第12章
私は三千ベロで酔いつぶれ、カウンターに伏して、眠り込んでいたようだった。店を閉めるからと店長から起こされたときには、彩子の姿はなかった。
私はふらつく足で、離島桟橋に向かった。
夜も更け、単調な波音だけが漂う静かな突堤に寝ころびながら、夜空を見上げた。
石垣の市街の明りは結構眩しくて、西表や米原で見た星空ほどではなかった。しかしそれでも、東京で見る夜空とは比べられないほど、星が美しい。
酔いが少し冷めてきた頭で、私はこれからの人生を考え始めていた。
結婚して娘も二人いて、その娘たちも順調に育ってくれ、恐らく数年後には孫もいるのだろう。
サラリーマンとしてそこそこ活躍し、そんな自分の今までの人生を否定するつもりはなかった。むしろ、意外と上手くやって来たと思っている。
しかし、何か間違っていた気がしてきた。過去のどこかの時点で、別の選択肢をとっていれば、違う人生を歩んでいたはずだ。
それは当たり前のことであり、その時々の選択によって積みあがってくるのが人生というものではないか。
しかし、どこかで決定的な見落としをしでかしてしまったのではないかという考えが、突然湧いてきた。
「ヤバイ」
私は考えるのを止めようとした。だがその思いは止まらない。
。
それほど突飛なことなど起こらなかった人生のはずだった。幼少期、思春期、二十代、そして社会人になってからの記憶を辿ってみても、大したことは無い。
石垣島でのこの十年の彩子との出来事が、唯一怪しげな記憶だった。だからその記憶に惹かれて、定年後の人生の一時期をこの島で暮らそうなんていう計画を思いついたのだろう。
しかし、私は妙な違和感を感じ始めていた。
何十年も前の記憶何て断片的であるのは当然だ。だが振り返ってみると、ある時期の記憶が、全く欠けていることに気が付いたのだった。
「あの時の記憶が殆ど欠けている?」
私はたじろいだ。今まで繋がっていた人生が、突然断絶してしまっている。
学生時代それほど真面目でなかった私は、単位を落とし、一年留年した。しかしその一年の記憶がほとんど残っていないことに気付いたのだった。
留年中に何とか就活して会社に就職しているのに、その記憶すらない。なぜこの会社に入ったのかも思い出せない。
その時初めて、私は自身の過去において、葬り去ってしまった別の記憶があることに初めて気付き、戸惑ってしまった。
私は翌日昼前に急遽ホテルをチェックアウトして、部屋や店を探してもらっていた知り合いのところに出向き、色々と骨を折ってくれたことに感謝を述べ、でもやっぱりやめることを告げ、謝った。
「いや、いいんですよ。やっぱり現実的に考えるとね。まあご家族の賛成もなかなか難いでしょうから」
家族が反対したからではなかったが、私は曖昧に笑った。
私は千ベロ居酒屋に昼前に寄って、東京に戻ると言った。
「あやちゃんのペンションに住み込みで働くって、いい話だと思ったんですけれど」
詩織ちゃんが言う。
私は笑いながら「まあ、そうなんだろうけどね」と言う。
私は店長が来る前に、千ベロで店を出て、空港へと向かい、関西空港行のチケットを取った。
私は、この島での出来事や記憶が、最早どうでもよくなっていた。それ以前に起きた出来事が、知りたかった。
しかしそれは、葬り去られたはずの記憶だった。
私は千ベロ居酒屋を出て、バスターミナルから石垣空港に向かった。
飛行機は滑走路を走り出し、すぐに白保上空に達する。
見事なサンゴ礁の斑模様が目に飛び込んでくる。かつて胸をワクワクさせた光景である。
しかしもう二度と来ることはないだろうと思った。私には戻らなければいけない過去があるようだった。しかしそれが何であるのかは、未だに朧気のままだった。
葬り去った記憶。こんな物が自分にあったことを知った恐怖。しかしまだこの恐怖の実態は、自分でも分からなかった。