第七話 靄の古店舗(リワインド・シェルフ)【後編】
カウンターの奥に店主がいた。
初老の男。髪は七三に撫でつけ、整髪料の甘い匂いが微かにする。白いシャツに黒いベスト。腕まくりが小気味よく、手首がよく動く。
指先は乾いているのに、動きは活きている。カップを回す角度が一定。スプーンを置く音が軽い。布巾の折り目が、やけに“正しい”。
働き者の活力。
気風のいい忙しさ。
――なのに温度だけがない。物を並べる手の温度だ。
「いらっしゃい。二人かい」
声は明るい。明るいのに、断れない調子で座席まで“当然”を運んでくる。
店主はレジ脇の伝票台から、複写式の手書き伝票を一枚引き抜いた。
カリカリ、と鉛筆が走る。紙の下でカーボンが擦れる音が、妙に鮮明だ。
伝票の控えが、きっちり切り取られて束ねられている。ここは“運用”されている。
陽菜の袖の【D-11】が、じわりと熱を持った。
紙が熱いのではない。皮膚が熱い。赤く引っ張られた場所が、また痛む。
店主の目が札に落ちる。ほんの一瞬。
その一瞬で背中に「選別」の冷たさが走った。
「お席、こちらへ」
誘導が自然すぎる。断れない自然。断ると“悪”になる空気。
“返さなければ悪”と同じ匂いが、ここにもある。
店主がメニューを置いた。
紙のメニュー。角が丸い。指の脂で少し黒ずんでいる。文字は手書きで勢いがある。元気な字だ。
【ナポリタン】
【ミックスサンド】
【クリームソーダ】
【本日の定食】
陽菜は定食を選んだ。選ばされた、に近い。
ここでは“普通”が正しい。普通に寄せるほど息が削れる。
運ばれてきたのは白い皿の焼き魚と味噌汁、浅漬け。
湯気が立つ。香りはちゃんとしているのに匂いの角が丸い。
一口、口に入れる。
……薄い。
薄いというより、尖っていない。
塩気が舌の先に立たず、全体が「大丈夫」に寄っている。安心の味。
けれどその安心が、逃げ道を塞ぐ手触りを持っている。
陽菜は思わず桐島の方を見た。
桐島も同じタイミングで口を動かしていて、目だけが少しだけ笑っていた。
「……味、優しすぎません?」
声を落として言うと、桐島はさらに声を落とす。
「うん。景気いい味」
「景気いい?」
「いや、そういう話あるらしいよ。不景気になると味が濃くなって、スカート短くなるって」
桐島はすぐ肩をすくめた。
「誰かの雑学。たぶん嘘。……でも、ここは濃くしなくていい場所なんだと思う。濃くしないことが“正しさ”」
優しい味が命令になる。
陽菜の喉が少し乾く。乾きは、余白が削られたサインだ。
ピッ。
鳴っていないのに鳴る。
音が皿の白さの奥に潜っている。
陽菜は喉の奥で一行を探した。
言い切れば取っ手になる。祈りじゃない。読解だ。
唇だけ動かして、声にした。
店の音に紛れる程度の、小さな断言。
「……“戻りたい”を正しさだと信じた瞬間、靄は“戻れる時代”を提示して、今から余白を徴収する」
言った瞬間、店内の空気が少し硬くなる。
硬くなるのは、条件が言葉にされたからだ。隠れていたものが隠れられなくなる。
桐島が横で、嬉しそうに息を吐いた。
「読めたね」
「読めても、助かるとは限らない」
「そう。だから面白い」
店主の笑顔が、ほんのわずか揺れた。
揺れた直後、店主は何も言わず陽菜の前の箸の向きを揃え直した。
箸先が、きっちりと同じ角度になる。
皿の位置も、数ミリだけ直される。
――カツ。
乾いた音が、やけに響いた。
怒りじゃない。
罵声でもない。
散らかされたものを、無意識に整列させる反射。
その反射の冷たさが、店主の“正しさ”の芯だと分かる。
陽菜の袖の【D-11】が、じわりと滲む。
書体が変わる。番号の形が、古い数字の癖を帯びる。札が、この店に馴染もうとしている。
桐島が、箸を置いて言った。
「ほら。スマホも浮くし、札も馴染もうとしてる」
「馴染みたくない」
「うん。馴染むと、住めるから」
「住む……?」
「棚にね」
棚。
その単語が胸の奥で冷たく鳴った。
店主が明るい声で言う。
「いいねえ、若いのにちゃんとしてる。こっちは座る場所がある。座れば人になる。な?」
客席から、揃った笑いが起きる。
元気の正しさが、空気を押してくる。
陽菜は息を吸う。吸える。けれど、吸ったあとに置く間がまた薄くなる。
このまま座っていたら、薄い味に慣れて、薄い命令に慣れて、いつのまにか“戻れる時代”の住人にされる。
戻りたい、が刃になって自分を切る。
陽菜は、席を立った。
椅子が床を擦る。
その音だけで、客の視線が一斉に揃う。
揃う視線は優しい顔で、逃げ道を塞ぐ。
「……戻りたい」
陽菜は店主に向けてではなく、自分に向けて言った。
「でも、戻る宛先は、過去じゃない」
店主の眉が、ほんの一瞬だけ動く。
そしてまた、笑う。明るく。断れない明るさで。
「過去はいいぞ。分かりやすい。頑張れば褒められる。頑張らなきゃ叱られる。それでいいじゃないか」
分かりやすい分類。
分かりやすい罰と褒め。
それは救いの顔をしているが、命令の骨を持っている。
陽菜は、レジ脇の伝票台を見た。
複写式の伝票。控え。束。
“運用”されている棚の仕組み。
ここで戻る人は、ここで“記録”される。
なら、記録の宛先を反転させればいい。
陽菜は一歩レジに近づき、伝票を一枚だけ取った。
紙のざらつきが指に引っかかる。カーボンの黒が、見えないところで待っている。
「ちょっと、勝手に――」
店主が言いかけた。
その声は明るいままなのに、空気が一段締まる。
陽菜はペンを借りない。
スマホを出した。
ここでは異物の冷たさ。恥ずかしい温度。
でも今夜は、その冷たさが“今”の証明になる。
画面を伝票の上に置く。
白い光が紙を照らす。古い匂いの中で、現代の冷たい光だけが浮く。
陽菜は伝票に、指で書く真似をした。
文字は残らない。残らないのに、脳がそこに文字を書いたと信じる。
信じた矛盾だけが盾になる、と、あの冷たい声がどこかで言った気がした。
「宛先:三笠陽菜」
「……」
「差出人:三笠陽菜」
店内の霧が、ふっと揺れる。
戻りたい、の宛先が過去である限り、棚は成立する。
でも宛先が“今の自分”なら、戻る行為は逃避じゃなく回収になる。
棚が提示する“戻れる時代”は、目的地ではなくただの経由地に落ちる。
陽菜は息を吸った。
吸える。
吸えるなら言い切れる。
「戻りたい。――だから戻る」
陽菜は伝票を胸に当てる。紙の冷たさが、心臓の鼓動に触れる。
「過去じゃない。今に」
店主の手が一瞬止まる。
そして、そろばんの玉がカチ、と動いた。
誰も触っていないのに動いた。
“整列”が揺らいだ音だ。
霧が濃くなる。
濃くなるのに、息が戻る。
矛盾のせいで、徴収が噛み合わなくなる。
棚は残る。
でも棚が噛み取ろうとしていた余白だけが、口の中で滑って落ちる。
客席から明るい声が飛ぶ。
「兄ちゃん、帰るのかい!」
笑い声。揃った笑い声。
その揃い方が、今度は少しだけズレる。
ズレるのは、条件が折れた証拠だ。
陽菜は桐島の手首を掴んだ。
桐島は驚かない。驚かないのが怖い。
「出ます」
「うん」
「……怖くないんですか」
「怖いよ」
桐島は小さく言った。
「でも、怖いって言うと物語が綺麗になる。……綺麗なの、嫌いなんだよね」
そのまま、扉へ。
鈴が鳴る。チリン。
ガラスが薄く震える音が、背中にまとわりつく。
外へ出た瞬間、霧が一段薄くなった。
街のLEDが戻る。フォントの角が尖る。
スマホの冷たさが“浮く”のではなく、やっと“馴染む”温度に戻る。
――戻った。
戻ったのに、胸の奥に紙の匂いが残っている。
回収した余白は、まだ湿っている。
陽菜は振り返った。
そこにあったはずの店の看板は、もうない。
路地は普通の路地だ。
でも、空気のどこかに棚の存在だけが残っている。分類の冷たさが残っている。
「……消えないんだ」
「うん。棚は残るよ。残る方が、面白い」
桐島が言いながら、陽菜の袖を見る。
【D-11】は、まだそこにある。
ただ、熱が引いている。
貼り付く痛みが、今は“境界”として落ち着いている。
陽菜は息を吐いた。
吐ける。
吐けるはずなのに、背中に冷たい視線のようなものが刺さった。
さっき見えた、レジ裏の棚。
光る薄い板。データの匂い。
偶然の噂じゃない。棚は流通している。
そのとき、陽菜のスマホが勝手に震えた。
通知音は鳴らない。
鳴らないのに、耳の奥で――ピッ。
画面が白く点灯する。
黒い、塔のようなアイコンが一つ。
文字は短い。冷たい。分類だけ。
【共同体案件:出品場所/靄の日】
【状態:徴収停止】
【札:D-11/保持】
陽菜の指が震える。
桐島が覗き込んで、笑いもしない。
「……ね。やっぱり、面白い」
霧は乾かない。
乾かない霧の中で、余白だけが湿ったまま息をする。
陽菜はスマホの冷たさを握りしめた。冷たいのに、今はそれが“今”の体温の反対側として、確かにそこにある。
「……戻れた。だから、次は――」
言い切る前に、霧がまた少しだけ濃くなる。
下北沢の街が、遠くと近くの間を濡らしていく。
棚は、まだそこにある。
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