第11章
西表から石垣に戻った翌日には、住む部屋と店を探し始ようと思っていた。石垣の知り合いにも連絡を入れた。しかし、決めるのは後にして、もう少し、ただのビジターでいたいと思った。
レンタカーを借りて、島を一周した。
既に何回も訪れた場所だが、島最北端の平久保灯台や、玉取崎からの海の景色には、改めて感激した。
島を一周し、レンタカーを返却してから、千ベロの店に行く。
「はいよー、新規お客様一名」
あいかわらず威勢の良い声で迎えられる。
「お部屋は見つかりましたか?」
詩織ちゃんが尋ねる。
「いや今日は、島を一周しただけだよ」
詩織ちゃんは呆れた表情で、貝殻二つをカウンターに置いた。
「あやちゃんのペンションに行かなかったの?」
詩織ちゃんが言う。
「どうして?」
「だってあやちゃん、会いたいって言っていたから」
私は「えっ」と声を出してしまった。
「いつ?」
「昨日?」
「昨日久々に来て、お客さんの話題になって、西表に行っているよって言ったら『会いたいな』って言っていましたよ」
私は一杯目のビールを飲み干して貝殻を詩織ちゃんに手渡し、泡盛の水割りを頼む。
客はまだ多くなく、詩織ちゃんは私の話に付き合ってくれる。
「あやちゃん、僕のことを覚えているんだ」
「そりゃそうよ」
詩織ちゃんが泡盛のグラスをカウンターに置く。
「だって、十年前の話だよ。それに誤解しないで欲しいけれども、彼女とは、何にもなかったよ」
詩織ちゃんはその話が聞こえなかったのか、新しいお客さんが入って来たので「はいよー」と声をあげて別のカウンターへと移った。
私は泡盛の水割りを一人で飲みながら、彩子が本当に私のことを覚えているのかを、不思議に思った。
確かにきわどいことはあったけれども、所詮行きずりの関係だし、しかも、もう十年前の話である」
三つ目の貝殻を差し出して泡盛の追加を頼むと、詩織ちゃんがカウンターに置いてくれた。
「もう十年前の話だよ。それに何にもなかったのに」
私は詩織ちゃんに問いかける。
「はいよー、新規お客さん二名」
詩織ちゃんはまたまた新しく入って来た客の接待に移って、私は泡盛を一人で飲み続けるしかなかった。
私は十年前の彩子との出来事を思い出した。だが、日常をつつがなく過ごすために、その記憶を封印してきた。しかし、そんな記憶なんて、いくらでもある。いわゆる「思い出したくない」過去だ。
それに、本当に葬り去ってしまっていて、既に思い出せなくなってしまっている記憶もあるのかもしれない。そんな記憶の欠片を恐る恐る手繰り寄せ始めている自分に気付き、ぞっとした。これ以上は止めておこう。私は泡盛のグラスを一気に飲み干した。
「新規一名様」。
詩織ちゃんの威勢の良い声に後ろを振り返ると、予期せず、彼女が立っていた。彩子である。十年ぶりだ。しかし私が鮮明に思い出すことが出来た彼女と、少しも変わらなかった。
何気ない様子で彼女は、カウンターの私の隣に腰を下ろした。
「千ベロ一丁、生ビール」
運ばれてきた彼女のビールとグラスを合わせた。
「お久しぶりですね」
十年ぶりとは思えない自然な口調で、彼女は話しかけてきた。
「ええ」
私は少しドギマギしながら答える。
「その後どうされていたんですか?」
「いや、どうってことはありませんよ」
私は千ベロを追加した。
「お客さん二千ベロ目で生ビール一丁」
詩織ちゃんの威勢の良い声が響く。
「でも、今年で退職しましてね、まあそんなところで、しばらく石垣でゆっくりしようかと思っていてね」
「でも、どうして石垣なんですか?」
私は答えに詰まった。きっと彩子とのことが忘れられないという部分が確かにある。
「まあ、前に仕事をしていた時のつながりもあってね」
私は無難な返事をして、カウンターに置かれたビールを半分ほど飲んだ。
「でも十年なんて、あっという間だな」
私はしみじみとそう思った。封印してきたはずの記憶が、最近の出来事に思えてくる。
「そうですね」
彼女は二杯目の白ワインを注文する。
「色々とあったって聞いていたけれども、元気そうでよかった」
「ええ、色々ありました」
彼女はうつむいて答えた。そして私の方に振り返って、笑顔で話しかけた。
「でもまだ石垣に残っているのはどうして?」
今度は私が尋ねた。
「さあ、どうしてかな」
彩子は答えをはぐらかして、運ばれてきたワインに口をつける。
「月が浜の風景が忘れられないからかな」
彩子は悪戯そうに笑った。私はドキッとする。しかし、彼女は純粋に月が浜の風景のことを言っているのであって、私と一緒に過ごした風景ではないと思い直し、一人で笑ってしまった。
だが彼女は話し続ける。
「西表の月が浜の月夜は素敵でしたよね。二人で海に浮かんで満天の星空を見上げていたら、流れ星が見えましたよね」
私は再びドキッとした。私と見た風景のことを言っているのか。
そばで聞いていた詩織ちゃんが、「ヒュー」と茶々を入れる。
「だから、そんなのじゃないって」
私は詩織ちゃんに反論する。
確かにそうだった。二人で海に仰向けに浮かびながら夜空をしばらく二人で眺めていただけだ。いや、その後に抱き合って唇を重ね会ったことも思い出してしまった。
「あの後、舟浮に行ってね」
「そうでしたよね」
「舟浮の民宿の主人に、船で『人生が変わるかもしれない』釣り場に連れて行ってもらって、今までにない大漁だったんだけれども、人生なんて変わらないよね」
私は笑って、千ベロを追加で注文し、運ばれてきたビールに口を付ける。
「そうかしら?」
彼女は二杯目のワインを空けてから、不思議な表情で私の方に振り返った。私は戸惑った。
「だってあれは十年も前の話だし、それからの生活も、何ら変わらなかったよ」
私は本当にそう思っていた。
「でも、今ここにいる」
彼女三杯目の貝殻を差し出す。私はその言葉にうろたえた。あの釣り場ではなかったのかもしれないが、確かにこの島々での出来事が、今の私の行動を支配している。
「石垣に移り住むって聞きましたけれども」
彼女が尋ねる。
「会社も辞めたし、そのつもりで石垣に来たのは確かです」
私は正直に話した。
「だったら、私のペンションで、一緒に暮らしませんか?」
私は彼女が何を言ったのか、しばらく理解できなかった。
「それも良いんじゃない」
店長が割り込んできて、私はその言葉の意味を、初めて理解することが出来た。
「住み込みの従業員ということで」
彼女は悪戯っぽく笑う。
「ひゅー」
詩織ちゃんが割ってくる。
「決まりね」
勝手に詩織ちゃんが言う。
「それではお祝いということで」
店長も勝手に自分でビールを注いで、乾杯を仕掛ける。
私は訳が分からないまま、三千ベロへと突入していた




