第8章
私は開発部次長として海外での仕事をいくつかこなし、次に資材部部長に昇任して、サラリーマン人生としては、成功した方だと自分では思っている。
しかし役員までは届かず、部長で定年を迎え、調査役という肩書であと数年を過ごすことになった。
反抗期だった娘も成人して、長女は都庁に就職し、次女は都内の大学院に進学した。次女の学費を稼ぐためには、あと数年、会社にしがみつかなければならないだろうと思っていた。
しかし次女は案外しっかりしていて、何を専攻しているのかも知らなかったが、企業からの奨学金を獲得して、学費の心配はなくなった。
「これで子育ては終わりかな?」
妻が何となく寂し気に笑いながら問いかける。
「ああ、本当にお疲れさん」
「あなたもね」
久々に妻と二人で街の居酒屋に出向き、ビールで乾杯した。
娘たちの小さい頃の思い出話が一区切りした後に、私は切り出した。
「それで相談なんだが」
「何?」
妻はビールのジョッキをテーブルに置く。
「かなえの学費がいる間は働こうと決めていたんだけれども、奨学金とかをもらって、もう心配はないようだよね」
「本当に、案外しっかりものよね」
「ああ、孝行娘だよね」
「お姉ちゃんのともみもね」
「ああ、本当にいい子に育ってくれたよ」
「まあ、あなたも大変な時期もあったけれどもね」
妻はビールを口に運びながら笑った。
「反抗期って確かにあるんだね」
「でも二人とも、結構お父さんは好きみたいよ」
「そうかな」
私はビールを飲み干して焼酎を注文する。
「それで相談って何? 仕事のこと?」
「ああ」
運ばれてきた焼酎を一口飲んでから、話を続けた。
「年金支給まではまだ三年あるけれど、住宅ローンも既に完済しているし、娘たちへの出費もなくなったし、退職金を含めて幾ばくかの預金もあるから、当面の暮らしには困らないと思うんだ」
「つまり、仕事をリタイアしたいってことね」
「まあ、そういうこと」
妻もビールを飲み干して、レモンサワーを注文した。
「ともみが結婚するまでは頑張って欲しいと思っていたけれども」
「誰か結婚相手がいるのか?」
「娘のこと、やっぱり分からないのね。お付き合いしている人はいるわ」
「どんなやつ?」
私は焼酎を半分ほど飲んだ。
「都庁の人よ。同じ課の先輩だって」
「職場結婚か」
でも公務員なら安心できるかと少し安心した。
「それで、いつ頃を考えているんだ?」
「来年夏頃って言っていたわ」
「そうか、だったらあと一年は仕事を続けるよ。でもともみが結婚したら、辞めても良いよね?」
「ええ、良いわよ。でも、辞めてから何をするの?」
確かにそれを具体的に考えていたわけではない。
「家でゴロゴロするのはよしてね」
会社人間が退職後、何もすることがなくなって社会から隔離され、引きこもり状態になるという話を聞いたことは確かにある。
その時ふと、石垣の風景を思い起こしていた。
「年金支給までの間、別の仕事をやってみるよ」
「別の仕事? 何か計画でもあるの?」
焼酎を飲み干して、饒舌になっていた。
「いや、全く別のジャンルにチャレンジしてもいいのかって思っている」
「別のジャンルって言っても、あなたに出来るの?」
妻は訝し気な表情で見入る。
「別に生活のために稼がなければいけないのではないのならば、何でもありでしょう」
妻がふっと溜息を洩らした。
「借金をして起業しようなんてつもりはないよ。この歳でリスクを負おうなんて気持ちはさらさらない。年金をもらえるようになったら、それこそともみが結婚して孫が出来れば、孫のお世話で忙しくなるだろうしね」
妻はレモンサワーを舐めながら言った。
「いいのよ、好きなことをして」
「いや、そんな好き勝手なことをしようと思っているわけじゃないんだけれどもね」
「娘たちも手を離れたんですから、お互い好きなことをしましょうよ」
妻はレモンサワーを一気に飲み干した。
翌年九月、長女ともみの結婚式を挙げ、次女かなえの就職も決まった。
「お疲れさまでした」
妻と二人きりの日曜日の夜、妻は話を切り出した。
「前に話していたことだけれども、お互い好きなことを始めましょう」
妻の真意を測りかねていた。
「私も子育てから卒業なんだから、私の人生を歩みたいの」
「それってどういう意味?」
妻は一呼吸おいてから言った。
「私も少しばかり、一人で暮らしたいの」
「どういうこと? まさか、熟年離婚ってやつじゃないよね」
私は恐る恐る聞いた。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃないわよ。あなたとは一生一緒にいるつもりよ」
私は安堵した。既に私には、家族という繋がりしか、残っていない。
「でも、しばらく別々に暮らしましょう。私、一昨年お母さんが亡くなってから空き家になっている実家に戻って、家を整理したいの」
そういうことであれば、拒否する理由はない。
「いいよ。片づけてくればいい」
「あなたって、結構そういうところがあるよね」
「そういうところって?」
妻は曖昧に笑った。
「じゃあ僕も、前に言った計画を進めても良いかな?」
「どんな計画なの?」
「飲食店をやろうかと思っている」
「ありがちな話よね」
確かに退職後に趣味の飲食店を始めた、なんて話題はよく聞く。
別に収益にこだわらないから、暇つぶしの道楽として、それはそれで良いんだろう。
でも私は、そんな気持ちでやるつもりはなかった。
「ちゃんと稼ぐつもりだよ」
「そんなに甘くないと思うわ」
確かにその通りだ。でも私はずっと前から計画を建てていて、それなりの調査もしていたつもりだ。それに会社勤めの合間を縫って、数年前から料理専門学校にも通っていたし、料理の腕前についてはそれなりの自信があった。
「まあ良いわよ。それでどこで?」
「石垣だよ」
「やっぱり」
妻は笑った。
「じゃあお互い、迷惑をかけない範囲で自由にやりましょうね」
ある意味で、熟年離婚と大して変わらないのかもしれない。とりあえず家族という集団からの卒業なんだろう。
もし結婚せず、子どもがいなかったら、自分はどんな人生を送っていたのだろうか。今までそんなことは考えないようにしてきたが、ひょっとするとこの先は、ずっと遡って人生をやり直すことになるのかもしれない。私の夏が、ようやく始まったのかもしれない。
私は四月の中旬、十年ぶりに石垣島に渡った。
空港に着陸する直前の、白保の見事なまだら色のサンゴ礁が懐かしかった。空港からバスに乗って市街地に着き、しばらく滞在する離島桟橋に近い安ホテルにチェックインした。
まずは住処を確保しなければならない。
しかしこの島に来る行き当たりばったりの若者とは違い、私はこの島で仕事をしていた時のつてを頼りに、住居だけではなく、店についてもいくつかの当てがあった。それらを二三日で見て回ろうと計画していた。
あの店はどうなっているのだろう。
石垣に仕事で通っていた時常連だった、バスターミナル近くの「千ベロ」の店のことをあえて覚えていないふりをしていたたが、やはり無理だった。私は荷物を下ろしてからすぐにホテルを出て、バスターミナルの方へと歩き始めた。
「新規一名様、千ベロ一丁」
威勢の良い掛け声が飛び交う。
店の若い子たちは、見覚えがない。だが奥で揚げ物をしている店長は、確かに見覚えがある。その店長が一杯目のビールをカウンターに置いてくれた。
「お久しぶりですね。お仕事ですか?」
「まだやっていたんだ」
「まだやっていたんだった、て言うのはひどいですよね」
「そりゃそうだ」
店長は笑った。
「でも十年になりますよね」
店長の記憶力には驚いた。
「あの頃の店員さんは、さすがにいませんよね」
「そうでもないですよ」
そのとき一人の女性が「はいよー」と大きな声でお客さんを迎えていた。
「ねっ」
「確かに」
詩織ちゃんというその女性は、私の石垣での仕事が終わった頃に結婚して、子育てをしながらこの店で働き続けているとのことだ。彼女は黒島出身で、旦那さんも地元石垣だそうだ。だから今でもいるんだろう。島外から移り住んだ若者などは、確かに一人も残っていなかった。
「いつまでいらっしゃるの?」
店長が尋ねる。
「仕事じゃないからね、いつまでかな」
「そうなんだ。じゃあ、毎日来れるよね」
店長の即妙な対応に、思わず苦笑した。
「とりあえず、住むところを探そうと思っている」
「やっぱりね。そんなところだろうと思っていましたよ」
店長は笑う。多分、自分のような人が、若い人だけではなく、多数いるのだろう。
「へー、石垣に住むんだ」
詩織ちゃんが二杯目の泡盛を置きながら言う。
「まあ、プチ移住かな」
永住するる気持ちはさすがにない。人生の後半、おそらく残りの人生の半分ぐらいを過ごすといった計画なんだろう。
「でも結局、この島に住み着いてしまう島外の人もいるけれどもね」
店長が言う。
「彩ちゃんみたいにね」
詩織ちゃんが言う。
彩ちゃんという名前を聞いて、私は動揺した。長らく封印していた存在だった。
私はただ単に、昔仕事で通っていたこの島が忘れられなかったから、退職後の人生の一時期をここで暮らそうと思っていると、それなりの理由を付けていたつもりだった。しかしそんな理由は、本当はこじつけである。
「彩ちゃん、まだいるんだ」
「今でも時々来られますよ」
店長が言う。
「何してるの?」
「米原のペンションを、亡くなった旦那さんから引き継いでやっていますよ。結構頑張っているみたい」
「そうなんだ」
「そう言えば、彩ちゃんと西表に一緒に行っていましたよね」
詩織ちゃんが言う。もう十年前の話なのに覚えているなと驚いたが、この島では時間が止まっているような気がする。
「よく覚えているよね」
「そうね、あの頃が一番お店が盛り上がっていたからかな」
「今でも繁盛しているじゃないか」
店長が千ベロの付け出しを置いて言った。
「お客さんが来られていた十年前は、店をオープンしてまだ一年でしたからね、あの頃が一番新鮮だったのかもしれません。もちろん今も楽しいですが、やっぱりみんな若かったから」
店長がしみじみと言う。
「まだ若いじゃないか。僕なんか、もう定年だよ」
「四十が若いのかどうか」
詩織ちゃんが苦笑する。
「それで、こちらでは何をしてお暮しになるんですか? ペンションとか?」
きっとそういう移住者は多いんだろう。
「まあ、ちょっとした飲食店でもと考えている。ありきたりだけれどもね」
私は自嘲気味に言った。
「じゃあ、うちのライバルだ」
店長が笑う。
しかしきっとそういう移住者が多く、しかしそれほど上手くいかなくてすぐに去ってしまう人も見てきたのだろう。
「まあ、退職後の暇つぶしみたいなもんだからね」
「それだと強いですよね」
「なぜ?」
「何も失うものが無いから」
私は笑った。
二千ベロ目を注文してから一度ホテルに戻り、タブレットを取り出して再び屋台に戻った。
「この部屋を借りようかと思っている」
私は詩織ちゃんにその物件が紹介されているページを示した。
「宮良ですよね」
「よく分かったね」
「そりゃ、この海の風景を見れば分かりますよ」
宮良は市街地と空港の中間あたりにある集落である。海に面した新築のアパートを、私は候補の一つとしてピックアップしていた。
「こっちはどうかな?」
「新川ですよね」
「すぐ分かるんだ」
「そりゃ、いつも見ている景色ですから」
新川は、市街地からほど近いが、海沿いの地域である。
島外からの移住者が好んで住むような物件だと、確かに思っていた。そういったリゾート性のある住居ではなく、普通の島民は市街地に住んでいる。
やはり私は「居留民」に違いない。それは当たり前で、しかしそう言った存在を許容してくれているのが、この島だった。
「やっぱり大川の方が便利かな」
大川は、ここから歩いて行ける距離にある市街地の住宅街である。
「大川は静かで、結構お勧めですよ」
店長が言う。
「住むところがきまったら、お祝いしましょうね」
店長は、気にしてくれているようだった。
私は二千ベロでその店を出て、離島桟橋に向かった。
本当は翌日から住居や店を探すつもりだったのだが、しばらく西表に行きたいと思うようになっていた。
連泊を予定していたホテルを翌日チェックアウトし、大きな荷物は離島ターミナルのコインロッカーに入れて、小さなリュックだけを背負って、私は西表の上原行の高速船に乗り込んだ。十年前の軌跡を辿ろうと思っていたのだろう。