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第七話 靄の古店舗(リワインド・シェルフ)【前編】

第七話 靄の古店舗リワインド・シェルフ


 湿った空気は、光を食べる。

 雨上がりの夜、地面がまだ昼の熱を抱えたまま冷えはじめると、温度差で生まれた微細な水滴が空気の層を曇らせる。街灯の白は散乱して輪郭を失い、遠近の尺度だけが狂う。

 霧はただの水じゃない。距離という概念を濡らす。――“遠い”と“近い”の間にあるはずの余白を、べったりと塞いでいく。


 下北沢(しもきたざわ)の夜は、その濡れた距離に沈んでいた。

 駅前の看板は読める。読めるのに、文字が古い。フォントの角が丸く、インクの滲みみたいな陰影が見える。LEDのはずなのに、蛍光灯の鈍い色温度が混じって、街そのものが一枚、別の皮膚を被ったようだった。


 人通りが少ない。

 少ないというより、最初から“ここに集まるはずの人”が別の棚に並べ替えられたみたいに、街の密度が薄い。


 三笠(みかさ)陽菜(ひな)は袖口を押さえた。

 白い札――【D-11】。

 剥がしても貼り替わる。洗っても残る。皮膚の奥に番号が染みたみたいに、そこにある。


 昨夜の雨のせいで、札の角が少し浮いている。

 陽菜は反射で爪を入れた。


「……っ」


 剥がれた。

 ――いや、剥がれた“気がした”だけだ。

 紙が離れた瞬間、皮膚が一緒に引っ張られて赤くなる。粘着のぬめりが指に残って、取れない。痛みが遅れて追いつき、じん、と脈に混ざった。


 数歩歩いたところで、陽菜は袖を見下ろして息を止める。

 剥がしたはずの札が、別の位置に“貼り替わって”いる。まるで、こちらの行動を笑うみたいに。


「……私の生活が、もう展示ケースだ」


 口に出した瞬間、喉の奥で鳴っていない音が鳴った。

 ピッ。


「今日、やばい日だよね」


 背後から気軽な声。

 桐島(きりしま)(たまき)が、濡れた髪を指で払って立っている。黒いパーカーのフードを被っても、目だけが街灯みたいに醒めていた。

 軽薄に見えるのに、足の置き方だけが妙に正確だ。濡れた路面のどこが滑るかを、身体が知っている。


「“やばい日”って、何ですか」

「ほら。モヤる日。……たまにあるじゃん。人が減って、店が増える日」


 増える、という言い方が気持ち悪い。

 店が増えるのは、建築じゃない。棚卸しだ。分類の増殖だ。


 陽菜は喉の奥で、鳴っていない音をもう一度探す。

 ピッ。

 鳴らない。

 でも耳の内側にだけ、薄い針が刺さるように鳴る。


 陽菜は反射でスマホを握り直した。

 指の腹にガラスの冷たさが貼り付く。便利なはずの冷たさが、今夜は「ここに要らないもの」の温度だった。


 画面の時計表示が、一瞬だけ古い書体に化ける。

 電池残量のアイコンが、黒い棒みたいに太くなる。

 すぐ元に戻る。戻るのに、戻った方が嘘っぽい。


「……スマホ、浮いてる」


 呟いた言葉が霧に吸われた。

 返事の代わりに、紙の匂いが返ってきた気がした。


 桐島は陽菜の袖の【D-11】を見た。

 札の存在を、視線だけで撫でる。


「それ、まだ付いてるんだ」

「……取れない」

「取れない方がいいこともある」

「いいこと?」

「だってそれ、目印でしょ」


 目印。

 その単語が胸の余白を削る。目印は辿られるためにある。辿られれば、どこかに“到着”させられる。


 陽菜の頭の奥に、先日のホームの感覚が蘇る。

 案内板の“まもなく”が永遠になった、あの薄気味悪さ。

 “到着”が先送りにされ続ける恐怖。


「……来るんですか」

「うん。来るよ。今夜のは、面白い匂いがする」


 面白い。

 桐島がそれを言うとき、善意は混じらない。嗜好だけが露骨になる。猫が動く影に反射で飛びつくみたいに。


「でも、陽菜ちゃんの方は――」

 桐島は一歩近づき、声を落とした。

「“戻りたい”って思ってる?」


 陽菜は息を吸った。吸える。けれど、吸ったあとに置くはずの間が薄い。


「……思ってない」

「うそ」

「……分からない。戻りたいって、何に」


「いいね」

 桐島は笑いそうになって、やめた。

「“何に”って聞けるの、好き」


「好きとか言わないでください」

「言うよ。趣味だから」


 霧の奥で、路地が一本、ふっと濃くなる。

 街の皮膚が、そこだけ違う年代を被ったみたいに、看板の文字がさらに丸く見える。電話番号の表示が妙に短い気がする。桁が足りない。なのに不自然じゃない。


 陽菜の足が、そこへ吸い寄せられる。


 ピッ。


 鳴っていない通知音が耳の奥で鳴る。

 桐島が言った。


「行こ。迷う前に」

「迷う前に?」

「迷うと、正しさに捕まる」


 正しさは刃。刃は、霧の中でよく光る。


 路地の入口に、木の看板が出ていた。

 木目が古い。けれど古さがわざとらしくない。雨で膨らんだ木の繊維が、呼吸している。墨の匂いがする。印刷じゃない。手で書いた匂い。


【古物 喫茶 ひさご】


「こんな店、あったっけ」

 陽菜の声が小さくなる。小さくなるのは怖いからじゃない。確かめる余白を残そうとしているからだ。


「普段は無いんじゃない?」

 桐島は平然と言った。

「無いものが“ある”のが、今夜の味」


 扉に手をかけると、取っ手が冷たい。冷たいのに指が吸い付く。吸い付く感覚が、袖の札の粘着と同じだ。


 陽菜は一瞬、手を引きたくなった。

 引きたくなると、理由を外に求めたくなる。

 でも今夜は、外に投げたくない。


「……こわい」

 陽菜は呟いた。

「でも――」


 桐島が言葉を奪うように先に言った。


「急がされる方が、もっとこわいでしょ」


 陽菜は黙って頷き、扉を押す。


 鈴が鳴った。

 チリン。

 金属の澄んだ音じゃない。ガラスが薄く震える音――古い店の音だ。


 同時に、匂いが来る。

 湿った紙。黄ばんだビニール。煙草が染みた布。

 甘いのに苦い。飴玉みたいなニコチンの残り香が、壁紙の裏から滲んでいる。


 入口脇に赤電話(あかでんわ)が置いてあった。

 受話器が重そうな赤。ダイヤルは透明の黄ばみ。

 なのに飾りじゃない。コードが床を這って奥の棚へ繋がっている。


 レジ横には新聞。

 折り目が指の脂で黒ずみ、日付だけがやけに目に刺さる。

 ――年号が、当然みたいに印刷されていた。


 さらに、レジ台の端に黒いそろばんがある。

 玉が擦れた音が、微かに響く。

 誰かが触ったばかりのように、玉が一つだけ定位置から半分ずれている。

 “飾り”じゃなく、今も使われている。そういう生臭さが、霧の中で生きていた。


 客がいる。

 いるのに、視線が合わない――はずだった。


 違う。

 視線は合う。ただし、合い方が古い。

 誰もが一瞬だけ笑って、すぐ同じ角度に戻る。

 笑い声は明るいのに、回数と間が揃いすぎている。


「兄ちゃん、景気いいねえ!」

 誰かが陽気に言う。

 次の瞬間、別の席でも同じ調子の笑いが起きる。

 活力がある。妙にある。

 活力があるのに、呼吸する余白がない。


 ここでは“元気”が正しさで、元気じゃない者は置き場所が無い。

 その圧が、コーヒーの香りより先に喉を締めた。

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