逃亡者①
エスペラントの郊外。闘技場から歩いて通りを3本抜けた先。
そこはかつて戦争難民や迫害を受けた流民、奴隷の身分の人間たちが流れ着いたことで自然発生した、都市エスペラントの影。この区画に貴族はおろか、商人や一般人でさえも立ち寄らない。
名前は付いていないが、人々はこの場所を灰の路地と呼ぶ。
エスペラントの大通りとはうってかわり、崩れかけた石造りの住居や板張りのバラックが密集している。ひび割れた石畳に溜まる濁った雨水。湿った布と煤煙、薬草、腐肉、安酒の混じった空気。鼻につく独特の臭気。
夕暮れを過ぎた空は朱を塗り潰したように濁り、魔石の灯りは頼りなく、まるで街そのものが眠ることを許されぬかのように、薄闇の中で息を潜めていた。
通りを塞ぐように並ぶ屋台は、売り物よりも睨みつける眼の方が多く、目が合えば値を聞く前に値踏みされる。
ここでは名も、肩書も、正義も意味を持たない。何が起こっても助けは無い。
近づかないこと。それだけが生き延びる術だ。
サラは暗い雑踏の中を行きながら、ため息をついた。
いくら都市が繁栄しても、法の埒外にあるこの場所は闇を深めるばかり。
ここでは奴隷売買や魔術具の密輸・闇取引などが横行している。王政はここの実情など見て見ぬふりだ。悪は見える所で繁殖させた方が扱いやすいのだろう。
無秩序は、完全な秩序よりも統治を容易にする。反乱の芽は、この腐臭の中では育ちにくい。誰もが目を逸らし続けている影なのだ。
首に鎖を嵌められたやせ細った少年が、商人に連れられている所とすれ違う。
このような光景をあの白髪の少女が見たらどのように思うだろうか。そのような日が来ないことを願いばかりだが。
心を閉じていたサラに手を差し伸べてくれた大切な友人。あの深く紅い瞳に映るものは、美しいものだけであってほしいと感じてしまう。
こんな場所は彼女には全く相応しくない。
サラはこの通りを歩く時は、常に顔を隠している。今日も仮面を被り、外套のフードを一際深く被って、素性を知られないよう務めている。ここでは誰に見られているか分からない。男女の区別をされない為にも必要なことだ。
裏路地を進んだ所に、半壊した倉庫の扉がある。サラは立ち止まり、扉を軽く叩く。二度間を置いてからもう一度。内側から錆びた音と共に扉がわずかに開かれた。
「あぁ、あんたか。」
現れたのは埃で汚れたスカーフを巻いた老人。
目は細く、笑っているようだが決して笑ってはいない。
「頼んでいた件、何か分かったことはあるか?」
性別を悟られないよう声色を変えて話す。
仮面で声がこもるおかげで、サラが女だということは認識できない。
老人は何も言わずサラを中へと案内した。
倉庫の奥は、まるで何かの内臓のように歪んだ空間だった。天井から吊るされた獣の骨、薬草の匂い、油と硝煙の混じった空気――どれもここがただの倉庫ではないと物語っている。
「奴らの最近の動きはちと気味が悪ぃな。山間や街の近くに駐屯地も増えて密輸の量も増えてる。」
「密輸か…中身は?」
「さてな…。だが最近、ギルドの間じゃ''竜骨''の採取依頼が増えたみたいだな。それと関係性があるかもしれねぇ。」
「竜骨……?」
竜骨は特殊な金属成分を含んでいて極めて軽く、魔力伝導率が異常に高い物質として知られている。王都では“聖骨鋼”と呼ばれ、魔術武具の一部や、加工品として使われることが多い。高値で取引されるが、珍しい代物ではない。
「あんた知ってるか?ゲルマニアで新しく開発された魔術武具のことを。」
サラは無言で頷く。
イースタニアと隣接する、ゲルマニア帝国。
広大な森林と山岳地帯、鉱物資源に恵まれており、魔導鉱石の産出地として知られる。その豊富な魔術的資源によって他国を圧倒する技術大国だ。
ゲルマニアの最大の脅威は「魔工術」の進歩だ。魔術の理論を“再現可能な技術”として体系化した、いわば「理術」のことで、錬金術・重力制御・魔力伝導・義肢技術などにも応用されている。
その魔工術を用いて開発されたのが「魔銃」と呼ばれる武具だ。ゲルマニア独自の魔術武具として研究・開発が進んでいると聞いた。
「ゲルマニアのその魔術武具の一部に竜骨が使われるって噂がある。」
「……ゲルマニアの魔術武具そのものか、もしくは生産法を密輸しているということか。」
「その可能性が高い。戦争でも起こすつもりなのかねぇ。」
「密輸品はどこへ運ばれた?」
「王都の方角へ向かっていったが、どこに行ったかまでは分からねぇ。」
「王都…国軍の者か?」
「さぁな。奴ら商人や傭兵を装ってる。日雇いって訳ではなさそうな連中だったけどな。」
「奴らの主を調べてくれないか。」
サラは老人に対し金の入った袋を差し出す。
老人はそれを見て怪訝そうな顔をする。
「おいおい、あんた勘違いすんなよ。俺ァ傭兵じゃねぇんだ。これ以上クビを突っ込むと何をされるか分からねぇ。悪ぃがいくら金積まれても殺されるような真似はしたくないんでね。」
「そうか…分かった。」
返事を聞くと、扉の方へ振り返る。
彼はあくまで情報屋。自分の仕事とそうでないものの線引きは明白にしているようだ。彼らは闇の世界で要領よく生きる術をよく知っている。
用は済んだ。ここを出て情報を整理しよう。そんなサラの背中に、老人が再び声をかける。
「ま、あんたは常連さんだからな。サービスでいい情報を教えてやる。」
「……何だ?」
「奴らが駐屯地で招き入れてた人間に一人、興味深いのが居てな。」
老人はニヤリと笑いながら煙草を加える。
「異端狩りさ。」
サラの眉がぴくりと動く。
その言葉は、サラの予想だにしなかった。
「教会の人間が奴らと手を組んでる。これをどう考えるかはあんた次第さ。」