第3章
翌朝まだ酔いが残っていて、ぼんやりとしていた。そして昨夜の出来事が遠い思い出のように感じた。とりあえず着替えを済ませてレストランに降りた。
彼女が水を持ってきた。
「お飲み物はコーヒーにされますか? お食事はどうぞご自由にお取りください」
妙によそよそしい雰囲気で、昨夜のことは何だったのかと、突然ばかばかしい気分になった。きっと彼女も酔っていただけなんだろう。
チェックアウトをしてホテルを出て、昨夜の店の方へと歩き始めた。すると昨日彼女と待ち合わせたあたりに、彼女が隠れるように立っていた。
「それで、本当に帰っちゃうの?」
彼女が尋ねる。
「さあどうしようかな」
先ほどまでは帰るつもりでいたが、突然の再会で、私の心は揺れた。
「とりあえず舟浮にでも行ってみようかな」
舟浮は西表島の西部白浜から船でしか行けない、陸の孤島と呼ばれる集落だった。私は前から一度は行ってみたいと思っていた。何もないところだそうで、少し頭を冷やすのにはいい場所かもしれない。
「分かったわ。戻ってきたら電話して。これが私の番号だから」
彼女はメモを私に押し付けてきた。
「ああ。そう言えば、このへんで服とか売っている店とかない? 一泊二日の予定だったから、もう着替える服がない」
「そうね、Tシャツぐらいなら港の近くの商店で売っているかもしれないわ」
「Tシャツでいいさ。スーツを着て舟浮に行くわけにもいかないだろうからね」
私は笑った。
港の近くでTシャツを買い、缶ビールを飲みながら一時間ほど白浜に向かうバスを待った。ようやく来たバスに乗り込むと乗客は一人、しかしバスは走り出した。
バスは途中で大きな川を横切り、トンネルを抜けて小さな集落に着く。そこは陸続きの道が途切れる最西端の、白浜という集落である。バスを降りて船着き場に行く。舟浮へ行く便を確認すると、更に一時間後だった。
屋根が付いた船着き場の待合所で買ってきた缶ビールを開ける。
天気は良く、海は穏やかだった。
一時間後、沖合から小さな船が近づいて来た。確かにそれが舟浮に渡る船であった。
船は桟橋を離れると、スピードを上げて右手に内離島という島を見ながら進む。内海の海は、湖面のように穏やかだった。乗客は私一人だけ。もう何もかも、どうでも良いといった気持ちになる。妻への連絡も忘れてしまっていた。
十分ほどで対岸が見えた。確かに数件の民家が見える集落だった。
船を降りて数分歩いただけで、その日宿泊する民宿にたどり着いた。それくらいこの集落は狭かった。
「二泊お願いします」
宿帳を書きながら、主人に言う。
「昼食はどうしますか?」
この宿では朝と夕食はついていたが、昼食はオプションである。この集落で別に一軒食堂らしき店はあるらしい。私は荷物を部屋に置いてから、その食堂らしき店を見に行くことにした。
桟橋横の一軒の家で、歩いて一分のところにあった。そもそもこの集落自体、一回りするのに三十分もかからないだろう。
店の中を覗いてみると、長テーブルが二つ置いてあって、ここも民宿をやっているようで、宿泊客らしき数人が、昼食を食べていた。
「お昼やっていますか?」
店の人に尋ねると、
「おそばと定食しかないけどね」
と言う。
「じゃあおそばを。それとビール」
店の人が持ってきたのは缶ビールで、栓を開けてグラスに注ぐ。今日二杯目のビールだった。
三枚肉の乗った沖縄そばも運ばれてきて、それを黙って食べる。店の外も静かで、どこか山奥にいるようだったが、窓の外には湾が広がっている。
そばを食べ終わってもう一缶ビールを頼む。まだ日は高い。この突然空いてしまった時間をどう過ごそうか。
「この辺りでどこか見るべきところはありますか?」
店の人に尋ねる。
「まあイダの浜かね」
私はスマホで検索してみた。集落の反対側でちょっとした山道を通らねばならなかったが、歩ける距離ではある。私は飲みかけのビールを持って歩き出した。
小学校の横から茂みの道に入り込み、しばらくすると反対側の浜に出た。そこがイダの浜らしかった。
八重山の美しいビーチを見慣れていたから、どうっていうことのない浜だった。沖合ではダイバーたちが潜っているようだ。確かに潜ったりするならば、他とは違う海中風景が見えるのかもしれない。
しかしただ岸から眺めるだけでは、少し寂しい風景だった。私はそこに十分ぐらい留まっただけで元来た道に戻った。
宿の部屋にたどり着いてからは、何もすることはなかった。
食堂の冷蔵庫からビールを取り出し、冷蔵庫の上に置かれた箱に料金を入れ、食堂の長テーブルで更に一缶飲み干した。
「これから夕食までどうされますか?」
不意に後ろから宿の主人に声をかけられ、驚いて振り返った。
「そうですね、何をしようかな」
私は恥かしそうに笑って答えた。
「もし何も予定がなければ、これから釣りに行きませんか?」
「釣り? 楽しそうだけれども、僕は道具を持ってきていませんけれども」
「船に積んでいますから、それをお貸ししますよ。今晩の魚を取りに行くんで、手伝ってもらえれば嬉しいな」
まだ三十過ぎの主人は人懐こしそうに笑いかける。
私は支度をして、主人の後に続いて宿を出た。
集落の端の方に船は係留されていて、袂を解いて、軽いエンジン音を響かせながら、船長三メートルほどの小舟が出航した。
船は白浜方面に進んでから、途中の川に向かって曲がった、確かにここに来るとき、大きな川があると思っていた。
船は川の上流に向かっていく。しかし川と言っても内海との区別はつかない。しかしマングローブが茂っているので、汽水域なのだと分かる。
船は川岸の平坦地に着け、私一人だけを下ろした。
「この釣竿を使ってください。餌も置いておきますから」
「ご主人は?」
「僕はもう少し上流のポイントまで行ってきます。釣りは一人でいた方が良いでしょ?」
主人は楽しそうに笑った。
「クーラーボックスの中にビールも入っていますから、それはサービスですから」
渡されたクーラーボックスを開けると、確かにビールが数缶入っている。
「岩は滑りやすいですから気を付けてくださいね。三時間くらいしたら迎えに来ますから」
時計を見ると三時過ぎだったから、確かに三時間後はまだ明るかった。
「ありがとう。で、どんな魚が釣れるの?」
「それは釣ってからのお楽しみですね」
主人は舵を切って、岸から離れていき、更に川の上流へと向かっていき、緩いカーブの向こうへと消えていった。
岸に一人残った私はすぐに釣りを始めるのではなく、五十メートルほどの川幅の対岸を見ながら、クーラーボックスからビールを取り出して飲んだ。
会社に明日も休むとの連絡を入れておかなければまずいだろうと思い、スマホを取り出した。しかし圏外で、外部との連絡は不可能だった。
少しまずいなと思ったが、それよりもし主人が三時間後に迎えに来てくれなかったら自分はどうなるのだろうかと、不安を感じた。
しかしそのときは、なんかなるのだろうな。
もうどうでも良くなっていた。
貸してくれた釣り竿をセットして、シンプルな打ち込み仕掛けを川の中央を狙って投げた。
ビールでも飲んで当たりを待とうかと思っていたら、仕掛けが水面に隠れた直後にぐっと糸が引かれた。まさかと思ったがリールを巻くと、竿はしなっていて、確かに手ごたえはある。私が慎重にリールを巻いて近くまで引き寄せると、岸辺で魚がはねた。
魚の名前は知らない。しかし体調ニ十センチほどの青みがかった魚だった。
私はビールの缶を後ろの岩場において、すぐに餌を付けなおして掛けを投げ入れる。再びすぐに当たりがあり、引き寄せると、今度は三十センチほどもある、別の種類の魚がかかっていた。
私は釣ることに夢中になった。仕掛けを投げ入れる度に、数分以内で当たりがあったのだ。
クーラーボックスの中には、すぐに十匹を超える魚が入っていた。だから釣ることに急ぐ必要はないと思いなおし、私は飲みかけのビールを手に取った。
海のように見えていても、確かに流れはあった。葉っぱがゆっくりと海の方へと流れていく。海の色とも違い、泥を含んでいるのか、濁っていた。
私は彩子のことを考えた。今朝別れたばかりなのに、既に懐かしく感じていた。それはきっと、現実離れした物語だと思っているからなのだろう。
私は急に焦りを感じた。
「帰らなければいけない」
私は会社と妻に電話しようとしたが、ここが通話圏外であることを思い出した。宿に戻ってから連絡するしかない。
私は仕掛けを再び投げることはやめた。こんなことをしているという罪悪感が急速に負いかぶってきて、一刻も早く帰るべきだと思い始めた。
そんなことを思いながらも、二缶目のビールを飲み干してぼうっと対岸を眺めながら彩子のことなどを考えながら座っていると、向こうから小舟が近づいて来た。
「釣れましたか?」
主人が笑いながら声をかけてくる。
私は気を取り直して答えた。
「ここは入れ食いですね。こんなに釣れたことは今までになかったですよ」
主人は満足そうに答えた。
「ここは最高のポイントなんです。誰もがそうおっしゃいます。このポイントに来て人生が変わったとかいう人も結構いたりするんですよね」
私はその言葉に息を飲んだ。
私の人生もここで変わるのか?
私は船に乗り込み、舟浮の集落に戻った。
宿に着いて、釣った魚をすべて主人に渡して、私は部屋に戻って寝ころんだ。夕食は一時間後ということだった。
私はスマホを取り出し、圏内であることを確認したものの、電話するかどうかをためらっていた。
会社と妻には、一日延びたということの連絡は入れていたはずだが、明日戻れるのだろうか。もう一日帰るのが遅れるとかだと、会社も妻も、変に思うに違いない。今日のずる休みが、ギリギリの境界線だろう。
私は船と飛行機の時刻を確認し、会社に明日午後に出社すると連絡を入れ、妻にも明日夜に帰ると言った。
民宿の食卓には、私が釣った魚が、刺身や塩焼き、煮付けとなって並んでいた。
「大漁でしたよね」
宿の主人が泡盛の水割りを作って勧めてくれる。
「素人の私でもあんなに釣れるんだから、ベテランだったらもっと大きい魚を釣り上げることもできそうですね」
「いや、あそこではそんな大きな魚は上がってこないから。まあ数が釣れるポイントだな」
宿の主人も向かいに座って泡盛を飲み始めた。宿泊客は私一人だ。
「舟浮のお生まれなんですか?」
素朴な人柄らしい主人に尋ねてみた。
「ええ、中学校までここで暮らしていました。集落の外れに学校があったでしょ。高校から石垣に出ましたけれどもね」
「確かに西表には高校がありませんからね。高校から下宿生活ですか」
「離島出身者のための寮があるんですよ」
「寮生活か。規則とか厳しかったんじゃないんですか?」
主人は笑った。
「まあ今は厳しいですけれども、僕らの頃は結構緩くてね。門限もあるようで無かったし、時々部屋で酒盛りなんかもしていたくらいですから」
「それは楽しそうでしたね」
「それにバンドとかやっていたし」
主人は高校時代バンド活動をしていたらしいが、舟浮の民宿の主人と接していて、想像などできなかった。しかし八重山は芸能の島々であり、有名なミュージシャンも多数輩出している。しばらく高校時代の思い出話を聞かされて、楽しいひと時を過ごした。そして私は、高校時代の楽しい思い出が一つもないことに気づかされた。
それなりに過ごしてきた高校時代と思っていたが、人に話せるようなものは何もない。受験勉強に励み、それなりの有名国立大学に合格できたというのが、私の高校時代の唯一の成果だった。それに付け加えることなど何もない。
部屋に戻って、泡盛の二合瓶をラッパ飲みしながら、いい加減酔って考えがまとまらないまま、明日本当に東京に戻れるのかと、不思議な思いに囚われながら、いつの間に壁にもたれながら眠ってしまっていた。
二泊の予定だったがそれをキャンセルして、翌朝白浜まで船で送ってもらい、バスに乗って大原港まで来て、予定通りの石垣行の高速船に乗った。
右手に西表の深々とした緑の山を見ながら、船は島を遠ざかっていく。
石垣の港が見えてくる。
東京から来たときは、何てちっぽけな町だと思っていたのに、西表から戻ってくると、何て大きな街だと感じる。ビルも建っている。
昼前に石垣に着き、石垣空港から羽田への飛行機の時間までは三時間ある。私は午前十一時から開いている、例の「千ベロ」屋台に寄った。
「おや、いらっしゃい」
前に行った時にもいた女の子が、驚いたように声をかける。
「西表に行ってきたんですか?」
私は千ベロを注文して、おしぼりで顔を拭いながら「舟浮まで行ってきた」と答えた。
「彩ちゃんは?」
「ああ、ちゃんと送り届けたよ」
女の子は一杯目のビールをカウンターに置きながら冷やかすように「彩ちゃんと良いことあったんでしょ」と聞く。
私はビールを一口飲んで「そんなことないよ」と答える。
「ウソウソ。あの子女性の私から見ても素敵だと思うから」
私は苦笑いしながら「パスタの店に連れて行ってもらったけどね」と答えた。
「それ以上あったりして」
女の子は更に突っ込んでくる。私は手を横に振って笑ったが、あの浜辺でのことを思い出していた。
「二日ずる休みしてしまったけれど、今日はおとなしく東京に戻るよ」
「来月はいつ来られるの?」
「そうだね、多分月末かな。暑いだろうね」
「そうね。夏真っ盛りだものね」
私は二杯目と三杯目は冷えた白ワインにして、意識を保ったままお勘定と言って千円をカウンターに置いて席を立った。空港に向かうバスがターミナルから出発する五分前だった。
「じゃあまた来月。お客様のお帰り」
女の子が威勢の良い声を上げる。
「はいよー。お客様のお帰り」
他の店員も大きな声を上げる。
その声を心地よく感じながら席を立とうとしたとき、彩子が隣に座った。
「あっ」
私は思わず声を上げた。
「千ベロお願いします」
彩子は静かに注文した。
「彩子さん、今日はお休み?」
店の女の子が尋ねる。
「昨日でホテルを辞めてきたの」
彼女は冷めた口調でそう言い、運ばれてきたビールを一気に半分ほど飲んだ。
私は立ち去ることが出来ず、しばらく突っ立ったままだった。
「今日電話してくれるって言っていたじゃない」
彩子が私をにらみつける。
私は座りなおして、もう一杯ビールを注文しなおす。
「はいよー、お客様、ビール単品で一丁」
店の女の子の威勢のよい声が響く。
もう一便遅いバスでも、飛行機の時刻には間に合う。
私はもう一杯だけ飲んで、彩子ともう少しだけおしゃべりをして、東京の日常に戻ろうと思った。
「連絡できなくてごめんね。午前中に島を出て、夕方には東京に戻らなければいけなかったから」
私は言い訳をした。
「別にそんなこと気にしていないわ」
彩子は冷めた口調で言う。
「でもなんでホテルを辞めたの?」
それは私が原因だったのかと、恐る恐る聞いてみた。しかしそんなことがあるはずもない。
「昨日でホテルを辞めることは、元々決めていたの。そんなに長くあの島にいてもね」
彩子はビールを飲み干して、二杯目の酎ハイを注文した。
「じゃあ埼玉に帰るの?」
彩子の出身は、確か埼玉と言っていた。
「ううん。石垣にいる」
私は彼女の考えが理解できなかった。
埼玉から西表島に移住して、そこを離れるのならば、元来た場所に戻るのが普通だろうが。それが何故に、石垣と言う中継地点とも言える場所に踏みとどまるのかが、その考えが分からない。
「石垣で仕事を探す」
彩子は真剣な表情で言った。
「埼玉には戻らないの?」
私は軽い口調で聴いた。
「あそこに戻ったら、私は私でいられないから」
彩子は酎ハイを飲みながら、事も無げに言い放つ。私は彼女の夫が亡くなったということが、彼女をそういう思いにさせているのだと思っていた。
「石垣で何するの?」
「ここのお店で雇ってもらおうかな。
彼女は無邪気に笑った。
「おっ、良いですね」
店主が反応する。
「来月で女の子が一人帰っちゃうんで、もし良かったらば、本当にお願いしますよ」
「えっそう? だったらお願いしようかな」
「毎日入れる?」
「ええ、いいわよ」
交渉は即決した。
「ここで働くんだ」
私はちょっと嬉しくなった。来月来た時も、この店に来たら会える。
「じゃあ」
私はビールを飲み干してから席を立った。一つ遅らせたバスの発車時刻まではニ十分残っていたが、商店街に寄って、お土産を買っていこうと思った。
予定より二日遅れだったから、妻や子供たちに土産を買って帰って、遅れた理由を取り繕うと思った。
バスターミナルからほど近い土産物店に入って、適当な土産品を買ってから急いでバスターミナルへと戻ると、空港行のバスが既に止まっていた。事務所の自動券売機で乗車券を買い求め、急いで乗り込むと、バスは静かに発車した。
離島桟橋を経由して、市街地を通り抜け、海沿いの道を走る。まだ日は高く、サンゴ礁の海が車窓から眺められる。リーフ付近の白波の線の沖は深い青色で、岸よりは浅い緑色の海が広がっている。
私はそれをぼんやりと見つめながら、果たして東京に戻って以前と同じ日常生活を送れることが出来るのかと、少し不安に感じ始めていた。