第5話 焦がれるような想い
「あの……、王子や王女や衛兵たちはその後、大丈夫だったのでしょうか」
「ああ、そのことか。人間とは案外脆いものだな」
「えっ」
アルディナは白磁のカップを持つ手を止め、血相を変えた。
脆い、とは。まさかみんな……。
すると、魔王は高らかな声で笑った。
「そんな顔をするな。もちろん、冗談だ。風魔術に飛ばされた者たちは全員わたしの手の者がきちんと地面に降ろしたぞ。多少の怪我を負った者はあるが、みな今はそれぞれの城に帰っているはずだ」
「魔王様、からかわないでくださいませ」
「すまんな。ついそなたの反応を見たくて、言ってしまった」
「どうせ、わたくしは生真面目ですから」
アルディナは気分がずしりと落ちてしまう。
別の世界を知ると、やはり自分は堅物だったとよく感じるのだ。
「いやいや。二年前に比べたら、だいぶ変わったと思うぞ」
「そうでしょうか」
アルディナの妙に真面目なところは、幾分かは和らいだらしい。
公爵令嬢だったときは、未来の王妃として、きちんとしなければならないことは多かった。
けれども、魔王と出会い、陽気で冗談の好きな魔族と接する機会が増えるにつれて、徐々に感化されていた。
ただ、本人はあまり実感が湧かない。
魔王はその瞳をこちらへ向ける。透きとおるような赤い色に見えることもあれば、光を受けて金色に輝く不思議な色合い。
「そなたがかわいくて、ついやってしまうだけだ。気にするな」
よく響く声で彼は笑った。アルディナはどきどきとしてしまう。
いけない。かわいいというお言葉をすっかり本気にしてしまうところだったわ。魔王様のちょっかいに乗ってしまわないようにしなくては。
「それにしても、あの風魔術は強すぎました」
紅茶をそっと口に運んでから、アルディナは真剣な表情で話す。
「わたくしは、あの場をただ強い風で一時的に争うことのないようにしようと思っただけです。この前の、魔族のナダの正体を明かした魔術と同じくらい小さなものかと考えていましたから」
「そうか」
魔王がにやにやしながら答えたので、アルディナは唇をとがらせる。
「わたくしに付与する魔力は、加減できると聞いています。もっと少な目でお願いしたかったですわ。みんな吹き飛ばされてしまって、本当にわたくし、驚いたのですよ」
諫めるように魔王に訴える。
「すまない。何しろ、魔力を分け与えるときは、そなたの手を握る必要がある。その、……つい長くしてしまったのだ」
「……」
アルディナは一瞬、言葉を失くした。
魔王の白皙の美貌がほんの少し淡いピンク色に染まっているような。
気のせいかしら。魔王様、照れてらっしゃる?
いいえ、からかっているだけに違いないわ。
「今後こういうことがあれば、加減を気をつけてくださいませ」
努めて平静を装って言ってみせた。内心はぐらぐらと動揺していたけれども。
アルディナは、魔王の依頼で様々な国のために協力している。貴族たちの会合の場などで無益な争いを避けるために尽力してきた。婚約破棄の場面に居合わせることもあったのだ。
その際に、危険なことのないように、魔王の計らいで一時的に魔力を付与されている。魔王は、魔族にも人族にも自身の魔力を分け与えることができた。
ついでに、アルディナの倍ほどの年月を生きているのに、その魔力のため、魔王は彼女と同じくらいの若い青年にしか見えない。
アルディナは、魔力を魔王と両手をつなぐことで得られる。
そのときの、魔王の美しい手の感触や伝わってくるエネルギーを思い出し、彼女の鼓動は抑えようもなく高まる。
いけないわ。魔王様をお慕いするあまり、態度に出てしまわないように気をつけなければ。
魔王様は、わたくしのことなど一介の人間の小娘としか思っていないはず。魔王様がこの世界を操るただの便利な小道具に過ぎないのだから。
アルディナは自分にそう言い聞かせる。そうであっても、魔王の傍らにいたかった。
荒くれた魔獣さえ従え、魔族の多くの者の信頼や尊敬を集めている王。余力で人間たちを救いさえしてくれる寛大な優しさもわたくしは知っている。
美しい容姿に優美な動作を目にするだけで心が惹きつけられる。豊かな深い声をいつまでも聞いていたい。紅玉のような煌めく瞳に一瞬でも見つめられると喜びで身体が震えそうになる。
そんな焦がれるような想いは、この胸に秘めていなくては。ただ少しでも、ほんの少しでもおそばにいられたら。
「まあ、どちらの国も少しは反省する必要があっただろう。ちょっとばかり痛い目に合わせてやった方がいい」
いたずらっぽく笑う魔王に、アルディナはやはり見惚れてしまうのだった。
「ところで」
魔王は話題を転じる。
「キリウスの話を聞いているのだが」
「……キリウス様、ですか」
言葉が出るのにしばらくかかった。近頃のキリウス元王太子の行方をアルディナは知らなかった。
魔王には、翼を持つ魔族も配下にいるため、大陸の端々の情報までもが手に入るのだ。
「あやつは、遠く南西の国の辺境伯に拾われたそうだ。そこで土にまみれながら農作物を作っているらしい」
「そうですか」
思ったより冷静な声が出る。
かつてアルディナが王妃となるはずだった国は、今はもうない。大国に滅ぼされてしまったのだ。
国外に追放されていたフォーゼンハイム元公爵家は無事に済み、近隣の国で小規模ながら領地を与えられて暮らしている。
すべて魔王の取り計らいだった。
二年ほど前、婚約破棄をしたのち、キリウス王子は婚約者べリアナとともに奇妙な疫病にかかった。
『ちょっとした細工だな』
その話を聞き知ったアルディナに、魔王はそう告げてにやりと笑った。
アルディナは国の情報を魔王に提供していたが、彼はそれを実に巧みに利用していた。
その病は死者こそ出ないものの、様々な辛い症状が長引くものだった。
やがて王都の貴族から感染が広がり、元凶が王太子と婚約者にあることを知られ、国民から激しい非難が浴びせられるようになった。それに伴い、王族や周りの貴族たちの贅沢な暮らしや怠惰な政治が暴かれたことで、ますます王都は乱れるようになっていく。
結局、王太子をはじめとする王族たちは疫病に苦しみながらも国外へ逃れ、病が収まるころには国はすっかり疲弊し、傾いていた。
そこへもとから狙っていた大国が攻め込んできて、滅ぼされたのだ。
キリウスは国を出たのちは放浪を続けることになり、やっとのことで遠い国に落ちのびたようだ。その間に、愛想の尽きたべリアナには縁を切られている。
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