告”みたいに軽い。
「……やめよう」
陽菜は袖を下ろした。下ろした瞬間、肌が乾いた気がした。乾いた、というより粉っぽい。拭き上げられた光が皮膚に擦り込まれたみたいに、手の甲の血色が少し薄い。
テーブルの上に外来語辞典が置いてある。
昨夜、閉じたはずの重さ。重さはある。紙の匂いもある。
なのに、ページを開く指が躊躇う。開けば持てる――と思うほど、持てないものが見える予感がする。
陽菜は息を吸って、開いた。
見出し語が白い。
白い、というより、そこだけ“滑る”。
インクが消えているわけじゃない。見えるのに、持てない。目が乗らない。指が止まらない。読む動作が成立しない。
その瞬間、耳の奥で薄い針が鳴った。
ピッ。
スマホは鳴っていない。台所も静かだ。
それでも耳の内側だけが、乾いた微音を真似する。呼吸の間が、また薄くなる。
陽菜は辞典を閉じた。閉じる所作だけは、まだ自分のものだ。
閉じた表紙に掌を置くと、紙が熱を持っていないのが分かる。紙は人の温度を吸うはずなのに、今日は吸わない。紙が“衛生的”だ。
玄関を出る。
駅へ向かう道の空気も、どこか乾いている。濡れているのに、濡れが成立しない。雨上がりの匂いが薄く、代わりに洗剤の匂いに似た“規格の匂い”が鼻の奥に残る。
改札前で、桐島環が待っていた。
黒いパーカー。寝癖みたいに乱れた髪。軽薄な服装なのに、立ち位置が妙に正確だ。人の流れに対して半歩だけズレた場所――邪魔にならず、視線が抜ける場所に立っている。
「おはよ。……顔、白い」
「白いって言わないでください」
「じゃあ、乾いてる」
桐島は笑うでもなく言った。
「乾きってさ、衛生の顔するから嫌い」
陽菜は袖口を見せた。半分だけ浮いた【D-11】。
桐島の目が一瞬だけ細くなる。興味の目だ。善意ではない。
けれど、その興味が今は救いに近い。
「……それ、取れそう」
「それが怖いんです」
「うん。取れるのが怖いの、わかる」
桐島はあっさり言った。
「取れたら、最初から無かったことになるでしょ」
その言い方が胸を冷たく撫でる。
無かったことになる――それは楽になる、という顔をしている。
でも、楽になるって、守る理由も消える。
「誰が、取るんですか」
「さあ」
桐島は肩をすくめた。
「でも、匂いがする。管理しに来る匂い」
管理。
陽菜はその単語を飲み込む。飲み込むと喉が乾く。乾きが、また微音を孕む。
ホームへ降りる。
電車は来る。来るのに、来ることが嬉しくない。
“到着”が成立するのが怖い。成立した瞬間、何かに捕まる気がする。
人混みの中で、陽菜のスマホが“浮く”。
便利なはずの冷たさが、今朝は恥ずかしい。
ここは現代なのに、現代の道具が異物になる。――それが、昨日の霧の余韻だ。
桐島がポケットを探り、白い筒を出した。
「はい」
「……何ですか」
「汚す用」
「汚す用?」
「うん。透明のやつ。リップクリーム」
桐島は真面目な顔で言った。
「境界を曖昧にすると、持ち上げられにくい。綺麗だと、つまみやすい」
陽菜は躊躇した。
化粧品で怪異に対抗する、という発想が滑稽に思えてしまう。
けれど、滑稽さは時々、正しさの刃を鈍らせる。
陽菜は筒を受け取り、【D-11】の周りの布に薄く塗った。
油膜ができる。布が僅かに光る。
光は清潔じゃない。生活の光だ。
「……気持ち悪い」
「気持ち悪いのが、生きてるってこと」
桐島は軽く言って、少しだけ声を落とす。
「綺麗にされると、死ぬよ」
そのとき、背後から肩がぶつかった。




