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第5章

 開発事業部に移ってからは、以前よりも増して多忙を極めた。それに次長と言う肩書がついて、より責任も重く圧し掛かった。


「次長、この案件に決済お願いします」


 前任の次長の案件だったが目を通すと、腑に落ちない箇所がいくつかある。


「予算のごの部分、少し説明してくれないかな」


 部下は戸惑って「資料を持ってきます」と慌ててデスクに戻った。


「はい、この部分の予算の積算書です」


 渡された書類に目を通し、明らかに見通しの甘い見積もりがあった。


「この金額の根拠は?」


「はい、前回の事業と同様に算出したものですが」


「前回の?」


「ええ」


「それならば、前回の予算書も資料として出してくれ」


 部下は戸惑いながらも、早急に提出すると言った。


「川野君、しっかりとやっているじゃないか」


 部下とのやり取りを見ていたのだろう。同じく建設本部から開発事業部に移動になった部長が肩を叩く。


「私も以前のやり方に疑問を持っていてね。これからは、僕たちのやり方で行こうじゃないか」


 部長は豪快に笑って、再び私の肩を三度叩いた。


 仕事を終え久々に早い時刻に帰宅すると、妻と娘二人の三人が食事中だった。


「あら、今日は早かったのね」


 普段は早くて八時、打合せとかがあると九時過ぎ、それに付き合いがあると終電という毎日である。家族で夕食を共にすることなど滅多にない。


「今日は案外仕事がはかどってね。まあ前任者の仕事の尻ぬぐいだったけれども」


 私は着替えてからリビングに戻り、食事を終えテレビのバラエティー番組に見入っている娘たちを横目で見ながら、妻が差し出してくれた缶ビールの栓を開けて一口飲んだ。


「ともみがこの夏休みの間に、伊豆に研修合宿があるって言っていたでしょ」


 そう言えば、一月前に妻がそう話していたのを思い出した。


「ああ、それで?」


「それがね……」


 妻は顔を顰めて言った。


「引率を予定していた先生が、盗撮か何かで警察に逮捕されたって。知っていたでしょ」


「えっ」


 私はここ何週間の間、自分のことで精いっぱいで、そんなことなど全く知らなかった。


「あの江藤先生が?」


 ともみが高校一年の時の担任で、入学時に仕事の合間を縫って、三者面談で一度会ったことがある。実直そうな良い先生だという印象だった。 

 

その先生は、確かともみが所属している女子サッカー部の顧問でもあったはずだ。


「それで?」


 私はテレビに見入っている長女のともみを横目で見た。ともみは芸人のトークに、笑い声をあげている。次女のかなえも、それにつられて笑っている、何てない日常風景だった。


「盗撮って、まさかともみとかが撮られていたんじゃないよね?」


 私は不安に思って妻に尋ねた。


「高校内じゃないって、どこかのコンビニのトイレとかっていう話だったから」


 私は少しほっとしたが、こんなことが身近で起こることが、不思議な気がした。


 毎日新聞を読んでいると、社会面で色々な事件が起こっているのだと思うが、すべて自分とは関係ない。世界の情勢とかは、もっと程遠い物語である。しかし、それが経済的にどう影響するかについては、さすがに私も気になる。


 しかし江藤先生が盗撮したのかしなかったのかなんて、娘のともみが写されていなかったのであれば、どうでも良いことだ。


「それで明日学校で、説明会があるのよ」


「行くのかい?」


「ええ、私PTAの役員だから、仕方ないわ。別に校長先生のお話を聞いてもどうにもならないことだし、生徒の動揺って言っても、ともみなんてあの通りですしね」


 娘のともみを見ると、あいかわらずテレビのバラエティー番組をみてゲラゲラ笑っている。


「まあ、体面を保つためには仕方ないだろうね。面倒だけれどもお願いしますよ」


 妻は「ええ」とため息をついた。


「ところで、石垣島の出張がなくなって、寂しいでしょう」


 妻が唐突に問いかけてきた。私は少しドギマギした。


「えっ何で?」


「だってあなた、石垣出張の前は、いつも楽しそうだったから」


 確かに石垣出張は楽しみだった。自分では気づかなかったが、それが態度に出ていたのか。


「まあそうかもね。島に楽しい飲み屋さんもあったからね」


 私は千ベロの屋台を思い出していた。


「私も一回行ってみたいは。いつか連れて行ってね」


「ああいつかね」


 そう言ってから、私は彩子のことを思い出した。そして今の日常があの島に持ち込まれることに、少し抵抗を感じていた。そして、無性にあの島へ行きたくなった。


 開発事業部に移ってからも月に一度は出張があったが、それは大体大阪本社だ。しかし出張とかこつけて、石垣に行くこともできるかも。私はその計画を、本気に考え始めた。


 これが家族への裏切りに当たるのかと考えてみたが、確かに彩子という女性に会いたいという気持ちもあったから、責められればそういうことにもなるかもしれない。しかし私は、浮気のためではない、と思い直すことで、これは決して裏切りではないと確信することにした。


 あの浜辺での件はあるものの、彩子が私の恋愛対象であるはずがない。ただ私は、今とは違う世界に行きたいだけであると。


 私は翌日開発事業部の部長に申し出た。


「私が担当していた石垣市の件ですが、引き継いだ川村君の状況が気にかかるので、一度行ってみたいんですが」


 部長は怪訝な表情を見せる。


「でもあれは、もう君の仕事じゃない。建設本部に任せておけばいいじゃないか」


 私はそう言われることを予想していたので、更に説明を付け足した。


「実はその設計段階で、同じ島嶼地域のインドネシアからの視察団とも交流があって、うまくいけばインドネシアにも売り込みができるかもしれないと思いまして」


 案の定、部長は興味を示してきた。


「なにせ石垣の建設では、環境への配慮とか、津波対策とかの災害への対応とか、最先端の技術が用いられていますから、同じく津波で大きな被害を受けたインドネシアの人も、興味を抱いているようですので」


 部長は一呼吸置いたものの「じゃあやってみたまえ」と承諾した。


 これで完全に仕事だ。決して家族を裏切るものではない。私は以前石垣で会ったインドネシア人の官僚と連絡を取り、建設本部の川村君とも日程を調整した。私が手掛けた建物の落成式となる、二週間後にスケジュールを調整した。


 久々の石垣島だった。


 久々と言ってもまだ三ヶ月にならないが、毎月訪れていた私には、懐かしい場所へ戻ってきたような気がした。


 市長を迎えての落成式と、その後ホテルに移動しての祝賀会が行われた。


 私は前もって段取りをつけて呼んでおいたインドネシア人の官僚を市長に紹介し、この建物がいかに優れたものかを説明し、それを可能にした石垣市民と市長を持ち上げた。


「一番重要な事は、市民の安全安心に、いかに応えられるかということですよ。東日本大震災や、おたくの国の津波被害などでも、行政が一時的にでもストップしてしまえば、被害がより拡大してしまいますからね」


 私は英語で一生懸命通訳しながら、何とか和やかな雰囲気を保つことが出来た。


 祝賀会が中締めとなり、私と、私の後任の川村は、用意していた居酒屋へとインドネシア人を誘った。


 祝賀会の立食パーティーでは豚肉料理など、沖縄や八重山の郷土料理が出されていたので、彼らがそれに口を付けていないことは、見て取っていた。


「ご安心ください。ハラール料理のお店ですからが」


 ハラール料理とは、回教徒が食べるのを許されている食材のみで調理したものだ。


 私は彼らに英語でそう説明した。そうすると彼らは喜んで、実は空腹だったと、笑って応じた。


 二次会は一時間ばかりであったが、インドネシアの一つの島での新たなプロジェクトの情報を得ることが出来たし、石垣市の事例も、好意的に評価してくれていたのを確認することができた。


 インドネシア人の官僚をホテルまで送り届け、再会を約束して別れてから、私は後任の川村君に、もう一軒飲みに行かないかと誘った。川村君も一仕事終えた緊張感から解放されたようで、一緒に飲みに行くことになった。


 そして向かった店は、「千ベロ」だった。


「いらゃっしゃいませ。新規お二人」


 威勢の良い声が響く。前に来たときにもいた、女の子だった。


「あら、久しぶり、今日もお仕事ですか?」


 彼女は千ベロの貝殻をカウンターに三つずつ置いた。


「ああ、前の仕事はこの川村君に引き継いだんだけれどもね、別件の仕事があって」


「別件? 何かこじつけた仕事じゃないの?」


 私は思わず声を上げて笑った。お見通しだね。


 川村君はこの店は初めてのようで、まだ店の空気に戸惑っているようだった。


「僕は石垣に来るたびに、最後はこの店で締めることにしていたんだよ」


 私は川村君に話しかけた。


「石垣島って、すごいところだと思わないか?」


 私は川村君に聞く。


「ええ、確かに初めて来たときはびっくりしましたけれども」


「今回で何度目?」


「三度目です」


 私たちは運ばれてきたビールのジョッキで乾杯してから話を続ける。


「そうだな。五回目くらいから、少しおかしな気分になってくる」


「おかしな?」


 川村君もジョッキのビールを飲みながら応じてきた。


「まあ通っているうちに、その辺のことは分かるよ」


 私はビールを飲み干して、貝殻を女の子に渡した。


「日本酒の冷ね」


「はいよー。日本酒の冷、ご注文いただきました」


 あいかわらず女の子の威勢のよい叫び声が響き渡る。


 川村君は翌朝早い時間に打合せだということで、千ベロだけで帰った。私はもう一千ベロを注文する。


「お客さん二千ベロ」


 女の子の威勢の良い注文がカウンターの中に届けられる。


 二千ベロ目の最初のビールを飲みながら、女の子に話しかける。


「彩ちゃん、どうしてる?」


女の子は聞こえなかったのか、カウンターの奥に引っ込んで、調理手伝いをしている。私は仕方なく、ビールをチビチビと飲んでいた。


 彼女が奥から戻ってきてカウンターの前に立って言う。


「彩ちゃんのこと、やっぱり気になるんでしょう」


 私は曖昧にほほ笑む。


「彩ちゃん、まだ石垣にいるはずよ。二週に一度くらい寄ってくれるから」


 その言葉に動揺したのを、彼女に悟られないようにと、ビールを何気なく飲む素振りをした。


「どこかで働いているの?」


 私は何気なさを装って尋ねた。


「米原のペンションみたい。丁度住み込みの人を探していたみたいで」


「へー、何というか、行き当たりばったりだな」


「まあそんな人、この島に来た人では普通だから」


 確かに私がこの島で出会った、島外からの移住者には多かった。私は仕事で通っているからという言い訳があったからそうならなかったということなのだろうが、私自身、そうなってもおかしくなかった。現に、この島に久々に寄って、やはり今の自分の方が、不自然に思える。


「何ていうペンション?」 


 私はあえて尋ねてみた。


「名前は分からないけど、米原に何件もペンションがあるわけじゃないから、すぐ分かるんじゃない。行ってみる?」


 彼女は私の考えていることが筒抜けであるという感じで話す。


「いや、明日午前中に東京に戻るから」


 私はそんな気がないと振る舞う。


「でも前だってそうだったじゃない。西表まで行ったんでしょ」


 痛いところを付いてきた。


「まあ、あの時は翌日が休日だったからね」


 私は二つ目の貝殻を彼女に渡す。


「はいよー、日本酒の冷」


 彼女はグラスをカウンターに置き、日本酒を注いでくれた。


「一体彼女って、どうなんだろうね」


 酔いが回ってきて、彩子の話を持ち出すことに、私は躊躇いがなくなってきた。店の女の子は、元々そんな話をためらう必要もなく、ごく自由に、お客さんたちの噂話をしていた。


「言っちゃっていいのかな。彼女、男性と同居しているって」


「そうなんだ」


 彼女は夫を亡くしたって言っていたから、この地で新しいパートナーを見つけても良いとは思った。でも少し落ち込んだ。


「えっ、今の話ショックだった? 今日はとことん飲んじゃいましょうよ」


 彼女は笑い飛ばして、まだ日本酒が残っているのに、もう一つの貝殻をつかんで、新しい日本酒冷のグラスをカウンターに置いた。


「ははは、まあ、この島に来ると、変な気持ちにもなるよね」


 私は残った日本酒を一気に飲み干し、新しいグラスに口を付けた、


「いらっしゃい、はいよー、千ベロ一丁」


 新しいお客さんが入って来たので話は中断し、私は一人で日本酒を舐めるようにして飲んだ。


 いい加減酔いが回ってきて、明日の東京便の時刻に間に合わせて起きるには、そろそろお開きとしなければならない時間となっていた。


「はいよー、お客様御一人、お帰りでーす」


 威勢の良い彼女の声に追い出されるように店を出て、何とはなく、離島桟橋の方に足を向ける。以前西表に渡ったときの浮桟橋にまでやってきて、背中を付けて寝ころぶ。


 波の音が単調に聞こえ、体がふわふわと揺れている。


 西表での彩子とのひと時は幻想だったのだと理解し、もう来ることもないだろうこの島々での出来事を過去の思い出の中に封じ込もうとした。


 明日東京に戻れば、新しい仕事も始まる。家庭生活も、何一つ変わらず継続する。


 私は立ち上がり、ホテルへと向かって歩き始めた。市街地の中心地である「730交差点」に出た時、一台のタクシーが歩道わきに停まっているのが見え、私は思わず手を挙げた。


「どこまでですか?」


「うーん」


 私は少し躊躇ってから、「米原」と告げた。


「はい、かしこまりました」


 長距離の客だったことで、運転手は上機嫌だった。


「米原にお泊りですか?」


「いや」

 

私は声を濁らした。


「米原に宿泊所はあるの?」


 何件かペンションがあると千ベロ酒場で来ていたが、知らないふりをして尋ねた」


「そうですね、三件ほどありますよ。ご宿泊ですか?」


 運転手は少し怪訝そうに言う。


「そうだな、急に米原に行きたくなったもんで、まあ、行って引き返しても良いんだけれどもね。市街地にホテルも取っているから」


「空室があるか聞いてみましょうね」


 この島の運転手は、こんな気まぐれ客にも慣れているのだろう。無線で会社に連絡を取り、米原で宿泊できる宿を探してくれた。


「一軒、キャンプ場の近くの民宿が大丈夫だと言っていますけれども、どうしますか?」


 今夜はおとなしくホテルに戻り、明日から東京で普段の生活に戻るはずだったが、私はその問いに首を縦に振った。 


「じゃあお願いするよ」


 タクシーの運転手は無線で宿の手配を済ませ、上機嫌で話し続けた。


「こういった注文、結構多いんですよね。旅行者の気まぐれにお応えするのも我々の仕事ですから」


 確かに突拍子のないリクエストを要求する旅行者も多いのだろう。特にこの島では、予定していた行動など、すべておじゃんになるかもしれない。私もその一人なわけであるが。


 タクシーは市街地を抜け、暗い道を進む。バンナ岳に向かう坂道である。


 峠を越えしばらくすると、海沿いの道が続く。海面に半月が照らし出され、濃紺の背景となる。あの時の西表の浜を思い出していた。


 しかしすぐに車は再び林の中に入り、暗い木々の間を抜けると今度は川平湾に出る。そしてほどなく米原に着いた。


「お客様、このペンションです」


 タクシーは、米原海岸と道を挟んで反対側に建つ、コンクリート造りの古い二階建ての建物の入り口に車を着けた。


「ありがとう。ひょっとしたら泊まらないで市街地にすぐに引き返すかもしれないから、君の電話番号を教えておいてくれよ」


 運転手は怪訝な表情を見せながらも、自分の携帯の番号をメモして手渡してくれた。


 タクシーを降りて車を見送った後、建物には入らず、道を渡って海の方へと歩き始めた。


 もう閉まっていた商店の横を抜けると、すぐに浜に出る。湖面のようであった西表の月が浜とは異なり、波が穏やかだが、リズミカルに打ち寄せている。そして半月の光に波打ち際がキラキラと輝いていた。


 私は、こんなところまで来てしまったことを後悔し始めていた。所詮酔った勢いだったんだろう。冷静になってみれば、こんなことをしてみても良いことは何もない。


 私は先ほど渡されたタクシー運転手のメモを取り出し、電話をかけようとした。


 そのとき波打ち際に、弱弱しい月明かりに照らし出された黒いものを見つけた。誰かがいる。


 私は携帯をポケットにしまい込んで浜に腰を下ろし、その黒い人影を注意深く眺めた.


 その人影はしばらく浜を歩いていたようだったが、不意に視界から消えた。


 目を凝らしてみると、どうやらその人物は、海に向かって歩いているようだった。


 半月とはいえ、月の光はあたりを思いのほか鮮やかに映し出してくれる。都会では見ることのできない風景である。その薄明かりに照らされた人影が、海の向こうへとゆっくりと遠ざかっていく。私はその人物が彩子だと確信した。私は浜から大声で呼びかけた。


「おーい、また浮かぶのか?」


 静寂な海辺に私の声が一瞬響くが、その後は穏やかで単調な波の音が支配する。


私は上着と靴を脱ぎ棄てて、海に分け入った。


サンゴを避け、慎重に砂地を踏みながら沖へと向かう。潮が引いているので沖合まで浅瀬が続くが、所々深みがあるので注意して進む。


その人影は徐々に近づいてくるが、またしても視界から突然消えた。よく見ると、その人物は仰向けに海に浮かんでいた。


「沈むより浮いている方が好きなんだよね」


 私は浮遊している黒い影近づきながら声をかけた。すると彼女は立ち上がって振り返った。


「誰?」


 暗くて表情は見て取れなかったが、怯えているような声だった。


「驚かして悪かった。三か月前、西表まで一緒に行った者だよ。千ベロのお店で君がここのペンションで働いていると聞いて、何となくこっちまで来てしまった」


「ああ、あの時の」


 彼女は私を思い出してくれたのだろうか、私の方へ歩いてきた。


 Tシャツと短パンという格好の彼女は、私のそばまでやってくると、いきなり抱き着いて来た。私はそれを拒むことはできなかった。


 浜辺に戻ると、二人は抱き合いながらビーチを転げまわった。


 耳元にリズミカルな波の音、そして薄暗い月明かりの浜辺での、奇妙な行為であった。


「あのお店で働いていると思っていた」


 私は上着を着て、浜辺に設置されている木製のベンチに腰を掛けて話しかけた。


「働いていたわ」


「でも、すぐ辞めたんだってね」


「ええ」


 なぜこんな所で、こんな女性とこんな話をすることになっているのかが、私にとっては意味不明だった。


「で、石垣にはずっといるつもりなの?」


「そうね、分からない」


 以前と同様な話である。


 結局何も決められない、何も決めたくないという感情に支配されてしまうのが、この島である。そして私自身も、何かを決めることを止めたいと思ってしまう。


「今晩はどうするの?」


「一端石垣に戻るよ」


「そう。それで明日は?」


「明日にならなければ分からない」


「そうよね」


 彼女は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。


「電話番号は変わっていないよね?」


 私は大きな声で尋ねた。


「ええ」


 彼女の姿は闇に消えかかっていたが、返事だけは聞き取れた。


 彼女が去った海岸に、私はしばらく佇んでいた。


 半月がもう、水平線に沈もうとしている。波は穏やかで、私はどこに来てしまっているのかを、強く意識しない限り、分からないでいた。


 半月が海に沈んだころ、ようやく気を取り直し、私はタクシーの運転手に、迎えに来てくれと電話を入れた。


 濡れていない上着をシートに敷いて座り、バックミラー越しの運転手の訝し気な視線に耐えながらも、なんとか市街地に戻り、元々宿泊するはずのホテルにチェックインした。もう午前三時を過ぎていた。

 翌朝なんとか目覚ましで起きることが出来、ズボンも乾燥機にかけていたので履くこともできるようになっていて、簡単な朝食を済ませてからタクシーで空港に向かった。お昼過ぎの羽田直行便になんとか間に合った。


 もう止しておこう。石垣島に来るのはもう止めよう。


 私はこれ以上訳の分からない状態になってしまうことは、さすがにまずいと感じていた、


 私には守らなければならない日常がある。


 しかしその「日常」という言葉の響きに、私は少し嫌な気持ちを抱いていることも感じていた。

 飛行機は石垣空港を飛び立った。


 右手に白保の見事なサンゴ礁の海が広がっていた。


 もう来ることもないこの島の風景を最後に目に焼き付けておこうと、私は窓に額を付けた。


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