第4章
「課長、決済をお願いします」
部下が私に書類を手渡す。
「ああ、後で見るから、そこに置いておいてくれ」
時計が正午を指し、私は席を立って社屋を出て、近くの定食屋へと向かった。
西表島から帰って一週間がたち、私の日常は元に戻った。
珍しくお土産を持ち帰った私を、家族も何ら違和感なく迎え入れた。何もなかったということだ。
確かに何もなかった。彩子といけないことをしたわけではない。夜の浜辺での出来事も、少し飲みすぎたからのことだったはずだ。
私は定食屋でいつもの日替わりランチを食べながら、午後の仕事の手順を考え、仕事が終わってから新宿に飲みに行こうと思い立った。
「今日は付き合いで飲んでくる」
妻に電話すると「そう」というあっけない返事で了解をもらい、私は定時に退社し、中央線で新宿へと向かった。
駅前の蕎麦屋でざる蕎麦の大盛りを食べてから、アルテの裏にある、数回来たものの、別に行きつけと言うほどでもないバーに入ってスコッチのロックを注文した。そして一杯目のスコッチを一気に飲み干し、二杯目を注文する。
まだ酔いが回っていない冷めた頭の中で、西表島の風景を思い浮かべた。
あの不思議な浜辺での出来ごと。あのまま夜の海に吸い込まれていたならば、私はどうなっていたのだろうか。彩子の笑顔と涙を思い浮かべる。すべてはあの島の幻想である。
私は二杯で店を出て、新宿西口から、都庁に向かって歩いた。既に帰宅ラッシュは過ぎていて、人気のない通りを、高層ビルを何となく見つめながら歩く。ほんの二週間前には、カヤックを扱ってジャングルの川を遡っていたのにと、不思議な思いがした。
どちらが本当なのか。私はそんなことを。ふと考えてしまった。
「もう一軒飲みに行こう」
私は新宿駅へと引き返し、歌舞伎町へと向かった。
歌舞伎町の雑然とした雑踏を彷徨いながら、「沖縄風居酒屋」という看板が目に入り、五階建ての雑居ビル二階のその店に入った。
「いらっしゃい、お飲み物は?」
沖縄出身らしき浅黒い青年が声をかける。
「とりあえず生中」
「オリオンにしますか、キリンにしますか?」
オリオンは沖縄産ビールである。
「じゃあオリオンで」
「はいよ」
青年は手際よくビールをジョッキに注ぎ込み、カウンターに持ってきた。客は私を含めて三人。それほど流行っている様子ではない。
ビールを飲みながら、私は再び西表の浜辺の風景を思い返していた。すると、あの八重山の島々に、すぐにでも飛んで行きたくなっている自分に気づいた。だが次回の出張まで一月ある。
「料理の注文は?」
青年が私の前にメニューを広げる。
メニューをめくりながら、島豆腐の冷ややっこと、豚の三枚肉の塩つけである「スーチカー」を注文した。
「お客さん、沖縄に行ったことがあるんですね?」
私の注文から、店の青年が推測したようだった。
「ええ、この一年は、仕事で毎月行っているよ」
「へー、そうなんだ。僕は沖縄生まれだけれども、ここ三年は帰っていませんよ」
青年は快活そうに笑った。
「沖縄はどこ?」
私はこの気がよさそうな青年に好感を持ったので、話しかけてみた。
「那覇ですよ、那覇の首里。ほら、二千円札のデザインにもなっている守礼門のあるところ」
「首里城もあったよね。火事で焼けてしまったけれども」
「そう、ショックでね。首里城近くの学校に通っていましたから」
「まあ、再建されると聞いているけれども」
「何年先になることやら」
青年は寂しそうに笑った。
そう言えば、私は石垣には通っているが、いつも羽田から石垣への直行便で、沖縄本島には寄ったことがなかった。そのことを青年に言うと、
「機会があれば、行ってみてください。離島とはまた雰囲気が全然違いますよ。とは言っても、僕自身石垣に行ったのは一回きりですけどね」と言って笑った。
オリオンビールを泡盛に切り替え、豆腐チャンプルを追加で注文し、それを肴に泡盛を水割りでチビチビと飲んでいた。すると入り口の方が賑やかになり、振り返ると、若い女性の三人連れが入ってきた。二十代後半の会社員のようである。彼女たちもカウンターに腰掛け、オリオンビールを注文する。
「石垣良かったよね」
彼女達の会話から、そのフレーズが聞こえてきた。
「本当に海がきれいで、沖縄本島とも全然違う雰囲気で……」
「西表もすごかったね」
「やっぱりあれが秘境って言うんだよね」
どうやら石垣島に行ってきたのだろう。私は彼女たちの会話に耳をそばだてた。
「でも石垣のあのお店、めっちゃ楽しかったね」
「はいよーって威勢の良い掛け声を掛けてくれるお店でしょ」
「そう、千円で三杯飲めるからリーズナブルだったし、お店のお客さんたちも面白い人ばっかりだったし」
あの店のことだろう。私はその話に加わりたかったが、空になったグラスに泡盛の水割りを作りながら我慢していた。
「お客さんたち、石垣に行ってきたの?」
店の青年が彼女たちに話しかける。
「ええ、先週に三泊四日で行ってきたんだけれども、すんごく良かった」
一人の女性が答える。
「今回は八重山だけ?」
彼女たちは店の常連らしく、しかも何回か沖縄に旅行しているようだった。
「そう、今回は石垣直行便で行って、八重山の島めぐり」
「どこどこ行ったの」
別の女性が答える。
「石垣と竹富島、そして西表島。それに黒島も行ったわよ」
「結構タイトなスケジュールだったんじゃない?」
「そうでもなかったわ。結構短時間で移動できたからね」
三人は頷きあっている。
「わたし、次泡盛飲もうかな。彩也子と瑞穂もどう?」
一番年上の女の子らしき女性が提案する。
「私弱いけれども、一杯はお願いしたいかな。やっぱり石垣のことを思い出したいから」
「私も」
彼女たちは泡盛を一合注文して、更に話を盛り上げている。
青年が泡盛一合を入れた焼き物の徳利とグラスをセットしながら言う。
「隣の客さん、つい最近石垣に行ってきたんだってよ。何かこの一年は、毎月石垣に行っているみたいですよ。仕事らしいけれども」
彼女達の視線が集まる。
「はいよーって威勢の良い掛け声のお店って、バスターミナルの近くの屋台だよね」
私は彼女達に声をかけた。
「そうそう、あの千ベロのお店」
女性の一人が嬉しそうに返した。
私は一つ席を横にずれて隣に座りなおし、ずーずーしくならない程度を保つことを意識しながら、彼女達の会話に加わることにした。
「へー、月に一度石垣に行かれるなんて、羨ましいですね」
「まー仕事だからね」
彼女たちは毎月石垣へ行っている私のことを、素直に羨んでいるようだった。
「で、どんなお仕事で?」
「公共工事関係でね」
私は詳しくは話さなかった。
「建設会社にお勤めなんですか?」
一番年上の女性が聞いて来たので、「ええ」と答えた。
私はゼネコンの技術者で、三年前からスタートしたあるプロジェクトの一員として、石垣市と関わっている。そのことを正直に彼女達に伝えた。別に隠す必要もない。
工事を進めるにあたって、さすがに国立公園が広がる地区だったから、環境問題など色々な障害があり、私はその調整もしなければいけなかった。それに、この仕事を通して、八重山諸島に位置する三つの行政区の一つである、竹富町の役場の新庁舎建設にも道筋をつけることが、会社から求められていた。
「いつ頃『千ベロ』のお店に行ったの?」
私はさりげなく聞いてみた。
「先週の金曜日です」
「そう、僕は先週の火曜日までいたから、ひょっとした向こうで会っていたかもね」
私は笑った。
「本当に不思議ですね」
一番年上の祥子という女性が、しみじみとつぶやいた。
「ところで」
私は本当に聞きたいことに話を向けた。
「あのお店に、新しく入った女の子がいなかった?」
私はさりげなさを装って聞いた。
「いたいた、すんごく素敵な人でしょ。私と同い年だって言っていたわよね」
一番年長の祥子が言う。他の二人も頷く。
「確かあやちゃんって呼ばれていたわよね」
彩子は確かにあの店に勤めたのだ。
「あやちゃんって、埼玉出身だったよね。西表のホテルに勤めていたんじゃないか」
「そうそう、私と同じ埼玉で同じ名前だって言うから、随分と盛り上がっちゃたわ。でも西表のホテルに勤めていたのは知らなかった。ずっとそのお店働いていたと思っていたわ。だって、すごく馴染んでいたから」
他の二人も「そうね」と言う。
「彼女はお客さんとして通っていたみたいだから」
「そうだったんだ。でも不思議ですよね、ここでこんな会話が出来るなんて」
祥子の言葉に、新宿の歌舞伎町でこんなつながりがあることが、確かに奇跡だと思った。
この店にまた来ることを約束して、私は店を出た。
終電にはまだ間があったが、私はなぜか満たされた気持になって、家路に着いた。そして私の中で、八重山で過ごした時間が鮮やかに蘇ってきたのを感じていた。
翌日からも、妻に送られ家を出て、満員電車に乗り込み大手町の会社に出勤する、当たり前の日常が延々と続いていた。しかし後一週間後には、再び石垣に行くことが出来る。
「川野君」
出勤早々、部長に呼ばれた。
「はい、何でしょうか」
私は少し不安げに尋ねた。
「ちょっと会議室まで、一緒に来てくれ」
私は益々不安に感じた。
小会議室に同行し、部長と向かい合わせで座った。私の不安な気持ちとは反対に、部長はニコニコとしている。
「川野君、実は人事から打診があってね」
「移動ですか?」
私は恐る恐る尋ねた。
「ああ、いい話だ。君を開発事業部の次長に欲しいということだよ。おめでとう」
部長は立ち上がって手を差し出した。
私が今所属しているのは建設本部で、だから石垣市の建設などの個別事業に関わっている。しかし開発事業部は、街の再開発など更に大きな事業を手掛ける部署で、社内でもエリート部署だと言われている。だから喜ばなければならないのは、当然だった。
「私も開発事業部に部長として移動することになった。だからこれからも、一緒にやっていこう」
部長も栄転ということだ。だからこんなにハイテンションなのだと分かった。
「はい、ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします」
私は深々と頭を下げ、部長の手をつかんだ。サラリーマンとしては、こんなに喜ばしいことはない。しかしデスクに戻ってから、なぜか素直に喜んでいない自分であることに、気づいていた。
その日帰宅してから、妻にそのことを告げた。妻は素直に喜んでくれ、娘も「おとうさん、偉くなるんだ」と言ってくれた。そしてその夜、妻と半年ぶりに肌を合わせた。
移動は一月半後であったが、石垣市関連の仕事の引継ぎをしなければならなかったので、私の後任を引き連れて、翌週石垣に向かった。
現場の確認と、後任の現場関係者への引き合わせをして、いつものように出張二日目のお昼過ぎに仕事が終わった。
「課長、昼食はいかがしますか?」
石垣は初めてという係長の青年は、どこか美味いものを食べに連れて行ってくれるものと、期待しているようだった。しかし私は、仕事でこの島に訪れるのは、これが最後だった。
「ごめん、少し寄るところがあるから、空港で落ち合おう」
係長の青年は少し不満げだったが、私がいくつかの食堂を紹介すると、「では」と言って、商店街のアーケードの方へと歩いて行った。私は反対側のバスターミナルの方角へと足早に進む。「千ベロ」のお店に行くためにである。
「はいよー、新規お客様一名」
あいかわらず、女性店員の威勢の良い掛け声である。
「昨日からですか?」
「ああ、あいかわらずね」
「今日は何時の便で?」
「六時過ぎ」
「じゃあまだ三時間以上お時間ありますよね。千ベロにしましょうか」
「ええ」
「最初の一杯は?」
「生ビール」
「はいよー。お客様千ベロ一丁。生一丁」
ここに来てのいつものやり取りが、妙に心地よく感じた。しかし彼女の姿はなかった。
「そう言えば前に来たときに、西表のホテルを辞めてここで働きたいって言っていた女の子がいたじゃない」
私はビールを飲みながら、さりげなさを装って尋ねた。
「彩ちゃんでしょ。気になる?」
店員の女性は、可笑しそうにからかった。
「いや、先週新宿で飲んでいた時、たまたま最近石垣に旅行に行った女の子たちと話したんだけれども、彼女達もここに来て飲んだとか言っていたので話が始まって、そう言えば新しい子が入っていなかった、とか聞いてみたら、彩ちゃんって人がいたとか言っていたから、どうかなって」
私は説明的な言葉になってしまっていた。
「その女の子たちって、いつにこのお店に来たって?」
彼女が質問する。
「彼女達の話では、三週間前の金曜日だったんじゃないかな」
「あー、そう言えば女三人組がいたわ。東京から来たっていっていたから、その人たちかもね。そのとき確かに彩ちゃんはいたわ、そのお客さんたちと結構話し込んでいたわ」
「新宿でそんなお客さんと遭遇したんで、何となく気になってね」
私はビールを一口飲んだ。
「確かに不思議よね、そんなことあるんだ。でも東京で、初対面の人とこの店の話が出るんなんて、嬉しいわよね」
彼女は楽しそうに笑った。
「で、彼女は?」
私は、この店に寄った本当の目的を達しようとした。
「彩ちゃん、その三人の女性客が来た翌日に、やめちゃった」
彼女は溜息をついた。
「長く一緒にやってくれると思っていたんですけれどね」
「どうして?」
私が話しかけようとしたとき、新しい客がカウンターに腰を下ろしたので、彼女は「はいよー、新規お客様一名」と叫んで、奥に入ってしまった。
私は二回目の千ベロを注文し、泡盛の水割りを黙々と一人でちびちびとなめていた。
店主がようやく出店してきてカウンターの中に入る。昼前から開けている店だから、早い時間は従業員に任せていて、主人は午後に出勤することになっているようだった。
「今日の飛行機は何時?」
店の女の子と同じ質問をする。
私はいつもギリギリの時間までここで飲んでいるから、いつもそれが話題となっていた。
「七時過ぎ」
「じゃあ後一回千ベロいけますね」
「二千ベロのまだ一杯目だよ」
「いやいや、まだまだいけますよ」
店主はまだ引き留めるつもりである。私も時計を見ながら、もう一回千ベロを追加しても良いかなと思った。いやもう一回ではなく、酔いつぶれて東京に戻れなくなるくらい、追加してしまおうか。
「彩ちゃんってどうなったの?」
いい加減酔いが回ってきている私は尋ねた。
「ああ、あの彩ちゃんね」
店主は少し不機嫌そうに溜息をついた。
「急にいなくなったんですよ。何にも言わないでね」
「へー。ここで働きたいって言っていたじゃない。それなのにどうして?」
私は腑に落ちないので、店主に尋ねた。ひょっとしてこの店で、何かトラブルがあったのかと思った。
「結構彼女は評判が良くてね、彼女目当てで来る常連さんもいたんだけれども、本当に突然消えちゃった。まあ、そんな子は、ここ石垣島では珍しくはないんだけれどもね。でも正直まいったな」
店主は苦笑いする。
私は千ベロ最後の一杯を日本酒にして飲み干し、もう一回注文しようかと迷ったが、時計を確認してから席を立った。
「会社で移動があって、来月から来られなくなった。今までどうもありがとう。今度は仕事じゃなくてプライベートで来るから、そのときはよろしくね」
「えっ、そうなんだ。じゃあ、しばらくご無沙汰かな? でも多分来月来ていたりして」
確かにそうであっても不思議ではないと思い、苦笑した。
店主は笑顔で送り出してくれる。
私は部下と空港での待ち合わせの時刻にギリギリ間に合うバスに、ターミナルから乗った。千ベロを二セット、計六杯も飲んでいたから、目の前はもうろうとしている。しかし、バスの車窓に広がる、まだ日が落ちていない南国の眩しい景色をしっかりと見ながら、当分来られないであろうこの風景を、目に焼き付けようと思った。八月の初めである。
空港に着き、部下に飲み過ぎたことを悟られないように注意しながら飛行機に乗り込んだ。
この夏の初めに、何か特別なことが起きたと一瞬感じたのだが、結局元の日常が繰り返される。
私の夏は、まだ始まらなっかった。