第6話 甘く儚い夢に
「キリウスもちょっとは辛苦を味わったようだな。そなたにとっても、少しは復讐になったのではないか」
魔王はそう問いかけてきた。
「復讐、なんて言葉、いけませんわ。でも、本当のことを申し上げるとすっきりしました。わたくしが説明するよりもずっと、キリウス様も世の中のことが分かってきたのではないかと思います」
一瞬真面目すぎる言葉が出たものの、アルディナはそう答えて、小さく笑う。
実のところ、彼女の心の内は複雑だった。
キリウス王子に婚約を破棄されたときは、愛されていなかったことに心がバラバラになるほど砕かれた。自分の王子に捧げてきた愛は何だったのかと。
けれども今は。
キリウスへの愛などなかったのではないか。王妃になるためにひたすら努力していただけだったのではと思う。自分の義務を果たしてきたのにすぎないのではないかと。
王子の言葉も、ただその心が自分に向いていなかっただけで、傷つく必要もなかったのかもしれない。
なぜなら、魔王様を恋い慕っているから。本当に愛するというのは、こういうことではないのかしら。
アルディナはうっとりと魔王に見入ってしまい、慌てて視線を足もとへ向ける。
「キリウスのことでは本当に苦労しただろう。だが、今はそなたが明るく話せるようになって、わたしもよかったと思うぞ」
「ありがとうございます」
アルディナは魔王の思いやりのある言葉に感謝する。
「どうだろう。帰る前に一曲、わたしと踊ってくれないか」
「はい、もちろんです」
魔王城にはたくさんの部屋が備えられている。螺旋階段を降りて、二人は大きなダンスホールへ向かう。
執事や侍女たちがかしずくなか、魔王とアルディナは中央の大理石の床に立つ。
緩やかな音楽が流れ始め、アルディナは魔王と踊る。
自然と体がリズムに乗り、動作のすべてが流れるようにスムーズになる。翡翠のイヤリングを揺らし、若草色を基調としたフリルのドレスを着た彼女は、まるで森の妖精のように舞う。
優しいけれど力強いリードに、やがて心も解き放たれていく。
一曲と言われたのに、気づくと次の曲が始まっている。ますますアルディナは甘美なムードのなかに身を任せていく。シャンデリアの煌めく光のなか、魔王の金を宿す瞳を夢みるように見つめる。
魔王のその瞳に自分が、自分だけが映っているのを感じながら。
甘い甘い夢。
そう、夢の世界だとアルディナは知っている。砂糖菓子のように刹那の時間に溶けてしまう幻。
それでも、今はただ浸りたい。このダンスが終われば、魔王城から帰らなければならない。
そうしたら、もう二度と魔王様に会えないかもしれない。もしも、魔王様がわたくしの協力を今後必要としなかったら。
これまでアルディナは魔王を手伝い、たくさんの国や地域にかかわってきた。依頼のたびに魔王城に呼ばれ、知識や意見を求められ、時には実際に争いの場を収めるための行動もしてきた。
王太子の婚約者だったときも外交にはかかわってきたが、大国の王や大使の前でも態度を改めないキリウスのことでひどく緊張を強いられた。アルディナは常に多大な気を配らなくてはならなかったのだ。
それに比べると、何の邪魔も憂いもない今は、どんなことも容易く、楽しいくらい。魔王の計画は常に確かなもので、どんな国の内外のトラブルであっても、良い方向へ導けるのだった。
それに、わたくしのことを魔王様は何度でも労ってくださり、感謝して、褒めてくださる。
アルディナは、自国では当り前にこなしてきたことを称賛されることに、最初はただ驚いた。
幼少時から『王妃として完璧を目指しましょう』と言われ続け、一度たりとも褒められたことなどなかった。いつも自分の言動を顧みて、不足していたところを探し、改善する。いくら努力しても決して足りることはないと思っていた。
それなのに今は、恋い慕う者から優しく気遣われ、自分を肯定する言葉を何度もかけてもらえる。その幸せをどれほど噛みしめたことか。
けれど、それは。
魔王様がもういいと言えば終わってしまう、儚い夢……。
そう思えば、美しい響きにどこか悲しい調べが入り交じって聞こえてくる。
この夢がどうか終わりませんように。
祈りながら、アルディナは最後の旋律を踊った。
「アルディナ」
余韻のなかで、魔王が呼びかけてくる。
「はい、魔王様」
「これまで、わたしの依頼を受けてくれて、そなたには感謝している」
「そんな……感謝なんて」
笑顔で返そうとしているのに、どこか表情がこわばってしまう。何か予感めいたものが感じられて。
「国を滅ぼす協力を求めて以来、そなたにはずっと助けられてきた。キリウスの国だけのつもりが、いつの間にかたくさんの国や地域のことで頼ってしまった。もう、キリウスのことも一段落して、そなたも笑顔で語れるようになった。これでいいのではないか」
「魔王様……」
声が震えてしまう。
これは、もう終わりという意味では。
いつか来るはずのことだった。むしろ、二年もの間、様々な国にかかわることで、こうしておそばにいる機会も持てた。幸運だったのだわ。
「そなたはもう、わたしのような魔族にはかかわらなくていいだろう。これまでのこと、ありがたく思っている」
やはり、そうなのですね……。
アルディナの心は暗く澱んでしまい、うまく言葉が出てこなかった。ただ優雅にお辞儀をする。
魔王は言い足した。
「すっかりそなたが協力してくれるのが当り前になってしまっていた。いけないな」
「いけないなんて、そんなことは……」
アルディナは思わず口を開く。
「わたくしでよろしければ、もう少し何かお役に立てませんか」
こぼれ落ちた言葉に、アルディナは自分で驚いてしまう。はっとする。出過ぎた言葉では、と。
それでも、どうしても打ち消せない。どうしてもまた会いたい。
「それは……」
ホールは広く、音楽の消えたあとはしんと静かだった。
ゆっくりとした間のあとに、魔王の艶のある深い声が響いた。
「助かるな。では、もうひとつ協力を仰ぎたい」
「はい。わたくしにできることでしたら、何なりと」
声が弾むのを抑えるのがやっと。アルディナの胸は高鳴った。
見上げた魔王の顔には笑みがあり、ほっとする。
助かる、というお言葉は、お世辞ではないのかも。