第六話 観測の雨(ログは乾かない)【前編】
朝の光は優しいふりをする。
カーテン越しの白は、脳に「大丈夫」と言いながら、同時に「急げ」とも囁く。
三笠陽菜は袖口を見下ろした。
白い小さなシール。バーコード。番号。
【D-11】
昨夜、下北沢の階段を降りたあとも、剥がさずに貼ったまま帰った。
剥がすのは「見ないふり」になる気がした。
見ないふりは餌だ、と誰かが言った。
自分が言ったのか、誰かの声だったのかは曖昧だ。
洗面所で水を出す。
石鹸で袖を擦る。
泡が白く濁り、番号だけが残る。
「……落ちない」
爪を立てた。
シールの端を掬う。
粘着が、意地悪なくらい肌と布の両方に噛みついている。
剥がす瞬間、皮膚が引っ張られた。
ほんの一瞬――薄い痛み。
赤い筋が袖口の内側に残る。
痛みは小さいのに、身体の奥で「これは自分のものじゃない」という違和感が大きくなる。
剥がれた。
剥がれたはずだった。
指先に、粘着が残った。
透明な糸みたいに、ねっとりと。
こすっても取れない。
水で流しても、取れない。
指がずっと“貼り付く側”のままだ。
陽菜は息を吸った。
入る。
でも、間が薄い。
吸って吐く、その隙間が、誰かに指でつままれている。
服を着替えようと、Tシャツの袖を通したときだった。
鏡に映る二の腕の外側に、白い点が見えた。
【D-11】
さっき剥がしたはずのシールが、そこに貼られていた。
同じバーコード。
同じ番号。
同じ、無表情な白。
「……貼り替わってる」
喉が乾く。
説明を探す癖が、舌先に浮かぶ。
粘着が強いから? 静電気? 洗剤の成分?
外に原因を投げた瞬間、少しだけ楽になる。
楽になるから怖い。
陽菜は鏡の中の自分を見た。
眠れていない目。
息の浅い胸。
そして、皮膚に貼られた札。
言葉が、口から漏れた。
「……私の生活が、もう展示ケースだ」
言った瞬間、部屋が少しだけ狭くなる気がした。
自分の言葉で自分を分類した、と身体が気づいたのかもしれない。
* * *
スマホが震えた。
振動の回数が、いつもより短い。
短い振動は、命令に似ている。
画面には通知が並んでいる。
大学のグループチャット。
バイト先のシフト。
母からの「今夜帰る?」
広告の「あなたに最適」。
種類が違うのに、匂いが同じだ。
全部が同じ角度で迫ってくる。
――返せ。
――今すぐ。
指が勝手に画面を開く。
指が勝手に返信欄に触れる。
返信候補が出る。
いつもの三つ。
「承知」
「了解」
「確認します」
陽菜の指が、迷う前にひとつを選んだ。
選んだのは自分のはずなのに、選ばされた感じがする。
送信。
送信した瞬間、胸の奥で何かが減った。
空気が減るのではない。
呼吸の“間”が、薄くなる。
吸って吐く、その間の柔らかい部分だけが削られる。
次。
次。
次。
返すたびに、喉が乾く。
乾くたびに、息が浅くなる。
浅くなるたびに、早く返さないといけない気がする。
陽菜はスマホを置こうとして、置けない。
置くと「遅い」が貼られる。
貼られると、罪になる。
罪になると、さらに返さなければならない。
――“返さなければ悪”。
その信仰が、部屋に漂っている。
部屋の空気自体が、既読の鎖になっている。
通知音は鳴っていないのに、耳の奥で小さく鳴る。
ピッ。
陽菜は肩をすくめた。
鳴ってない。鳴ってない。
そう言い聞かせても、胸の奥は減っていく感覚だけを知っている。
画面の端に、影が見えた気がした。
影というより、圧。
見えない指が喉元を軽く押す圧。
陽菜は、言い切る言葉を探した。
成立条件。
でも、まだ言い切らない。
言い切った瞬間、確定してしまう。
確定は怖い。
怖いから、人は確定を外に投げる。
陽菜はスマホを握りしめ、家を出た。
* * *
下北沢の空は低かった。
雲が街の上に板みたいに張り付いている。
雨が落ちてくる前の、圧のある湿度。
歩きながら、陽菜は地図を開けなかった。
地図を開けば、最短が再発火する。
最短は盾にならない。
盾にするのは矛盾だ。
分かっているのに、指は地図を探る。
ピッ。
鳴っていない。
鳴っていないのに、耳の奥だけが鳴る。
耳が勝手に「催促の音」を作っている。
雨が降り始めた。
最初は細い針。
次第に粒が太くなる。
アスファルトに落ちた水滴が弾け、無数の白い点になる。
点は増えて、線になり、線は面になる。
街が反射で二重になる。
高架下に入った瞬間、音が増えた。
雨音が鉄骨を叩く。
車の走行音が壁に反響する。
人の足音が水たまりを割る。
全部が一緒になって、心臓の裏側で鳴る。
陽菜は歩いているのに、到着しない。
道が長いのではない。
“到着”が先送りにされる、あの薄気味悪さが戻ってくる。
ピッ。
また鳴る。
鳴るたびに、息の間が削れる。
削れるたびに、焦る。
焦るたびに、返信したくなる。
スマホが震えた。
画面を見ないと決めた。
見ないふりは餌。
でも、見ないと喉が渇く。
陽菜は立ち止まった。
高架下の柱の横。
水たまりが足元に広がっている。
水面に、街のネオンが滲む。
滲んだ光の中に、自分の顔が混ざる。
その瞬間、背後から声がした。
「……そこで止まると、余計に削れるよ」
振り返ると、桐島環がいた。
黒いパーカー。濡れた前髪。
相変わらず、笑うのに目が醒めている。




