逃亡者③
大通りに面した宿屋の一室。粗末だが静かで、人目を避けるにはちょうどいい。薄明かりのランタンが揺れる中、リアは窓辺に座り風を感じながら夜の街を眺めていた。
艶やかな白髪が風に揺られ月光を帯びる。
紅の瞳はエスペラントの街並みから生まれる無数の光を見つめている。
リアとジェドはエスペラントにやってきて数日間、この宿屋で滞在していた。ジェドはリアをこの部屋に残して出かけることが多い。次の街へ向かう道や情報を集めてくれているのだろうと思う。
ジェドはリアが外に出て目立つことを嫌う。出かける際は常にフードを被れと指示されている。恐らく自分のこの特異な容姿のせいなのだろう。白い髪に紅い瞳というのははこの世界では珍しいもので、人目に付くことでトラブルに発展しかねないと言う。
ジェドが言うのならそうなんだろう、と思った。
外を見ていると、扉の開く音がした。向こう側からジェドが姿を現す。いつものように黒い外套に大剣を背負って武装している。
その様子を見て、「自分だって目立ってるじゃん…」と少し文句を言いたくなった。しかし自分が何を言っても論破されてしまうのがいつもの流れなのだ。
ジェドに馬鹿にされるので、そこは黙っておくとする。
「おかえりなさい。」
「ああ。」
ベッドの近くに大剣を降ろし、外套を脱ぐと早速ベッドに横たわるジェド。
「外を見ていたのか。」
「うん…。ずっと部屋にいて暇なんだもん。
誰かさんにここにいろって言われてるからね〜。」
少し皮肉めいた発言をするも、ジェドには全く効いていない。
「お前は出かけてもすぐどこかへ行くからな。
部屋に居てもらった方が楽なんだよ。」
「そうやってまるで私が子供みたいに…。」
「子供だろ。」
「……もう15歳だもん!そうでしょ?」
「15歳なんて、まだまだ子供だ。」
そう言ってジェドは壁側に寝返りをうって、眠る体勢に入った。それが、もう寝るから話しかけるなという合図だということは、一緒に旅をしていて最近分かったことだ。
リアは諦めて夜の街に再び目を向ける。
「サラ、どうしてるかな……。」
リアが塔を出て初めて出来た友人。
彼女と別れて数日経った。彼女との時間はとても楽しかった。出来ればこの街を出る前にもう一度会いたいと思ったが、彼女がどこにいるのかなど知るはずも無い。
「何故そこまであの女のことが気になる?」
ジェドが壁の方を向いて寝ころんだまま、尋ねた。
それに対し、リアは歌うようにごきげんな様子で答える。
「だって、初めてできた友達だもん。」
「お前、友達がどういうものなのか分かって言ってるのか。」
リアの認識する「友達」とは家族とは別の親密な友情関係のことだ。互いに気が合い、親しくする仲だとジェドに答える。
「親密、ね。お前はあいつのことを何も知らないだろ。」
「どういうこと…?」
「あいつの出自も、経歴も、性格も何もかもだ。名前だって本名かどうか分からない。」
まるでジェドはどこか怒っているような雰囲気だった。
リアにはその理由が分からない。
「何が言いたいの、ジェド…?」
「お前は自分の全てをあいつに曝け出せるか?''あの力''のことも。」
リアははっとした様子で黙り込む。
「あまり他人を信用するな。お前は常に危険と隣り合っている。友達だからといって、お前を助けてくれるわけじゃない。」
リアは、ジェドが自分の安全を最優先にしてくれていることを理解している。彼が極力他人と交流することを避けるのもその為だ。サラと話している時でさえ彼は警戒心を決して捨てていなかった。自分が抱える事情や、異質な容姿が危険を呼び込むことももちろん分かっている。塔を出てからそれは経験してきた。
ジェドとは違って自分は無力で、何もできない。守られているだけの存在。
だから、ジェドの言うことに異を唱えることはできない。
しかし___
「でも、私は友達が困っていたら助けたい。力になりたいと思うことは悪いことじゃないでしょ?」
ジェドが困っていても助けたいと思うよ。」
「………そんなお人よしだから危ない目に遭うんだよ、お前は。」
呆れたように言ったきり、ジェドは何も話さなくなった。
リアは再度窓の外に目を向けて、街の光が一つずつ少なくなっていくのをずっと見つめていた。
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地の底に沈んだような静寂。
熱い石壁に囲まれたその地下牢は、かすかな灯火だけを頼りに世界の輪郭を保っていた。
濡れた壁からしみだした水がぽたぽたと床に落ちる度、静寂にさざ波のような揺らぎをもたらしていた。
壁から伸びる錆びた鎖がかすかに軋んで鳴る。
湿った空気が肌にまとわりつき、石壁の隙間から水気を含んだ苔の匂いが鼻をついた。血と鉄錆の混じった臭気が息苦しさをさらに際立たせる。
サラの両手は重い鎖に繋がれて自由を奪われ、硬い石畳の床に倒れていた。鉄の輪は皮膚に食い込み、腕や足には無数の打撲痕と擦り傷、唇の端には乾いた血が滲んでいる。
天井の隅の灯火の明滅が、サラの顔に淡く影を落とし、強さと痛みの入り混じった瞳が静かに燃えている。
「痛っ………。」
身体を起こそうと足を動かそうとすると、腹部の痛みが全身に響き、思わず声を上げる。
つい数時間前に連れてこられたこの場所。気づいた時には両手を鎖で繋がれ、抵抗すること等できなかった。サラをここへ連れてきた連中は、先の戦闘の報復とでも言わんばかりに彼女の体を痛めつけた。全身を蹴打され意識を飛ばしてしまったが、まずは状況を理解しなければならない。
灰の路地を抜ける際に襲撃を受け、油断して捕まってしまった。奴らはサラが追っていた連中で間違いはないだろう。情報屋を通して動向を調査していたが、どこかで勘づかれてしまったのだろうか。ここへ連れてきたということはすぐに殺されることはないだろうが、悠長なことは言っていられない。
早くここから抜け出さなければ……。しかし、体の痛みで立つこともままならない。
音がした。鉄扉が軋みながら開き、数名の男達が中へと入ってくる。襲撃してきた時の黒ずくめの恰好ではなく、鎧を身に纏って戦闘に適した装備を整えている。
兵士の一人が近づき、倒れたサラの前にしゃがみこんだ。無造作にサラの頬を手で掴み、顔を上げさせる。サラの顔を見て、歪に笑う。
「へへっ、こりゃ傑作だ。俺たちを嗅ぎまわっている奴がまさかこんな小娘だったとはなぁ。」
「………っ。」
サラは屈せず、男達を睨みつける。
「名を答えろ。」
冷たい声。だがその背後にはすでにある程度の確証があることを匂わせている。他の兵士達は壁際に立ち、鋭い視線を送っている。誰もが彼女をただの流浪人ではないと理解していた。
サラは答えない。
「サラ・エリュシオン。」
告げたのはサラではなく、眼前の兵士だ。
「イースタニア王国の辺境領、旧エリュシオン領に属していた王族の家系。数年前、エリュシオン家は中央政権によって粛清された反逆者。あんたは行方不明になっていた王女だな。」
「…………。」
「一時は王権継承者として王都に迎えられていたのが、一夜にして反逆者の姫と来た。
どこかで野垂れ死んでいるかと思ったが、身分を隠してこんな所をうろついていたとは誰も思うまい。」
「私達は反逆者じゃない。中央政権の誰かが、お父様を裏切ったのよ。」
サラがそう言い返すと、兵士達は顔を合わせて蔑むように笑った。
「王族の誇りってやつか?反逆者が偉そうに何を言っても無駄だ。王命によってお前を拘束・王都へ連行する。民の前で処刑されるのを楽しみにしてな。」
男は立ち上がり、去り際に答えた。
「俺たちも王都を離れて何日も経って嫌気がさしてんだ。反逆者なんて生かしてさえいればいい。
お前ら。今夜食事が終わったら、この女を好きにしていいぞ。」
男達は下卑た笑みを浮かべながら部屋を出て行った。
再び静寂に帰るも、サラは悔しさをその瞳に滲ませる。
反逆者__と。
そう呼ばれ逃げ続けてきた。いつか自分たちを陥れた奴らに復讐し、疑いを晴らしたい。
その為に生き延びてきたのに、このざまだ。自分は強くない。
「あああああっ!!!」
悔しさで額を床に叩きつける。硬い石畳に当たる額の痛みも皮膚が切れる痛みも、今は感じない。
それ以上に、やるせない。
___と。
部屋の奥の暗がりから一つの気配。
「いけませんよ、美しい顔が台無しだ。」
物腰こそ柔らかいものの、聞き覚えのある声はどこか冷たく感情の色が見えない。
「………お前は。」
襲撃を受けた際、背後から音もなく意識を奪われた。その時の声と気配は間違いなく目の前の男のものだ。長い黒髪が肩に流れ、蒼白の顔に獲物を見つめる蛇のような鋭い瞳。黒いキャソックに身を包んだその男は、灯火に照らされてもなお影のようにぼやけて見えるほど、異様な存在感を放っていた。
服装や首から下げた十字架のペンダントからも男が何者かは明らかだ。情報屋からも教会の人間が奴らと手を組んでいることは伝え聞いていた。
「あなたが本当にエリュシオンの娘であるならば、面白いですね。歴史の帳の中に沈んだ家系が、こうしてまた地上に現れるとは。」
彼はすっとサラの前に歩み寄ると、まるで花でも眺めるかのように顔を覗き込んだ。
「どうして教会の人間が奴らに与しているの。
強力な執行権を持つ異端審問官が、国政や軍事には不可侵の誓約を忘れたなんて言わないわよね。」
「なぜ今、再び姿を現したのか……。その答えを、神は私にお示しになられるかもしれませんね。」
サラの問いかけには答えない。
何を話している……?男の発言は不可解で掴みどころがない。
「……ひとつだけ、お聞きしても?」
声色は穏やかだったが、空気がわずかに張り詰めた。男の目は何かを見透かすように、深くサラの瞳を覗き込んだ。
「最近この辺りで__白銀の髪と紅の瞳を持つ少女を見かけたことはありますか?」
__時が止まったような沈黙が落ちた。
サラの心臓がひとつ、大きく跳ねた。
(リア……?)
そんな特徴的な容姿を持っている人間等、彼女しか思い当たらない。
表情に出さぬよう努めたが、男の口元がわずかに吊り上がった。
「ああ、わずかに動いた瞳、鼓動。知っているようですね?
我々が探している、神のご意志の宿る''選ばれし者''。」
どうして教会がリアを追う…?男の言うことはよく分からない。
サラはリアのことをほとんど知らない。ただ、この男がリアにとって脅威たりえることは明白だ。
男はその場に膝をつき、サラに顔を近づける。
「彼女に会わせて頂けますか?」
背筋の凍るような冷たい微笑。ぞくりと、良くないことが起こるような、不吉な予感が背中を走る。
「そんな人、知らないわ。」
しらを切ると、男はふっと笑みを消した。
「そうですか。それならば仕方がないですね。」
意外にも、あっさりと引き下がった。
「向こう側から来ていただくというのはいかがでしょう?あなたには少し協力して頂きます。」
男の目が冷ややかにサラに向けられる。
地下牢の空気はさらに重く冷たく__まるで神に見放された空間に変貌していくのだった。