第2章
翌日目が覚めたのは、既に十時を過ぎていた。部屋のカーテンを開けると、空は真青に晴れ渡っている。
素泊まりだったから朝食は無く、共同シャワーを浴びて着替えてからチェックアウトし、前夜に行った食堂へと行ったが、さすがに朝からは営業していなかった。
羽田に戻る飛行機に乗るには昼過ぎの船で石垣島に戻れば大丈夫だったから、ゆっくりとブランチをとってから島を離れようと思った。まあ、予期せぬつかの間の休日のつもりだった。ホテルだったら何らかの食事にありつけるだろうと、彩子が勤めているという月が浜のホテルへ、タクシーを拾って向かった。
ホテルはマングローブに囲まれた入り江に面していて、予想以上に立派だったが、落ち着いた雰囲気だった。
レストランは既に閉じていたがロビーラウンジは開いていたので、そこの席に腰を下ろし、コーヒーとサンドイッチを注文する。それを運んできたのが彩子だった。
「やあ、昨日は大丈夫だった?」
私が声をかける。
「すみませんでした、飲みすぎたみたいで」
彼女は私のことを覚えていたようで、サンドイッチとコーヒーをテーブルに置いてから、小声で返した。
「いや、ぜんぜん大丈夫だったよ。それに面白かった」
私は少し嬉しくなってそう言うと、彼女は微笑してキッチンに戻っていった。
サンドイッチとコーヒーを飲み終えたが、そのままそこを去るのも惜しくて、会計を済ましたものの、一度外に出て、ホテルの周りを散策してから、再びラウンジに戻り、今度はビールを注文した。そのビールを持ってきてくれたのも、彩子だった。
「あら、今日も島にお泊りですか?」
彼女は可笑しそうに笑って尋ねた。
私は何も考えておらず、曖昧な微笑で返した。
「もし今日も島でお泊りならば、今夜、どこかでご一緒しませんか?」
思いがけないその一言で、私はもう一日この島に留まることを、あっさりと決めてしまった。
その日の昼間は予期せぬ休日となってしまい、限られた時間を有意義に過ごそうと、ピナイサーラという滝までのツアーに参加した。
ピナイサーラは西表で最も人気の滝であり、その滝つぼに行くには、カヤックで川を遡らねばならない。
ホテルのフロントでそのツアーを申し込み、迎えに来た車に乗ると、十分余りで降ろされ、少し歩いてからカヤックの乗り場に着く。そこでオールの使い方などの教習があり、いよいよカヤックに乗り込んだ。
狭い川ではあるが、海と近くで繋がっているのだろうか、流れは殆ど感じられない。湖の一部であるかのように、素人の私が漕ぐカヤックでも、颯爽と前に進む。
マングローブの林が両岸に連なっている。
私は、本当にこんなことをしていて良いのかと思いながらも、「まあ良いか」と、半分投げ出した気持ちでオールを漕いでいた。
狭い川は、大きな川に繋がっていた。それはヒナイ川ということだった。その上流にピナイサーラの滝つぼがあるのだそうだ。
ガイドのカヤックの後を付いていく。少し流れが強くなり、先ほどより漕ぐには力がいった。
いくつかのマングローブの茂みを抜けると、目の前に滝が現れた、先日の大雨で水量があると聞いていたが、その迫力に、思わず息を飲んだ。
カヤックを岸に着け、ガイドに付いて、山道を進む。途中にサキシマスオウノキという、根が平べったい板状になっている樹があったり、見たこともない花が咲いていたり、ジャングルの奥地に来たような気分を味わうことが出来た。そして最後の坂を上ると、ピナイサーラの滝つぼに出た。
眼前に高さ数十メートルから流れ落ちる水の迫力に圧倒された。ゴーゴーという音も迫力十分である。滝つぼには私のような観光客で埋まっていて、滝つぼのプールに飛び込んだりしている人や、ツアーのオプションなんだろうが、ガイドらしき人が、お湯を沸かして沖縄そばを作ったりしている。
本当は滝を登って上まで行くはずだったが、先日の大雨で水量が激しく、上まで行くのは無理だということで、そこで引き返すことにした。
再び川に戻ってカヤックに乗る。
来るときには感じなかったが、やはり流れがあった。ゆっくりとした川下への流れに身を任せながら、寝そべって空を眺める。
本来ならば今頃、東京の家で家族と共に過ごしていたはずだ。
妻は私より六歳年下で、職場で知り合って結婚した。高校生と中学生の娘が二人いて、それなりに反抗期を迎えていて、家にいても父親である私の居心地は、それほど良いわけではない。しかし今の生活がそれほど嫌だ、といったことはない。まあこんなものだろうと、思っていた。
しかしこのピナイ川にカヤックで寝そべって空を見ていると、今までやって来たことが、何か幻想のように感じられてきた。私は本来別の人生があったのではないか。この感覚は「まずい」とは理性では思ったが、このままその感覚に浸りたいという気持ちを止めることはできなかった。
カヤックツアーから戻り、彩子の勤めるホテルまで行って、部屋が空いていたのでチャックインしてしまった。会社には、明日休むとの連絡を入れた。妻にも仕事が長引いたので、一日遅れて帰ると電話した。
「あら、今日お泊りなんですね」
ロビーラウンジでコーヒーを飲んでいたら、そこでウェイトレスをしていた彩子が尋ねた。
「ああもう一日、休むことにした」
彼女は可笑しそうに「あら一日だけですか?」と返す。
「ああ、もちろん。ところで今夜あいているとか言ってたけれども、どこか美味しいお店とか紹介してもらえるの?」
「今日は八時にあがるので、その時間に、ホテルを出たところの道で待っていてください」
彩子はこともなげに言う。
私は一杯のコーヒーを飲みほしてから部屋に入り、目の前に広がる月が浜という不思議な入り江を眺めながら、スマホで仕事絡みのメールをチェックした。石垣の公共工事絡みの案件が数件メールに入っていたが、別にどうといったことはなく、明後日に対応すれば良かった。ラインで妻から予定を尋ねる伝言もあったが、それは明日にでも返しておけば良いだろう。
八時になってロビーに降り、玄関を出てゲートを抜けた。彩子は数十メートル先のガジュマルの木の下で手招いた。
「ホテルの中ではちょっと目立つので」
彩子は少し恥ずかしそうに笑った。
「まあ、そうだろうね。僕はお客さんだし」
「そういうわけでもないんですけれどもね」
彩子の意図するところが、私にはよく分からなかった。
「どんなものがお好きですか? 沖縄料理とか。イタリアンとか?」
「何でも良いんだけれども、イタリアンなんてこの島にあるの?」
彩子は笑って「島には内地からの移住者が多いので、そういったお店もあるんですよ」と説明する。
「昨晩は沖縄料理だったから、それじゃあイタリアンに連れて行ってよ」
「OK! でもここから三十分ぐらい歩きますけれども、大丈夫ですか?」
「大丈夫だけれども、タクシーでも呼ぼうか?」
「いえ、それはまずいです」
確かに彼女の立場を考えると、お客さんとこういった食事に付き合うのは、色々と問題があるのかもしれないと思い、歩いていくことにした。
道は既に真っ暗で街灯もない。空を見上げると月もなく、しかし薄っすらと白い濁りが見える。
あれが銀河なんだろう。頭では理解できたが、東京で見たことなどもなく、本当にそうなのか自信が持てない。
「今日も天の川がきれいに見えますね」
彩子のその一言で、やっぱり銀河だったのだと安心した。
「三か月前に西表に来たって言っていたよね」
「ええ」
「それまでは何していたの?」
私は少しプライベートに立ち入りすぎてしまったと思ったが、思わず尋ねてしまった。
しかし彼女は躊躇せず、答えを返してきた。
「主婦やっていました。専業主婦」
「えっ?」
想定外の返答に、私は驚いた。
二人が歩いている道は真っ暗である。お互いの姿もはっきりとは見えない。だが静けさの中、声だけははっきりと聴きとれる。
「ご主人は? ひょっとして離婚でもしたの?」
失礼ではあったが、思いつくまま尋ねてしまった。
「主人は亡くなりました。半年前に」
彼女は冷静に答えた。
「そうなんだ、それはお気の毒に。それでお子さんは?」
「いません」
しばらく暗い夜道を二人は無言で歩いた。
「だから、どっか遠くへ行こうと思ったんだね」
しばらくしてから私は聞いた。
「そういうわけでもないんですよね、それが」
彼女は笑った。石垣の屋台の居酒屋で初めて会った時の印象とは、ずいぶん変わっていた。
「ずっとこの島にいるつもりなの? 多分そうじゃないと思うけれども」
彼女は黙ったままだった。
「あのお店です」
急に彼女が話を変える。見ると、暗がりの中の林の奥に薄明かりが見える。近づくと、道端から真っ暗な茂みを超えたところに、その店はあった。
民家を改造したその店の扉を彼女が明けると、中から賑やかな声が聞こえた。
彼女に続いて店の中に入ると、四人掛けのテーブルが三つ、五人が座れるカウンター席は、満席だった。私たちはカウンター席の端に腰を下ろした。
「初めはビールでいい?」
彼女が尋ねてくる。
「ああ、ビールをお願いします」
店主がジョッキを二つ持ってきて、私は彼女と乾杯する。
「何か妙な気分だな。本当は今頃東京にいたはずなんだけれども」
私は自嘲気味に言った。
「まあ、そんなこともあるわよ」
彼女はあっさりと返す。
「何を注文する? ここのペペロンチーノ、すごく美味しいのよ」
「じゃあそれをもらおう」
ペペロンチーノの他カルパッチョやピザなど、確かにこの島の雰囲気とは異質なメニューを注文した。
私は昨日行ったピナイサーラまでのカヤックツアーの話をした。
「昨日は天気も良くて、本当に気持ちが良かったよ。心が洗われるってああいう気分なんだと、久々に味わったね。君は行ったことはあるの?」
二人ともビールは飲み干し、赤ワインのボトルを注文して、それを飲みながらの会話だった。
「行ったことないわ。この島で行ったことのあるのは、この店くらいかな。休みの日は大概石垣に行っているし」
「へー。何かもったいないような気もするけれども」
私は彼女のグラスにワインを注いだ。
それからも、プライベートの話題を避けながら、たわいのない会話で終始した。
料理もワインもなくなって、最後にジンリッキーを二つ注文する。
「私、何でこの島にいるんだろうね」
唐突に彼女が呟いた。そういえば石垣の屋台でも、彼女は同じ話をしていたのを思い出した。
ただその時は普通の若者のよくあるモラトリアムだと思っていたが、彼女が夫を亡くした元専業主婦だったということを聞いた後では、別の意味があるような気がした。
「ご主人のことがあったからね」
私は当たり障りのない言葉を返した。
彼女は残っていたジンリッキーを一気に飲み干して席を立つ。私も慌てて飲み干してから席を立った。
彼女が財布からお札を出そうとするのを止めて、私がクレジットカードを差し出すが、残念ながらこの店でカードは使えなかった。
仕方なく現金をかき集めて何とか支払うことが出来たが、あと二千円ほどしか残っていなかった。
この島には銀行がない。郵便局はあるのだろうが、残念ながら私は郵貯口座は作っていない。
まあホテルの支払いはクレジットカードでできるだろうから問題ないだろうが、石垣までの船賃がギリギリといったところだ。こんな無計画の行動をとってしまったのは、もう何十年も前の話でしかない。
私は随分忘れていた学生時代のことを思い出した。
私は京都の大学に通っていたが、ある時思いついて、とにかくJRの普通電車を乗り継いで、東へ行こうと思った。だが東京まで行くつもりはなく、途中のどこかで降りようと思っていた。
適当な時間に京都駅から東に向かう快速電車に乗り込み、終点の滋賀県の野洲駅には、午後十一時時頃に着いた。当然そこから更に東へ向かう電車などなく、仕方なくホームを出て、駅前のベンチで寝た。
翌日の始発で東海道線を東上し浜松で降りる。計算してみると、既に帰りの電車賃が足らなかったからだ。
浜松で降りて、私は国道一号線を西に向かって歩いた。京都に帰り着くには、岡崎まで歩いて近鉄に乗るしかなかった。
私は何のためにここまで来たのだろうか。ただ京都を離れたたかっただけだったのだろう。
その頃、一つ歳上の美大生と付き合い始めたのだが、奔放な彼女に翻弄され、かなり参っていたこともあったのだと思う。
浜名湖を横に見ながら国道一号線をひたすら歩いた。しかし日が暮れ、菓子パンを商店で買い求めて、目についた児童公園の滑り台に寝そべって食べた。今夜はこの公園で野宿しようと思っていた。
もう日がとっぷりと落ち、いよいよここが今夜のねぐらだと覚悟を決めた時、声をかけられた。
「おい、そこで何しているんだ」
明らかに不審者扱いである。
「すみません。金がないので、ここで野宿しようと思っているんです」
この返答も、明らかに不審者である。
しかしまだニ十歳過ぎの若さだったから、声をかけた男性は事情を尋ねてくれ、自分の家に招き入れてくれた。しかもその家は鰻の養殖業者で、私に鰻が二重に敷かれたうな重をごちそうしてくれた。
ホテルへ帰る真っ暗な道を彼女と無言で歩きながら、私は当時のことを思い出し、そうだった自分が今こうなっているのだと、不思議な思いが湧いてくるのだった。
少し飲みすぎた彼女の足取りはふらついていて、時々肩が触れ合う。
ホテルの従業員宿舎は、ホテルの百メートル程手前の道を海の方へ曲がったところにあるという。その分かれ道で私は彼女に「じゃあ」と声をかけた。
「ホテルまで送っていくわ」
「いや大丈夫。君も明日も朝から仕事なんだから、このまま帰った方がいいよ」
彼女はそれを無視して、ホテルの方へと進んでいく。私は仕方なく、彼女の後についていく。
彼女が不意に立ち止まり、私の腕をつかんだ。そして道のわきの林に連れて行く。
「おいおい、どこに行くんだよ」
私はしかし、彼女に引かれるままに、灌木の林の間に続く狭い道を進んでいった。真っ暗な細道である。殆ど何も見えない。
しかし数十メートル歩くと突然ぽっかりと視界が開けた。海である。星明りにうっすらと浮き上がる海が、そこに広がっていた。
「きれいでしょ」
先ほどまで酔っぱらっていて、足取りもおぼつかなかったとは思えないような、冷めた口調で彼女は言った。
「ああ」
私はその海の風景に、言葉を失った。
「夜時々一人で来て、この渚を眺めているの」
暗くて表情は読み取れなかったが、彩子が泣いているのが分かった。彼女は靴を脱ぎ棄てて、渚に足を踏み入れる。私も彼女の後を追った。
遠浅の渚である。彼女は銀河に薄暗くきらめく海に吸い込まれるように、沖へと歩いていく。私は彼女の黒い人影を追いながら沖へと向かう。
彼女はまだ沖へと進んでいるが、振り返るとすでに岸は遠く、海の真ん中に取り残されているような気がした。水は膝上まできて、やがて腰まで水につかる。前を行く彼女はもう、胸まで水につかっている。
彼女は突然海に背中から倒れこみ、海の中に消えた。
私は驚いて彼女のもとに近づいて手を差し伸べようとしたが、彼女は手を振り払い、静かに海面に、仰向けのまま浮きかがってきた。そして静かに海面を浮揚している。
「一緒に浮かない。気持ちいいわよ」
彼女は空を見上げながら言う。
私も背中を水につけ、足を離して彼女の横で海に浮いた。
満天の星が輝き、銀河が空を横切る。
「昔の人は、星って何だと思っていたのかしら」
不意に彼女が尋ねてきた。
「今は太陽と同じだとみんなが知っているけれども、この地球でさえ星だと知らなかった人たちが、空の星を、どういう思いで見ていたのかしら」
確かに東京で夜空を見上げていても、そんな思いなど湧いてこなかっただろう。だが、この星空を眺めていると、彩子の言った気持ちが、すぐに伝わってきた。
「神様が作った宝石だったんだろうね」
私も同じ気持ちであることを伝えたかった。
「あっ」
彼女が声を上げる。流星が立て続けに二個流れた。
私は横で浮いている彼女の手をつかんで引き寄せる。そして彼女に抱き着くと、二人は水中に沈んだ。
その水の中で、私は彼女の唇を求めた。彼女も私の唇を求めていた。私たちは息を止めながら、お互いの思いを感じていた。
岸に戻って、何となく気恥ずかしい時間が流れた、
「明日帰るの?」
彼女が訊く。
「さあ、どうかな」
私はどうすれば良いのか、既に分からなくなっていた。
「もし明日帰らなかったら、私たち、一緒にいない?」
何を言っているのかが最初は理解できなかったが、帰るかどうかは、結局私自身の問題だ。
「とにかく今夜はさようなら。びしょ濡れだけれども大丈夫だよね?」
「ええもちろん。シャワーを浴びて寝るわ」
「それでは、今度は本当にじゃあね」
びしょ濡れの私も、ホテルに向かって歩き始めた。