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第14章

 何を確かめたかったのか。私は前日登った比叡山への登山道での出来事を振り返る。


 四十年前、あの場所である女性と過ごしていた。彼女は美大の学生で、ジャズ喫茶で出会った。中原中也が好きだという彼女は奔放で、私を性的に惑わした。


 彼女はある日、私をこの山道に誘った。


「私、登るのが好きなの」


 彼女はよくそう言っていた。


「私、潜るより浮いている方が好きなの」と言っていた石垣の彩子の言葉から、思い出したのかもしれない。


 上昇志向があるのかと思って尋ねたが、彩子の場合と同じで、ただ高いところに行きたいということだった。


 だから比叡山にはよく登った。また、嵯峨野から清滝の隧道を通り抜けて、愛宕山にも登った。京都で一番高い山々である。彼女と過ごした日々は、同じ大学の友人たちと過ごしている安心感とは異なる、少し危なげで刺激に満ちた、心地よい時間だった。


 祇園祭の宵々山にも一緒に出掛けた。珍しく浴衣を着ていた彼女を愛おしく感じた。


 私にとって最初の体験だった彼女は、しかし突然消えた。原因は今でも確かではない。少なくとも私が原因だったはずはない。


 どちらかと言うと不器用で生真面目だった学生の私は、それなりに彼女に合わせていて、楽しくやりあっていたと、思っていた。しかし彼女は私の前から突然姿を消した。


 市街地が見渡せるこの比叡山登山口の途中で、彼女は突然姿を消した。それは祇園祭りの宵々山で、四条河原町の居酒屋に寄って帰る途中に、ここまで登ろうと、彼女が言い出したからだった。


 結構酒が入っていた私は、その提案に乗り、ここまでやって来た。しかし市街地の夜景を見ていた時、彼女の姿が見えないことに気付いた。


 私は慌てて彼女を探すが、もう暗闇の中、彼女を見つけることはできない。気まぐれな彼女は一人で山を下りてしまったのだと苛立ったが、まあそんな気まぐれに引かれているところもあったから、苦笑して山を下りるしかなかった。


 しかし翌日から彼女は消えた。電話しても繋がらなくなった。


 私は何があったのかを思い出そうとしたが、心当たりは何もなかった。


「本当に心当たりがなかったのか?」


 私は自問自答した。


 記憶の中から一年分の記憶がすっかりと欠け落ちている。私がいまある原点が、この一年であると思い始めていた。


 しかし何十年も「普通の」日常を営んできた自分の原点が、そんな訳の分からない一年であるはずはない。私は翌日、もう一度昨日登った道を辿った。


 私は雲母坂を登り、昨日辿り着いた市街地が見渡せる広場に出た。私は「心当たりがない」とずっと思っていたわけだが、それこそが、私が封印してきた記憶だったということを思い出す。


 私は広場の中で、目印となっていた松の木から十歩進んだ大きな岩のそばに立ち止まる。


 今日は土を掘り起こすスコップも用意してきた。


 何を掘り出そうとしているのか、まだ私には分からなかった。でも何かを掘り出さなければいけないのだという思いだけはあった。


 二時間で一メートルほど掘ったが、何も掘り出すことは出来なかった。


 何を埋めたのかも覚えていないのだから、何かを掘り出すことなどできないのは当たり前だ。でも何故、こんな目印だけは覚えているのだろうか。そしてそれは突然消え去った女性とつながっていたのだろうか。


 そんな不安定な気持ちで更に掘り進めると、果たしてスコップの先に、何かの感触がした。


 私は掘った穴に身を入れ、土をかき分けて、それを手で掘り起こす。


 そこには小さなきんちゃく袋があった。


 瞬時にあの時の光景がフラッシュバックする。


 私はそれが何であるのかを、最早はっきりと思い出していた。


 私が今ある原点。あれから四十年間過ごしてきた日常の奥に存在していた消し去られていた過去。


 私はそのきんちゃく袋を懐に入れてからすぐに埋め戻した。そして地面を踏み固めてから目印の石を置き直して山を下り、翌日京都から関西空港に行き、結局石垣島へと戻った。


 舟浮は、あいかわらず何も考えなくてもよい場所だった。


「この前はごめんね。急に仕事が入っちゃので」


「いいですよ。また来てくれたんですから」


 宿の主人が快く迎えてくれる。


「今回はおひとりで?」


 主人が問う。


「いつも一人だよ」


 私は笑って返した。


「まあ、そうでしょうけれどもね」


 主人も笑う。


「三泊くらい出来ますか?」


「ええ、何泊でも。気が済むまでご滞在ください」


 主人の言葉に気を良くし、私は冷蔵庫横の箱にコインを入れビールを取り出し、一口飲んだ。


 宿に着いたのは昼過ぎで、まだ日は高い。


「夕食は七時からで良いですか?」


 その日は私のほかに宿泊客はいないようだった。


「ええ、何時でも良いですよ」


「じゃあ七時に」


 時計を見ると、あと一時間くらいはある。


 私は民宿を出て、イダの浜へと向かった。


 小学校の横から薄暗い山道に入り、しかしすぐ浜へとたどり着く。


 夕闇が迫ってきたこの浜には、もちろん誰もいない。日が落ちるのと反対側のこの浜は、ただ夕闇の暗さに包まれていくだけである。


 すっかりと日が落ち、新月のその日は真っ暗になり、波の音だけが聞こえ、自分がどこにいるのか、なぜここにいるのか考えられないまま、ようやく宿への帰途に着き、一人で夕食を済ませてから、一日で結構な距離を移動したこともあり、食事後に一杯泡盛を飲んだだけで、すぐに寝床に入った。


「今日は釣りに行きますか?」


 翌日少し遅い朝食をとった後に、主人が声をかけてきた。


「今日は三組のお客さんの予約が入っているんで、魚を採って来てもらえば助かるんですが」


 主人が笑いながら言う。


「いいよ。でも一匹も釣れなかったら?」


「まあそんなことはないと思いますが、まあその時はその時で。まあ、純粋に楽しんできてください」


 例によって釣り竿と餌を持たされ、クーラーボックスにもビールと酎ハイを入れ、船に乗り込んだ。


「あれ、そのきんちゃく袋何ですか? 可愛いけれども」


 私が腰につけていたきんちゃく袋を見て、主人が不思議そうに尋ねた。


「いや、昔女性からもらったもので」


「奥さん以外の彼女からだったりして」


「まあそうだけれども、学生時代の話だよ」


「へー。そうなんだ」 


 主人が呆れたように言うが、それ以上は尋ねてこなかった。


「ここに来る前に学生時代を過ごした京都に行ってきて、そこの友人から渡されたんだ」


「そういうことだったんですね」


 主人は一応納得したような表情を見せた。


「まあ、懐かしかったんで持ってきてしまったよ。ついでにあの釣り場で中を開けようと思って」


「中に何が入っているのかを忘れているとか」


 主人が再び不思議そうな顔で尋ねる。


「ええ、忘れ去られた記憶というところですかね」


 主人はその言葉が理解できないようだった。


「まあ、死ぬまでに、色々と片付けておかなけらばならないことがあるんだよ」


「はあ、そうなんですか」


 主人は納得がいかなかったようだが、船は釣り場に着いた。


「では、いつものように日が暮れる前にお迎えに来ますので、食材をお願いしますよ」


 船が静かに岩場から離れていく。その後には、やっぱりどうしてこんなところにいるのかと感じてしまう、不思議な場所となる。


 針に餌を付け、一投目を投げ入れる。


 今までならすぐに当たりがあったはずだが、竿は平静を保っていた。


 クーラーボックスからビールを取り出し、口をつけた。


 相変らず竿に変化はない。


「人生を変えるスポット」


 この岩場を前の宿の主人が言っていた。しかしここに来ても、何ら人生は変わっていない。しかし変わっていないはずもない。


 私は京都から持ち帰ったものをクーラーボックスの横に置いた。ここから川に投げ捨てるつもりだった。


 これですべては終わる。「記憶の原点」などは消滅し、記憶はずっとそれ以前からの連続したものへとつながる。


 私はそのきんちゃく袋を、川面に力を入れて投げ込んだ。


 その時、今までびくともしなかった竿が、コツント当たりを告げた。私はリールを巻きあげる。今までにない手ごたえである。


 糸が切れないようにリール少し巻いてまた解放しながら、慎重に手繰り寄せていく。魚影がようやく水面に影を見せる。今まで見たことのない大きさだった。


 私は今まで使っていなかったたもを手にし、水辺まで岩を下り、慎重にたもで魚をすくい上げた。四十センチはある、ミーバイであった。


 きっと、あれの代わりなんだろう。だったら私は人生をやり直せる。


 私はその一匹で満足し、竿を収め、後は缶チューハイをちびりちびりと飲みながら、迎えの船をただ待った。


 あたりが薄暗くなるころ、主人が船で迎えにやってきた。


「まあ見て驚かないでよ」


 私はクーラーボックスから吊り上げたミーバイを持ち上げた。


「こりゃ、すごい」


 主人も声を上げる。


「晩飯はなにになるかな?」


 主人は少し考えて答える。


「半身は刺身にして、もう半分はニンニクバター焼きにしましょう。今日は若い子たちも泊っているから」


「それはいいね」


 私は船に乗り込んだ。船は川を下り、舟浮集落が見えてきた。そろそろ日もともってきている。


「あれ?」


 前方を見ながらた操舵していた主人が、船の速度を落とし、舵を切って川べりに近づいて行った。


「どうしたの?」


 不思議に思って私が尋ねる。


「岸辺に何かが浮いていますね」


 見ると、確かに岸の近くに何かが漂っている。私が投げ捨てたものである。


 小さなきんちゃく袋に過ぎないのに、この自然の風景の中では、私が投げ捨てたものは異質な存在として、周囲の景色から浮き上がってしまっていたのだった。


「いや、竿を投げるときにうっかり川に落としてしまったんだ。流れていったからもういいやって、諦めたんだが」

 と言い訳した。


「大切なものだったんでしょ? 拾っていきましょう」


 主人はそれにゆっくりと近づき、たもで救い上げて私に渡してくれた」


「ありがとう」


 一応礼を述べたが、一度繋がりかけていた記憶の連鎖が、また「原点」というどこかで断絶したような気がした。



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