第10章
私はご主人の船に乗り込み、以前も行った「人生が変わるかも」という岩場に向かった。今回も釣竿などの道具を貸してもらい、餌をもらってその岩場に上陸した。
「では日が暮れる前にお迎えに参りますから」
船が岩場から離れて、私一人取り残される。本当に「取り残された」という感覚が、十年前より強かった。
あいかわらず携帯電話の圏外である。
針に餌を付けて、一投目の差竿を投げ入れる。あの時と同じで、すぐに当たりを感じ、リールを巻くと手ごたえがある。慎重に巻き続けると岸辺で魚が跳ね上がった。
私は夢中になって竿を投げ入れ、途中で、クーラーボックスに入れてきた缶チューハイを飲みながら、ひたすら釣りに熱中した。
あの時もそうだったが、ここでは、「日常」というものがどうだったのかを、思い出せなくなっている。
しかし前は、仕事や家庭とか、確かに強制的に日常生活に戻らなければならないという意識があったから何とか「日常」を思い出そうと努めていたが、今は、もうどうでも良くなっていた。
日が暮れる前に主人が船で迎えてくれる。
「大漁ですね」
クーラーボックスの中身を見て、主人が誉めてくれる。
「晩飯に出してくれるかな」
「もちろん、実は夕食の食材を採ってくれるのを期待して、お連れしたんですよ」
「上手く使われたってこと?」
私は笑った。
夕食には私が釣った魚の刺身や塩焼き、唐揚げが盛りだくさんに並べられた。女の子たちが食堂に下りてきて、テーブルの料理を見て歓声をあげる。
「すごく美味しそう」
「いっぱいだね」
「このお刺身の魚って、何ていうのかしら」
厨房から出てきた主人が言う。
「この魚は全部、このお客様が釣って来てくれたものです」
女の子たちは驚きの声をあげた。
「釣竿も無料で貸してくれて、餌もくれて、おまけに無料で船で連れて行ってくれたんだけれども、結局宿の食材確保が目的だったんだ」
女の子たちは声を立てて笑う。
冷蔵庫上の料金ボックスに各自がお金を払い、冷蔵庫からビールを取り出し、皆で乾杯してから楽しい夕餉の時間を過ごした。
食事が終わって女の子たちが二階の部屋に引き上げ、主人が厨房の奥に引き下がると、再び静寂な時間となる。
私は棚の上にある別の料金箱に料金を入れてから、置いてある泡盛の一升瓶を手に取り、グラスに注ぎ、冷凍庫から氷を取り出して、ロックで飲む。
少し飲みすぎだと思う。石垣に来て飲み続けであり、多分、この先もそうなんだろうと思う。
私は酒で失敗したことはない、という自信があった。
酒は好きだし、仕事がらみの接待で深酒を強いられることも多々あったが、意識を失うことは決してなく、飲み相手を不快にしたことは無かったという自信がある。
しかしその時、この西表島での彩子との時間を思い出してしまった。
あの入り江での出来事は、彼女も酔ってたとはいえ、私も酒で抑制が出来なかったからかもしれない。
「いや」
私はその考えをすぐに否定しようと思った。酒のせいにしてしまう方が簡単かもしれないが、そうじゃないんだ。
あの時のことを、もう一度じっくりと思い出していた。
それまでは、早く忘れなければならない忌まわしい記憶として封印してきた。それはそうだ。過ちとは言えないギリギリの線だったかもしれないが、妻子ある男が取るべき行動ではないのは確かだ。それに、石垣島の米原では、もっと危ない行為まで及んでしまっている。
私は泡盛のグラスを手に取って部屋に戻り。一人で舐めるように飲みながら、時間を過ごした。なかなか眠りにつくことは出来なかった。
西表の月が浜の静まり返った海面。そこに映し出される月の光。仰向けに海に浮かぶと眼前を覆う満天の星空。沈むことがない浮遊。その感覚を思い出しながら、ようやく日が昇るころに眠りにつくことができた。
翌日は遅く起きだ出し、お昼過ぎに女の子三人を見送った。その女の子たちとは一応ラインとかで繋がることにはしたが、前に新宿で遭遇した女の子たちと同様、しばらくすれば、みなそれぞれの日常に戻っていくのだろう。
そんな思いで彼女達が乗る船に手を振りながら、彩子が石垣にいるという話を千ベロ酒場で聞いたのを思い出した。私はすぐに石垣に戻りたくなった。しかし彩子に会いたいと思ったのではないと思うようにした。
私はイダの浜まで散策し、一人で海をしばらく眺めていた。
平々凡々とした私の人生の中で、唯一おかしな要素が彩子だった。
「いや、待てよ。他にも何かあった気がする」
私は不思議な感覚にとらわれた。私の人生の中に、今の日常と結びついていない何かがあったような気がしてきた。彩子の事が、それを思い出させてくれるような気がした。
「申し訳ありませんが、急な仕事が入ったので、午後の船で帰ります。あと二泊分の料金はお支払いしておきますので」
私は主人に申し出た。
「お仕事ならば仕方ないですよね。料金は要りませんよ。でもまた来てくださいね」
人の良い主人は快く承諾してくれ、私は主人の操る船で白浜へと渡った。そして上原からの最終便で石垣に戻った。
石垣に着き、離島桟橋のコインロッカーに入れていたバッグを取り出し、大原から電話で予約しておいた近くのホテルにチェックインして、まずは千ベロ居酒屋に行く。
「おかえりなさい。西表からでしたよね」
店主が尋ねる。
「ああ、もう二泊するつもりだったんだけれども、やっぱり石垣での家探しとかが気になってね」
「まあ、残された人生なんて限りありますからね.
「おいおい、まだまだだよ」
店主は笑う。
結局私はその店で三千ベロまで飲み、ホテルに戻ってからベッドに体を投げだすと、すぐに寝入ってしまった。