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第六話 観測の雨(ログは乾かない)【後編】

 雨の高架下で、陽菜(ひな)のスマホだけが何度も震えた。

 既読の鎖が指に絡み、返事を打つたびに文字が錆びていく。

 桐島(きりしま)は覗き込みも説教もしない。

 ただ、陽菜(ひな)の手からスマホを奪って電源を落とし、濡れた親指で画面の端を拭いた。


「正しさで自分を縛ると、簡単に盗まれるよ。息とか、明日とか」

 陽菜(ひな)が抗議しようとすると、桐島(きりしま)は笑うのをやめて言った。

「でもさ。君、面白い。退屈が死ぬ」

 それは助けたいじゃない。一緒に面白がりたいの告白だった。

「だから共犯。いい?」

 雨音の中で、その一言だけが異様に乾いていた。


 * * *


 電源を落としたスマホは、静かだ。

 静かなはずなのに、陽菜(ひな)の耳の奥ではまだ鳴っていた。


 ピッ。


 桐島(きりしま)はそれを見抜いたみたいに、口の端だけを上げた。


「電源落とすの、綺麗でしょ」

「……はい」

「綺麗なの、嫌いなんだよね」


 言い方が軽いのに、目だけが醒めている。

 軽口のふりをした本音。

 桐島(きりしま)の趣味が、そこにある。


「じゃあ、汚くする」

「汚く?」

「うん。逃がす。溝に捨てるみたいに」


 桐島(きりしま)はスマホを持ったまま、水たまりの前にしゃがんだ。

 濡れた路面に映るのは、鉄骨の黒。車のライト。雨の筋。

 その反射の中に、桐島(きりしま)の顔が揺れている。


 桐島(きりしま)はスマホの画面を点けた。

 電源は落としたはずなのに、画面がつく。

 陽菜(ひな)はぞくりとした。


「……勝手に」

「うん。勝手に観測されてる」


 桐島(きりしま)はスマホを水たまりの縁に置いた。

 画面が、ちょうど水面を映す角度。

 水面には、スマホを覗き込む自分の顔――観測者の顔が映る。


「これね、趣味」

「……趣味?」

「観測の指紋、消すやつ」


 桐島(きりしま)は濡れた親指で画面の端を、もう一度だけ拭った。

 その動きが、さっきより丁寧だ。

 まるで“証拠”を消すみたいに。


「返さない、ってやるとさ」

 桐島(きりしま)は水たまりを見つめたまま言う。

「物語が綺麗になる。主人公が意思で抗う感じ。正しい感じ」

「……」

「でも、綺麗なの嫌い。綺麗はすぐ分類されるから」


 分類。

 その言葉が、背中を撫でた。


「じゃあ、どうするんですか」

「矛盾。君の得意技」


 桐島(きりしま)は笑わない。

 代わりに、水たまりの反射を指で軽く叩いた。

 雨粒が弾けて、画面に映る顔が歪む。


「電波はある」

「……」

「観測もされる」

「……」

「でも、命令にならない」


 陽菜(ひな)は喉が乾くのを感じた。

 乾きは命令の入口だ。

 入口を塞がないといけない。

 塞ぐのではなく、成立不能にする。


 桐島(きりしま)は短く言い切った。


「届くのに、誰にも届かない」


 その瞬間、陽菜(ひな)は理解した。

 返信をしないのではない。

 受信も成立させない。

 送受信の外へ置く。

 圏外ではない。

 電波はあるのに、宛先が消える矛盾。


 スマホが震えた。

 震えたのに、音がしない。

 陽菜(ひな)の耳の奥のピッが、一瞬だけ止まった。


 静寂。

 処理完了ではない。

 中断。

 雨音の膜だけが、二人の間に降りる。


 桐島(きりしま)は立ち上がり、手のひらを軽く払った。

 水滴が飛ぶ。

 その飛び方が、適当なようで正確だ。


「助けるって言うと、物語が綺麗になる」

 桐島(きりしま)はもう一度だけ言った。

「……綺麗なの、嫌いなんだよね」


 善意じゃない。

 嗜好だ。

 だから共犯になれる。

 共犯は守りではない。

 一緒に汚れる契約だ。


 * * *


 雨が少しだけ弱まった。

 高架下の音が、薄くなる。

 車の音が遠のく。

 人の足音が減る。

 世界が一度だけ、息をする。


 陽菜(ひな)は水たまりに置かれたスマホを見た。

 画面は暗い。

 暗いのに、そこに何かがいる気配がした。

 観測者の気配。

 目が、画面の向こうにある。


 そのとき。

 スマホが勝手に点いた。


 白地に黒い塔。

 文字は冷たく、事務的。

 感情のない分類語彙。


【観測ログ:取得済】


【対象:三笠(みかさ)陽菜(ひな)


【共犯候補:桐島(きりしま)(たまき)/接触】


【監査予定:——】


【未払い余白:—秒】


 数字がないのが怖い。

 —が、穴みたいに見える。

 穴は埋めたくなる。

 埋める材料は恐怖だ。

 恐怖が、喉を乾かす。


 陽菜(ひな)の身体が、遅れて震えた。

 “やっぱり取られていた”が、確定した。

 さっき感じた減り方が、ここで名前を持つ。


 桐島(きりしま)は、初めて表情を変えた。

 ほんの一瞬だけ。

 目の奥の醒め方が、少しだけ硬くなる。


 桐島(きりしま)は何も言わない。

 言葉にすると分類が進む。

 分類を嫌う嗜好が、沈黙を選ぶ。


 その沈黙の方が、台詞より怖い。

 “上がいる”。

 “見られている”。

 “関係が登録された”。

 そして、いつ来るか分からない。


 空欄は、未来の刃だ。


 雨音が、また少しだけ強くなる。

 まるで世界が、ログを洗い流そうとしているみたいに。

 洗い流せないのに。


 * * *


 陽菜(ひな)は「ごめん」と言いかけた。

 共犯に巻き込んだ。

 危険を連れてきた。

 謝るのが正しい。


 でも謝ると、役割が固定される。

 “被害者”と“助けた人”に分けられる。

 分けられると、次からはその形でしか呼吸できない。


 桐島(きりしま)が遮った。

 声は低い。怒っていない。

 ただ、面倒くさそうに。


「謝ると、役割が固定される」

 桐島(きりしま)は自分で言ってから、舌打ちするみたいに笑った。

「ほら、綺麗になりかけた」


 陽菜(ひな)は息を吸った。

 雨上がりの匂いが、少しだけ混ざってくる。

 土の匂い。鉄の匂い。紙の匂い。

 下北沢(しもきたざわ)の匂いが、生活に戻ろうとしている。


「……共犯って」

 陽菜(ひな)は言葉を探す。

 倫理ではない言葉。

 守りではない言葉。


 桐島(きりしま)は肩をすくめるだけだった。

 その仕草が、答えだ。

 共犯は契約じゃない。

 趣味だ。

 面白い方へ寄る癖だ。


 陽菜(ひな)は袖の【D-11】を見た。

 まだ貼られている。

 貼られたまま、雨粒がそこだけ避けるみたいに落ちない。


 ログは残る。

 観測は乾かない。

 乾かないなら、手で折るしかない。


 陽菜(ひな)は、短く言い切った。


「ログは乾かない。……乾かないなら、折るしかない」


最後までお読みいただきありがとうございます。


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