第一話 欠落の手癖(ミツバチと塔)【前編】
新宿の夜は、星の代わりに看板が瞬く。
大気中の微粒子――排気の煤、花粉、工事の粉塵、冬の乾いた塩粒――それらがネオンの光を散乱させ、空に薄い膜を張る。赤は熱の記憶、青は冷却の命令。街は巨大な放熱板みたいに、誰かの焦りと、誰かの正しさと、誰かの“今日”の余熱を捨て続けている。
この十年で、街の重力は変わった。
迷いにかかる重力が増えたのだ。
いまの新宿は、寄り道を罪のように扱う。
地図は「最短」を提示し、配達アプリは「最適」を選び、SNSは「正解」を拡散する。正解の方へ流れるだけなら、考えなくていい。考えなくていいというのは、呼吸が楽になる代わりに、肺が弱ることでもある。
――肺が弱ると、人は“言い訳”を失う。
言い訳が失われると、人は“他人のせい”を吸い込む。
その日、三笠 陽菜は、新宿駅から大久保方面へ向かう人の川の縁を歩いていた。流れの中心に入る勇気がないわけじゃない。中心は速度が一定で、むしろ楽だ。でも、中心に入ると、流れを変えられない。
陽菜は、変えられないことが怖い。
大学二年。
背は平均より少し低く、肩幅が狭い。けれど歩幅は早い。早いというより、追い立てられるようだ。
髪は黒いのに、街灯の下では青い影を含んで見える。低い位置でひとつに結び、前髪は目にかかる寸前で止まっている。視界を塞がないぎりぎり。
服は、白いシャツと黒いスラックス。安いスニーカー。腕時計はしていない。代わりにスマホがすべての時間を持っている。
役割は、学生で、アルバイトで、まだ何者にもなれていない人間。
特徴は、言葉の曖昧さに耐えられないこと――ただし、その耐えられなさを“正しさ”の顔で隠してしまうこと。
陽菜は歩きながら、スマホを見ていた。
SNSのタイムラインでは、誰かが誰かを裁き、誰かが誰かを救っている。どちらも同じ速度で流れる。「正しい」という言葉が、砂糖みたいに過剰に振りかけられている。
――正しい。
陽菜の胸の奥が、かすかに痒くなる。
正しいって、何だろう。
誰が、どの物差しで、どの瞬間に決めるのだろう。
考え始めると、息が浅くなる。だから陽菜は、考えないために“手癖”を使う。
検索だ。
陽菜は、さっき講義で聞いた言葉を打ち込む。
「アカウンタビリティ 意味」
予測変換が、勝手に次を差し出す。
「アカウンタビリティ 日本語」
「アカウンタビリティ 責任」
「アカウンタビリティ 説明責任 違い」
候補は優しい。優しい顔で、思考のハンドルを奪う。
陽菜はそれを知っていて、でも手放せない。
なぜなら候補に従っている間だけ、自分が“間違えた”責任を持たずに済むから。
――自分で決めない。
――外の正しさに預ける。
それが、陽菜の欠落を補う技術だった。
道端の大型ビジョンに、広告が流れる。
「最短で叶える」「最適で選ぶ」「あなたに合わせた正解」
正解が“配達”される時代。
新宿は、バベルの逆再生みたいに見えることがある。
かつて神が言語を散らしたなら、いま都市は言語を束ね直そうとしている。
バラバラの言葉、バラバラの役割、バラバラの正しさ。
それらを一つの巨大な意志――“統一された正解”――で再統合しようとしている。
その統合装置の名前を、陸奥は冗談みたいに言った。
「東京バベル」
カフェ《ミツバチと塔》は、そのバベルの縫い目にある。
歌舞伎町の端と大久保の境界。
多国籍の看板が重なり、夜の匂いが入り混じる場所。
蜂は、言葉を集める。
塔は、言葉をまとめる。
店の名前は、街の秘密をそのまま看板にしたみたいだった。
陽菜が店のドアを押すと、鈴が鳴った。
チリン。
その音だけは、どんな夜でも同じ高さで鳴る。
同じ、というのは安心でもあるし、呪いでもある。
「お疲れ」
カウンターの奥から、店主の陸奥が声をかけた。
陸奥(むつ)は三十代半ば。
長身ではないが、立ち方が静かで、影が薄い。薄いのに目を引く。
髪は黒に銀が混ざり、無造作に見えて、寝癖の角度まで計算されているような不思議さがある。
服は洗いざらしのリネンシャツ、濃紺のエプロン。袖は肘までまくり、指先はいつも乾いている。
役割は店主で、夜の境界の観測者。
特徴は、人を慰める言葉を知っているのに、慰めないこと。優しいのに体温が低い。正しさを語るほど、声が温度を失う――その矛盾が、陸奥という人間の刻印だった。
「遅くなってすみません。課題が長引いて」
「謝るのは簡単だ。簡単なことから先にやる癖がつく」
「え、なにその刺し方」
「刺してない。縫ってる」
陸奥はマグを拭きながら、目だけ笑っていない笑みを浮かべた。
陽菜は、胸の奥の痒みをごまかすように更衣室へ向かい、エプロンを締めた。
紐を結ぶ。きつく。ほどけないように。
結び目があると安心する。結び目は世界がほどけない証拠みたいだ。
カフェの夜は、忙しいときほど静かだ。
注文は短い言葉で飛び、会話はスマホの画面で半分になり、笑い声は写真の裏側へ隠れる。
陽菜はその静けさが好きだった。
好きなのに、時々息が詰まる。
静けさは、曖昧を飲み込む速度が速い。
最初の客は、二十代の会社員らしい男性だった。
コートに付いた雨の匂いが、外の街を連れてくる。
「カフェラテ、ホットで。砂糖なし」
「かしこまりました」
陽菜が返すと、男性はスマホを見ながら言った。
「……いや、砂糖ありで。やっぱり。今日、頭甘くないと無理」
「砂糖、ありですね」
陽菜は言い直しながら、内心で“無理”の定義を探す。
無理って何だろう。限界?疲労?逃避?
定義を探している間に、ミルクが泡立つ。
泡は、定義がない。だから綺麗だ。
次の客は、観光客の二人連れ。言語が混ざる。
「ここ、写真、OK?」
「ほかのお客様が写らないようにお願いします」
陽菜が言うと、二人は嬉しそうに頷いた。
壁のタイルを撮る。蜂の羽の模様。
シャッター音が、夜の空気に穴を開ける。
その穴に、言葉が落ちてくる。
「ヤバい、ここ、ヤバい」
「めっちゃヤバい」
ヤバい、ヤバい。
陽菜の胸の奥が、また痒くなる。
会計のとき、陽菜は思わず聞いてしまった。
「すみません……何が、ヤバいですか」
二人はきょとんとして、次に笑った。
「全部!」
「全部ヤバい!」
全部。
全部ほど便利な言葉はない。全部ほど危険な言葉もない。
陽菜は苦笑して、レシートを手渡した。
心の中で、自分の癖を叱る。
聞くな。ほどくな。
ほどけない糸に爪を立てると、自分の指が裂ける。
陸奥は、カウンター越しにそのやりとりを見ていた。
何も言わない。
言わないことが、陸奥の優しさでもある。
陽菜は、言わない優しさを理解できるほど大人ではない。
閉店が近づくころ、常連の老婦人が入ってきた。
白いコートに真珠のブローチ。
髪はきちんとまとめられ、口紅は薄い。
足取りが静かで、店内の空気が一段落ち着く。
「こんばんは。いつもの」
「紅茶ですね」
陽菜が答えると、老婦人は頷き、席に座った。
しばらくして陸奥が紅茶を運ぶ。
老婦人はカップを両手で包み、湯気を吸い込むように言った。
「最近ね、街が“統一”されていくのが怖いの」
陽菜が瞬きをする。
陸奥は反応しない。
老婦人は続けた。
「みんなが同じ言葉を使い始めると、誰かが息できなくなるでしょう」
陽菜の胸がきゅっと縮む。
息ができない、という言葉は、比喩じゃなくなる時がある。
陸奥がカップの受け皿を指先で揃え、静かに言った。
「言葉は酸素です」
老婦人が目を細める。
「酸素?」
「多すぎれば燃える。少なすぎれば死ぬ。ちょうどいい量の曖昧が、人間を生かす」
陽菜はその会話を聞きながら、胸の痒みが別の形になるのを感じた。
痒みは、怖さと同じ場所に住んでいる。
老婦人が帰り際、ふと陽菜に視線を向けた。
「あなた、きっと“正しい”のが好きなんでしょうね」
陽菜は笑って誤魔化す。
好きじゃない。
でも、好きだと言った方が楽だ。
老婦人はそれ以上何も言わず、夜へ消えた。




