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第1章

 あれはもう十年以上前のことである。私は当時、沖縄の石垣島での仕事に関わっていて、月に一度は島を訪れていた。その出張先での仕事が終わったある夜、気まぐれに寄った屋台の飲み屋で、一人の女性と出会った。本土より一月早い梅雨が明けた、六月下旬だった。


 彼女は西表島のホテルで働いていて、その日は休みだったので、石垣島に遊びに来ているとのことだ。屋台の主人によると、休みの日に離島から船で石垣島まで遊びに来る若者は多いとのことである。


 彼女は二十八歳、埼玉出身で、三か月前に西表島に来たという。八重山諸島にはこういった若者が多数いるそうだ。アルバイトをしながらダイビングをしたり、何か目的を持っているわけではない

けれども、何回か沖縄に旅行で来た後に、何となく人生の一時期を、この南国で暮らしてみようと思ったりしているようだった。


 そのような若者が集まるこの屋台では、もう五十に近い私などにとっては、別世界の雰囲気だった。

 彼女の名前は彩子、梅雨明け後の八重山の強い日差しで真っ黒に日焼けしていたが、半そでTシャツの腕をまくって見せてくれると、透き通るような白い肌だった。


 私は公共工事の仕事で、半年前から月に一度、東京から石垣島を訪れていた。毎回二泊三日の日程で工事現場を見て回り、現場主任と工事の進捗状況を確認して報告書を作成し、二日目の夜は関係者と石垣の繁華街である美崎町で会食し、翌日午前中にもう一度打ち合わせをした後、八重山そばの店で昼食がてらに一杯飲んでから、夕方の便で東京に戻っていた。


 しかしその日は午前の仕事が早く終わり、しかも翌日は休日だったから、バスターミナルのすぐそばの、カウンターで昼飲みできる店に寄ってみたのだった。


 その店は午前十一時から開いていて、観光客も来る店だったが、地元の常連客も結構いるようだった。沖縄の地酒である泡盛はもちろん置いてあるが、日本酒もある。私は「千べろ」という、三杯千円で飲めるプランを注文し、一杯目に生ビールを頼んだ。小さな貝殻を二つ渡され、これで後二杯注文できるとのことである。


 隣に座っていた青年が私に話しかけてきた。彼は大阪から今日旅行で訪れたとのことである。見知らぬお客さん同士がすぐに打ち解ける、気楽な雰囲気の店だった。


 私が神戸出身だと言うと、親しみが湧いたのか、色々と話が弾んだ。日本最南端のこの島で故郷のことを語るのは、楽しかった。


 一杯目のビールを飲みほした頃に、彼女が横に座った。そして彼女も「千ベロ」を注文し、やはりビールを注文した。


 九席ほどの小さな店だったが、お昼過ぎと言うのにカウンター席はほぼ埋まっていて、私の隣がたまたま空いていたからだった。そういったこぢんまりとした雰囲気での心地よい私と隣の青年との会話の中に、彼女が割って入ってきた。


「どこから来られたんですか?」


「東京。ここ半年ばかりは、仕事で月に一度石垣に来ている」


 私は貝殻を一つ差し出して、二杯目を注文した。今度は日本酒の冷にした。


「君はどこから?」


「埼玉」


 彼女は別のところで既に飲んでいて、二軒目のようだった。


 彼女は今西表島のホテルで働いているとか、一通り自分の身の上を語り、私も一通り、自分のことを話した。まだ午後三時である。しかし、仕事が休みの日は前日から船で石垣島に来て、お昼に飲んで夕方の船で島に戻って翌日から勤務というパターンが普通らしい。


「私、何で西表にいると思う?」


 彼女が唐突に尋ねてくる。


 私は日本酒を飲みながら「ダイビングとか?」と当たり障りのない答えを返した。


「私、潜るの上手じゃないの。だってすぐに浮き上がっちゃうから」


 彼女は自嘲気味に笑って、二杯目のハイボールを注文する。彼女が差し出した貝殻が手からこぼれて床に落ちる。私が手を指し伸ばして、それを拾った。


「でもウェイトを付けたら調節できるよね」


 ダイビングもやったことのある私は、少し意味不明なその言葉に、真面目に返した。


 彼女は運ばれてきたハイボールを一口飲んでから言う。


「石垣に初めて遊びに来たとき、一度『体験』で潜ったことはあるわ」


 「体験ダイビング」のことを言っているのだろう。観光客などを対象として、簡単な研修後に浅瀬でスクーバダイビングを体験できるレジャーである。


「それで、どうだった?」


 私は三杯目も日本酒を注文し、それをちびちびと舐めるように飲みながら尋ねた。


「確かに、すごかった」


 私も仕事の合間に、何度か石垣の海をスクーバダイビングしたことがある。


「水の中で呼吸が出来ているというのが、信じられなかった」


 確かに、最初は半信半疑でボンベに繋がれたレギュレーターを口に含んだまま水に潜り、恐る恐る息を吸ってみて、空気が自分の肺に入っていくのを感じた時の感激を思い出した。私は石垣に定期的に行く仕事が決まったとき、さすがに行くのであれば何かしようと思い、伊豆でダイビングの講習を受け、ライセンスを取得した。それで石垣でも、仕事の合間に何回かは潜ることが出来た。


「ヨナラ海峡には行った?」


 私は少し誇らしげに言った。ヨナラ海峡はマンタが見られる絶好のポイントだが流れが速く、中級以上のダイバーたちが対象である。


「いいえ、だから私、体験で米原しか行ってないの」


 米原は石垣の北西部にある、自然海岸の残るダイビングのスポットである。


「米原もきれいだよね」


 私も米原海岸で潜った経験があったので、彼女の話に付き合うことができた。


「でも私、潜るより浮いている方が好きなの。浮いている方が楽じゃない?」


「?……」


 彼女は話を続けた。


「ダイビングって、潜るとき、BCの空気を抜いたりとかの意思が必要じゃない。何もしなければ浮いたまま。だから私、何をしたいのかが全然分からない。でも何かをしなけばいけないから、何かをしないといけないじゃない。島に来たら、何かを見つけられるのじゃないかと思ったの」


 意味不明な言葉だった。酔いも回っているのだろう。しかし何となく、このような純粋な若者の思いに、私も共感出来なくはなかった。だがそんなもので無いことは、自分の経験からも明らかだ。  

「それで、何か見つけられたの?」


 私は彼女に少し嫌味をこめて尋ねる。


「へへへ、もちろん、何にも見つけていないわ」


 彼女は笑い、三杯目の焼酎ロックを注文した。


 私はこの段階で、既に自分を見失ったっていたのかもしれない。不思議なことに、彼女が自分自身の分身のように感じてしまった。


 確かに私は堅気な仕事に就き、家族を作り「まっとうな」人生を歩んできたつもりであり、それなりに満足してもいる。そしてこれからも、それを止めるつもりはない。しかしこの南国に通っているうちに、東京での暮らしが、何か違うように思えてきてしまうのは否めなかった。


 石垣から羽田への直行便は七時過ぎにある。この屋台の隣にあるバスターミナルから石垣空港まではバスで三十分余り、だからまだ三時間ばかりはここで過ごすことが出来る。


「彩ちゃんは何時の便?」 


 店主が島へ帰る船便の時刻を尋ねる。


「四時四十分」


「じゃああと一時間はあるから、二千ベロ行けるね」


 彼女は笑って「まだ一杯残っているけど、じゃあもう千ベロ追加」と答える。店の女の子が「はいよー、千ベロ追加いただきました」と大声で叫んでから貝殻を新たに三つ、彼女の前に置いた。


「お客さんは?」


 私は既に三杯注文していて貝殻は無くなっている。しかしまだ三時間もある。私は躊躇なく「千ベロ追加」と注文した。


「お客さん二千べろ」

 同じ店の女の子が快活に叫ぶ。

 私はビールを注文し、それを飲みながら、彼女との話を再開した。

?」

「西表島のどこから?」


「上原」


「西の方だね」


「島に行ったことがあるの?」


「一度だけね」


 私はこの仕事の合間に、休みを取って西表に一泊二日で行ったことがある。大原に泊り、牛車で海を渡って由布島まで行く観光ツアーに参加したことを思い出した。しかし残念ながら西表島の雄大な自然に触れたとまでは言えなかった。


「西表まで来てしまうと、もう何でもありね」


 彼女はまだ三杯目の焼酎のロックを飲みながら、呟いた。それが何を意味しているのか分からなかったが、分かったふりをして、付き合って聞いていた。


 そういった、たわいもたわいない会話を彼女と交わしているうちに、時間はあっという間に経っていた。


「そろそろ船の時間だよ」


 四時三十分、私もこれから石垣空港に向かえば、予定通りの羽田便に乗れる時間だ。しかし翌日は休みでもあったし、もう一泊延泊することにし、携帯電話で妻に「一日延びる」と連絡を入れた。しかしまだその時は、この店でもう一回千ベロを追加して飲んでから、石垣で泊まるつもりだった。


 店主が彼女に声をかけると「じゃあ」と私に声をかけて立ち上がったが、結構酔いが回っていて、よろけて私の方に倒れ掛かってきた。


「おいおい大丈夫かね」


 店主が心配そうに声をかけた。


「彼女、いつもちょっと飲みすぎでね。時々島に戻れなくなっちゃうんだよね」


「それは大変だね」


「じゃあ島まで送ってよ」


 彩子が唐突に言った。私は少しドギマギしたが、思い切って言ってしまった。


「まあ良いか。帰るのを一日延ばしたわけだし」


 私も勘定を済まし、立ち上がった。


「まあ、あんまり羽目を外さんでくださいよ」


 店主が呆れたように言う。


「はい、お客様二名お帰り」


「はいよー、ありがとうございました」


 店員が大声で送り出してくれる。私は彼女の腕をつかんで、離島桟橋へと歩き始めた。まだ日は高く、強烈な太陽が輝いていた。


 離島桟橋は、石垣島から竹富島・西表島・小浜島などの八重山諸島の島々への航路の拠点である。しかし、石垣島自体が離島なのに、その先を更に離島と認識しているのが面白い。しかも、沖縄自体が離島県なのに、那覇から石垣に向かう航空路を「離島便」と呼んででいる。結局、自分の住んでいるところが中心であり、周囲はすべて辺境という感じなんだろう。


 有名なボクサーの銅像が建つ浮桟橋の一つから船は出た。初めはゆっくりと進んでいたが、防波堤を超えると白波を上げ、船は一気にスピードを上げた。すぐに真っ平らな竹富島のそばを通過する。

 八重山諸島の海は、石西礁湖と呼ばれるサンゴ礁に囲まれた海だ。いたるところにサンゴ礁の隆起があり、ベテランの船員が、それを避けて船を走らせる。しかし竹富島を超えると、西表島までは障

害物もない。彼女をキャビン内の席に座らせてから、船尾に出て海をぼんやりと眺めながら、何か愉快な気持ちになっていた。


 小浜島が間近に見えるころには、西表島の迫力ある山々の風景が間近に見える。船は一時間ほどで上原港に着いた。


「島に着いたよ」


 私はキャビンに戻り、席で寝入っていた彩子を揺り起こした。


「はい」


 彼女は何が起こったのかが分からない様子で、曖昧な返事を返す。私はもう一度彼女の腕をつかんだら、ようやく彼女は立ち上がった。


 私は東京から持ってきたキャリーバックを持ち、彼女は小さなリュックを背負って船を降りた。彼女の酔いは少し冷めていたようだが、なぜ私がそばにいるのかを、理解できないでいた。


「じゃあ」


 私は桟橋で彼女と別れ、集落に向けて歩き始めた。


 彼女が勤めているという月が浜のホテルの送迎バスが来ていたから、彼女も無事職場に戻れるだろう。しかし私は勢いで西表まで来たものの、彼女の勤める高級ホテルに宿泊するのは躊躇した。一泊二万円はする。私は集落まで歩き、スマートホンの旅行サイトで宿を探し、一泊六千円の民宿を探し出して、その日の寝床を確保した。

 

 私は船浦という集落までバスに乗り、目についた食堂に入った。


 ゴーヤーチャンプルとかいったありふれた沖縄郷土料理と泡盛を注文して、とりあえず予定より一日遅れで日常を再開させるつもりだった。


 本来ならば今日七時過ぎの便で羽田に戻って、明日一日家で休んで、明後日には通常通り仕事に行き、石垣の出張報告をする予定だった。しかし一日ずれたとしても、明日夜に家に戻れば、明後日からの仕事に支障はない。


 そう考えると、気が楽になった。


 私は泡盛を更に一杯注文し、いい加減酔いが回って来たので、先ほど予約した集落の中央にある民宿へ、食堂の主人に地図を書いてもらって向かった。


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