逃亡者②
______教会。
この大陸の全土に古くより根付く大規模宗教組織。
それは古くから神の教えと導きに基づき、人が正しく生きる為の戒律を説くとされる。彼らは自らを聖典の守護者と呼ぶ。
彼らの主な活動は寄進や施し、病院の運営、孤児の保護、貧民への食糧配給等を行う。一般市民からすれば救いや懺悔を求められる一種の助け舟。
しかしこれらは表向き。
問題なのは教会の裏の活動 ''異端審問''。
通称''異端狩り''。
教会が定めた教義や戒律に反する思想・魔術・行動を行う者を摘発し、裁き、排除する。異端審問官は教会の中でも最も過激かつ強権を持つ存在であり、俗世の法に縛られずに行動できる。彼らの教義における信仰に背くということは、万死に値すること。人の命を奪うことすら彼らにとっては「浄化」なのだ。
教会は国における式典や儀式の取締等も行っており、国とは密接な関係にある。しかし、国政や戦争に関しては絶対不可侵の誓約を掲げている。彼らが国や私軍に対し協力関係を結ぶことは禁止されている。
サラが追っている連中と教会の人間に繋がりがあるとすれば、何か大きな秘密が隠されていると考えて然るべきだ。
しかし確証がない。信ぴょう性の高い情報はあれど、実際に自分の目で確認したわけではないし、奴らの目的もまだ明確になっていない。奴らに教会の手引きがあることは確かだが、今は動向を追うことが最優先だ。
サラは情報屋の根城を出て灰の路地を抜ける道を進んだ。夜も更けこみ、灰の路地にある通りの店も静かに店じまいを始めている。人通りはほとんど無い。空に浮かぶ月もこの場所では、美しさが霞んでしまうほどだ。
明日になったら、情報屋から得た奴らの駐屯地の情報を元に、この目で何が起きているのか調べよう。
______その時。
沈黙の中に混ざるわずかな呼吸と、革靴が石畳を擦る音。そして明確な殺意。皮膚でそれを感じ取った。
振り向くより先に、背後から重い気配が襲いかかってきた。短剣の鈍い煌めきが闇を裂き、肩口へと振り下ろされる。
だが、サラの反応はわずかに速かった。身を沈め、半歩後ろに滑るようにかわす。刃は外れ、彼女の髪先をかすめて宙を切る。
サラが顔を隠す為に付けていた仮面が外れ、カランと音を立てて落ちる。
「あなた達………。」
サラの目が冷ややかに細められた。
敵は二人。闇に溶け込むような黒装束。顔を覆面で隠している。ただの盗賊でも追い剥ぎなどでもない。
明確な殺意と、無駄のない動き。明らかに訓練された人間のものだ。恐らくサラが追っている連中か、その手先に違いない。
「私に何か用かしら?」
二人は何も答えない。左右から挟み込むように動き出し、サラの次の行動を見張っている。
ただ殺すことが目的か。ならば____
「生きて帰れると思わないことね。誰の差し金か暴いてやるわ。」
腰の剣を抜く。月の光がサラの剣に反射して、彼女の意志のように、鋭く輝く。
二人の追っ手が地を蹴って両側から飛び込んできた。サラは踊るように身を翻し、片方の足を払って転倒させ、刃をもう一人の方へ薙ぎ払う。
男は素早く身を引き、サラの薙ぎ払い後の隙を狙ってすかさず短剣の刃先をサラへ向ける。
踏み込みを解き、腰を回転させることで一撃を躱し、その勢いのまま後ろ蹴りを放つ。男は身を逸らして避けるが、数歩下がらざるを得なかった。
サラは剣を構え直し、わずかに息を整える。
二対一の不利な状況。攻めきれないこの状況で正面から戦い続ければ、いずれ消耗で崩されてしまう。敵の動きは闘技場で力試しをしている時の相手よりも洗練されている。奴らの連携を先に崩すしかない。
剣を引いて重心を低くし、一人に狙いを絞る。真正面から___だがそれは囮だった。
駆け抜ける軌道を逸らし、すれ違いざまに右側のもう一人に踏み込む。剣が風を裂く。ギリギリで男は身を引いて、左の男が斬りかかる。
するとサラは、思い切り地を蹴り上げた。
剣を磨くうち、身についた脚力と跳躍力。サラはまるで鳥のように飛び上がり、空中で前方に回転した。
回転の勢いを利用して左の男の肩にかかと落としを食らわせる。
男は衝撃で短剣を落とし、そのまま地面に転倒する。
サラは男を上から足で押さえつけながら、首元に刃先を向けた。
「言いなさい、誰が雇い主なの!こいつ殺すわよ。」
もう一人の男に対し、脅すように声を荒げる。
形勢はこちらに傾いている。男が気にせず攻撃をしてくるならば、足元のこの男を戦闘不能にさせてから反撃する。
このような危機に、サラは慣れていた。
あの日からサラは、常に追われる身となった。
幾度となく刃を向けられた。幾度となく人を切ってきた。命を絶つ時のあの感触も、不快感も絶望も、忘れることにした。
全ては身を守る為____。
ならば今回も同じことをするだけだ。
______瞬間。
風が変わった。
背後に生まれた、空気の歪み。気づいた時には既に遅かった。気配も殺気もない。わずかな音ですら感じられない。
「_____祈りの時間ですよ。お嬢さん。」
背筋の凍るような低い声が耳元で響いた瞬間、サラの意識は真っ白になった。背中を斜めに走る衝撃。視界がぐらつき、全身から力が抜け落ちる。動かない。声も出ない。
膝から崩れ落ちる身体を、長い腕が丁寧に受け止めた。黒いキャソックを纏った男。血の気を感じさせない細面に、薄く微笑が浮かぶ。
「……やれやれ。2人がかりで何を手こずっているのか……。女子供を傷つけるのは教義に反するのですが、これも致し方ありません。」
一見すると柔らかい物腰の男。しかし目の下に隈を刻んだ気だるげなその顔は確かな狂気を帯びていた。
その男は灰の路地を照らす月を見上げ、呟いた。
「神の御名のもとに。」
サラを抱き上げ、男は路地の奥へと消えていった。
まるでそこには、最初から誰も存在しなかったかのように。