第7章
十月の終わり、私はジャカルタに出張していた。インドネシアの公的な建築計画について、官僚との懇談が目的である。開発事業部の部下一人を連れて行った。
ジャカルタのスカルノ・ハッタ空港はインドネシアの空の玄関口であり、さすがに施設も立派で大きかったが、何となく、南国というつながりで、石垣空港を連想させた。空港から市街地までの道のりも、田舎道を走るという雰囲気が、石垣島を思い出させた。
もういい加減にしてくれと思うが、一年間毎月石垣島に通っていたという何らかの形跡は、すぐに消し去ることができない。
しかし市街地に入ると、一気に高層ビルが建ち並ぶ風景となり、小さい石垣島の趣など消し飛んだ。私は石垣の呪縛から解き放されたような気がした。
仕事の合間にジョクジャカルタにも訪れ、世界遺産となっている街の観光も堪能できた。今まで感じていたモヤモヤが、なんてことない出来事だったと思うことが出来た。
ジャカルタでの仕事を順調に終え、帰国する段になって、少しばかりトラブルがあった。部下と二人で予約していた成田行きの便が、オーバーブッキングとなっていて、一人が便を変更しなければならないようだった。
「確か明後日、友人の結婚式だって言っていたよね」
「はい」
「それならば、君が先に帰ったらいい」
「ですが次長」
「君が先に戻って、結果を部長へ報告してくれ。僕はこれを言い訳に、ちょっとリフレッシュしてから帰るよ。ただし、これは部長に言うなよ」
「はい、わかりました」
部下は笑顔で応じ、空港で分かれた。
さてどうしようか、ジャカルタ市街まで戻って、観光地でも尋ねようかとも思った。
しかし何となく飛行機の発着情報のボードを眺めながら、別のルートで帰国してもいいかなと考えた。
その時、石垣経由で帰国するという案を思いついた。やはり石垣島の呪縛からは逃れられないでいたことに気づく。調べてみると、ジャカルタのスカルノ・ハッタ空港からシンガポールのチャンギ経由で台湾に飛び、台湾から石垣への便がある。確かに石垣空港には国際線ロビーがあった。
私はそう考えたこと自体を打ち消したが、逆にそれが現実化してくる。この経路だと、明日石垣に着くことが出来、午後を石垣で過ごしたのち、明日夜には東京に戻ることが出来る。
私は躊躇しながらも、その考えを実行に移すべく、航空券を買い求めた。一体何をやっているのだろうかと、思わずにはいられなかった。
シンガポールのチャンギ国際空港には夜遅くに着いた。深夜ということで、人気は少なかった。私は途中のカフェでコーヒーを飲んでから、台湾行の便が出るスポットまで移動する。台湾行の飛行機は乗り継ぎ時間もそれほどなく、スムーズにトランジットできた。
しかし台湾から石垣への乗り継ぎは時間が合わず、早朝台湾についたものの、お昼過ぎの便しかなった。それで仕方なく、空港内の飲食店で酒を飲みながら食事して時間を費やした。
飛行機内でも食事は出たが、それほど美味しいものでも無く、少し食べただけだった。だからおなかはすいていたらしい。
台湾の空港のレストランの中華料理はどれも美味しくて、紹興酒と共に堪能できた。しかしそのせいで、飛行機に乗る頃には、かなりできあがっていて、離陸するなり眠りに陥った。
台湾と石垣の間はあっという間だった。
眠ったかと思うと、すぐにシートベルトの着用サインがつき、降下を始める。英語で石垣空港への到着のアナウンスがなされ、見覚えのある景色となる。
石垣島空港へはまだ日が暮れる前に着くことが出来た。あれほど過去の遺物にしようとしていた石垣島に、またやって来てしまっていた。でも石垣島には一泊しただけで、明日午前中に東京に戻ることで、何とか折り合いをつけているつもりだった。
空港から市街地行のバスの車中で、出張で定宿としていたホテルを予約し、終点のバスターミナルを降りてからとりあえず例の千ベロの屋台に向かった。
「新規一名様、千ベロ一丁」
例の女の子が威勢の良い注文を奥に投げかける。
「あれ? 今回もお仕事ですか?」
彼女は一杯目のビールをカウンターに置きながら尋ねる。
「いや今回は、ある所からの帰りの寄り道だ」
「寄り道? 石垣がどこから寄り道できるんですか?」
彼女は不思議な顔をする。
確かに普通に考えて、日本最西端の島々に、どこからかの寄り道で訪れるはずもない。しかし私にとっては確かに寄り道である。
「ジャカルタからの寄り道」
私は笑いながら言った。
「えっ? 訳が分からない」
彼女は益々不思議そうな情になる。
「インドネシアから成田への直行便を取っていたんだけれども、オーバーブッキングで乗れなくなっちゃって、だったらどこか経由で東京に戻ろうと思ってね、だったら石垣ってその途中にあるじゃない」
彼女は貝殻を一枚取り上げながら、「確かにその途中よね」とうなずいた。
本当に納得してくれたかは怪しいが、考えてみれば石垣は、日本と東南アジアの中間である。
「おや、また懲りずにやってきましたね」
出勤してきた店長が早速私を見つけ出し、声をかけてきた。
「何でも、インドネシアからの寄り道だそうですよ」
女の子が店長に声をかける。
「台湾経由?」
「そう、ジャカルタからチャンギ、そして台湾経由の石垣島」
「アジアだけじゃなく、台湾経由で石垣島に来る外人は多いからね」
店長は旅行者の事情に精通しているようだった。確かに石垣には、フランスとか、ヨーロッパからの観光客も多数いた。彼らは東京経由だと思っていたが、日本の他の地区を飛び越えて、直接石垣島にやって来た旅行者がいるのだと、そのとき初めて気づかされた。
貝殻三枚をあっという間に使い切って「千ベロ追加」という威勢の良い女の子の掛け声とともに、ジョッキのビールがカウンターに置かれた。
さすがに飛行機に長時間乗っていた疲れが出てきて、私はうつらうつらし始めていたようだった。
「あれっ、まさか」
そんな時、甲高い女性の声が響いてきた。
「だよね」
「本当だ」
女の子たちの声が益々大きくなる。
私は態勢を立て直して、その声の方向に向いた。
「あれっ、君たちだったの」
そこには新宿の沖縄居酒屋で一緒に飲んだことのある女性三人組がいた。確かに、その頃石垣を訪れるという計画を聴いていたが、私も驚いたが、彼女たちはもっと驚いていた。
「うっそー、何で?」
「いや、仕事でね」
「そう言えば月一で石垣に通っているっておっしゃっていましたよね。本当だったんだ」
一番年下の瑞穂という女の子が言う。
「いや、石垣での仕事と言う訳ではなく、いわば仕事帰りに石垣に寄ったといった感じなんですけれども」
彼女たちには訳が分からない。
「この人、インドネシアからの途中に寄ったんだって」
店長が面白そうに言う。
「えっ、うそー」
彼女たちは顔を見合わせる。私はビールを一口飲んでから、彼女達に向き合った。
一通り石垣に寄った経緯を説明し、彼女たちは驚きの声を上げた。確かに普通ならば、ジャカルタから成田への直行便が取れなかったとしても、チャンギか台湾経由の一回だけのトランジットで成田までの経路は確保できるはずだ。
「やっぱり石垣に来たかったんですよね」
一番年下の瑞穂の問いかけに頷くしかなかった。
「ところで、今夜はどこにお泊りなんですか?」
一番年上の祥子が尋ねてくる。
「離島桟橋向かいの、すぐそこのホテル」
私はバスに乗車中に予約したホテルの名前を伝えた。
「そこって、私たちが今日泊まっていたホテルよね」
女の子三人は頷く。
「ところで君たち、石垣にはいつ来たの?」
「昨日です。昨日は竹富に行って、今日は波照間まで行ってきたんですよ」
歳が真ん中の彩也子が、嬉しそうに言う。
「あそこは星空がきれいだから、せめて一泊はしてみたいけれどね」
波照間島は、有人離島としては、日本最南端の島であり、日本で南十字星が見られる限られた地域として、天文愛好家には知られている島である。島には大きな天体望遠鏡を備えた町立天文台もある。
「今度来たときは波照間で一泊ね」
三人で確認している。
「ところで今日はどこでお泊り?」
店長が彼女達に声をかける。
「明日はダイビングするので、米原のペンションに泊まります」
「米原まではどうやって行くの?」
「バスターミナルからバスで行きます」
「だったらまだまだ時間はあるよね」
店長は楽しそうに笑う。
「千ベロ三丁!」
威勢の良い店員の女の子の声が響いた。
「で、インドネシアはどうでしたか?」
一番年下の瑞穂が尋ねる。
「ジャカルタは大都会だね。でも仕事だけで、どこにも寄れなかったけれども」
「海外のお仕事なんて素敵ですよね」
彼女たちは興味深そうな表情になる。
「いや僕も、海外出張は初めてなんですよ。もっぱら国内、この石垣島なんかでしたから」
「でも石垣島出張自体、超羨ましいんですけれども」
彩也子が言う。
「石垣出張は、この店があったから楽しかったけれどもね」
「はい、ビール一丁サービス」
話を聞いていた店長が、カウンターにジョッキを置いた。
「おいおい、良いのか?」
店長は笑いながら応える。
「後任の川村さんもしょっちゅう来ていただいていますし、実は、あなたのご紹介で来ていただいているお客さんって、結構いるんですよ。インスタグラムで紹介された以上に」
店長は笑う。
「えっ、そうかな。まあ色んなところでここの話はしているけれども」
私は頭を掻いた。
「そうですよ。私たちもそうでしたから」
女の子たちは笑う。
「じゃあ、ありがたく」
私は二杯目のジョッキを傾けるが、まだ酔いは感じていない。
「米原のペンションに、前にお会いした彩子さんって方がいらっしゃるので、すごく楽しみ」
年長の祥子が突然切り出す。
「あの彩ちゃんね、まだやっているんだ」
話を聞いた店員の女の子が口を挟む。
「何か、ペンションのオーナーの奥さんになったとか」
瑞穂が面白そうに言う。
「確かに一度、ペンションのオーナーとかいう人と、ここに来たことがあったわ。でもその時はそんな雰囲気ではなかったけれどもね」
店員の女の子が意外そうな口調で言う。
私はそれを聞いて、すぐにでも東京に戻ろうと思った。彼女に会うことを目的としていたわけでは全然なかった。でも何となく彼女の空気に触れたかったのは事実だ。しかしやっぱりそれはやってはいけないことであることを突き付けられた。このまま東京に戻ろう。
時計を見ると、羽田行の飛行機まではまだ二時間ある。もう一回千ベロを注文してから東京に戻ろう。
「今晩はどうされるんですか?」
一番歳下の瑞穂が尋ねる。
「七時過ぎの羽田便で東京に帰るよ。これ以上は言い訳が効かないからね」
私は投げやりに笑った。
「残念ですね、せっかく石垣でお会いできたのに。明日ダイビングにご一緒できませんか?」
彩也子が言う。
「そんなの無理に決まっているじゃない。インドネシア帰りのスーパーサラリーマンなんだから」
一番年長の祥子が言う。
「そんな、『スーパー』じゃないけれども。現にこんなところに寄り道しているわけだし」
彼女たちは笑った。
私はもう一回千ベロを注文して、羽田行の便に間に合うバスに乗ろうと思った。
彼女達とは、米原の海の様子とか、ダイビングの話で盛り上がった。初めての経験なのだから、その期待感が微笑ましかった。
「もしチューブが海の中で口から外れちゃったらどうなるんですか? 死んじゃいますよね」
瑞穂が真面目な表情で尋ねる。
「大丈夫だよ。一度レギュレーターを口からわざと外して、その後もう一度口に含んで息をする練習をさせられると思うよ。そのとき一度息を吐いて、周りの水を吹き飛ばしてしまうんだ」
「なるほど」
いつの間にか横に座っていた若い色黒の男性が、話しかけてきた。
「皆さん、ダイビングするの?」
「ええ、明日米原で」
「体験?」
「ええ、そうです」
一番年長の祥子が対応する。
青年は二つ目の貝殻を出して泡盛のソーダ割を注文してから彼女達との話を続ける。
「どこから来たの?」
「東京からです」
「何回目?」
彩也子が指を折りながら答える。
「沖縄本島には三回行ったことがありますが、八重山は二回目です」
「いつも三人一緒?」
「そうですね」
「同じ会社? 仲が良いんだね」
「まあ、そうですかね」
「みんな彼氏もいないですから」
三人は笑い、会話は彼へとスムーズに移行した。私は残り二つの貝殻の使い道を考えながら、腕時計で時刻を確認した。
最後の貝殻を渡して白ワインを注文した時、瑞樹がそれに気づいて私に声をかけてきた。
「ねえ、一緒にダイビングしましょうよ。彼がインストラクターということですし」
「えっ?」
「彼、ダイビングショップのスタッフらしくて、米原のダイビングショップのスタッフともお知り合いで、彩子さんもご存知とかですよね」
瑞穂が青年に問いかける。
「ええ、良く知っていますよ」
彼ももう一枚貝殻を渡して泡盛の水割りを注文した。
「彩子さんをご存知なんですか?」
青年が話しかけてきた。女の子三人をまたいでであるが、コの字型のカウンターであるから、話すのに距離感は感じない。
「知り合いと言う訳ではないけれども、このお店で何回かお会いしたことがあるんで」
「そうですか」
店長がカウンターの奥から出てきて、「一緒に西表まで行ったよね」と、ちゃちゃを入れる。
「えー、そうなんだ」
瑞穂が声を上げる。
「店長、参ったな。変な誤解を招くようなことを言わないでよ。ただ酔いつぶれた彼女を西表の職場まで送り届けただけだからね」
私は白ワインを半分ほど飲み干した。
「まあ、そういうことでしたよね」
店長はそう言うが、確かにそんな状況は、「普通に」考えれば、おかしなことである。
「米原に一緒に行きましょうよ」
彩也子が言う。
「実は今、彩子さん、大変な状況なんだよ」
店長が言う。
「それ、どういうこと?」
「先月、旦那さんが亡くなったんだよ」
「旦那さんって、ペンションのオーナー?」
「そう、高波で船が転覆してね」
店長は焼き鳥を網の上に置いた。
「そうなんです」
カウンターのダイビングインストラクターの男性も話をつなげた。
「僕も何回か一緒に仕事をしたことがあったんですけれどもね。年下の僕なんかにも気さくに接してくれる、本当に優しい人でしたよ」
彼は泡盛の水割りを口に運ぶ。
女の子たちは押し黙る。
「僕も聞いた話だから本当のところは分かりませんが、あんなベテランでもミスがあったんでしょうね。確かに波は高かったんですが、普通、あんなところで事故が起こるとは思えないんですけれどもね」
女の子三人も、神妙に話を聞いている。
「どの辺で?」
私が尋ねる。
「新城のあたりだと聞いています」
「新城か」
石西礁湖のほぼ中央に位置する、何人かは居住しているとは聞いているが、ほぼ無人の島である。
「それで彩子さんは?」
私は一番気になることを青年に尋ねた。
「ご主人の実家に寄ってから、しばらくご自身の実家に帰るとか聞いています」
「ご主人も県外出身者?」
「ええ、大阪だとか聞いています」
「それは大変ですよね」
同じ日本とはいえ、大阪出身ならば、「客死」と言っても良いだろう。それだけでも大変だが、彩子にとっては再度の悲劇である。
「じゃあペンションは閉じているんでしょうね」
「ええ、ゆうなみというダイビングペンションでしたが、先月から閉じています」
「最初に予約しようと思って、満室だった所よね」
祥子が言う。
「そんな事情があったんだ」
同名の彩也子がしみじみと呟く。
「そろそろ限界かも」
私は腕時計を見ながら、店員に会計を頼む。
「はいよー、お客様御一人お帰り」
いつものように威勢の良い声だ。
しかしながら私は暗い顔をしていたのだろう。店長が声をかけてくる。
「あやちゃんが今度来たら、お伝えしておきますよ。心配しているってね」
私は苦笑して、三人の女の子と青年に会釈してから席を立った。
皆が手を振って送ってくれる中をバスターミナルに向かって歩き、羽田行の便に間に合うギリギリの時刻のバスに乗り込んだ。
もう日は落ち、辺りは薄暗くなっていた。私の記憶も色あせて、薄暗い印象でしかなくなってしまっていた。
鮮やかな色彩に囲まれたこの島でのひと時は、ついに終焉を迎えたのだと思った。私の夏は、結局始まらなかった。