第3話 月下の森で出会う
数多の小国が寄り集まる大陸。そのなかでも、この国は財政難にあえぐ弱小王国のひとつだ。常に大国から狙われている。
それなのに、キリウスは自分こそが立派な国の王太子だと思い込んでいた。
金の巻き毛が自慢で、いつも豪華な装いを好み、傲慢だった。使用人などの周りの者の評判は悪く、外交で出会う様々な国の人々からも不興を買うことが多くあった。
それでもアルディナは、常にキリウスのわがままに付き合い、周りからキリウスを庇って、取りなしてきた。
未来の王妃として、この王国のためキリウス王太子のために、懸命に尽くしてきたのだ。アルディナはそうすることが、自分のキリウスに対する愛だと信じていた。
けれど、キリウスはそんな自分を全く愛していなかった。
そのショックを受け止め切れない。
もう、婚約者でも何でもない。
沈んだ心のままに、アルディナは森に隣接した場所で、小さな家を住まいとした。
その森は、大陸の西の果てまで続く巨大な森だった。そこには魔族が住み、魔王が配下の魔物たちを従えているという。
魔族と人族はかつては敵対し、土地や食物を奪い合い、争いの絶えない時代もあったらしい。けれど、破壊と殺戮の果てに、二度と混沌とした世に戻らないことを互いに誓い合った。
今では協定が結ばれ、ほとんど干渉し合うことはない。魔族の森に、人間はあまり立ち入ることもなかった。
ひとりになりたい彼女には、そのそばはとても静かで心地よく感じられた。
森に近い王国では、魔族と親交があるらしい。けれど、アルディナがこれまで生まれ育った土地では、魔族はほとんど見かけなかった。幼い頃の寝物語では「言うことを聞かないと魔物に食べられてしまうよ」などと脅かす材料にされてきたくらいだ。
実際には、様々な魔術を使う者があると伝えられ、恐れられている。また、魔族のなかには、魔獣と呼ばれる猛獣のような姿の者もあった。
アルディナは魔獣さえ出現するような土地であっても、どうでもよかった。
もう、生きていいのかさえ答えが出なかったから。 魔物に襲われて命を落としてもいいような自暴自棄な気持ちになることもあった。
日々をまるで抜け殻のように、アルディナは過ごした。
ある晩のこと。
アルディナはその夜も眠れず、次期王妃として捧げてきたことを思い返していた。
キリウス王子に対しての愛情も。でも、それはみな儚く消えてしまった。
尽くした人に、愛されていなかった。
自分の想いに耐え切れず、アルディナは森へ足を運んでいた。
途中で、夜こそ魔物たちが多く徘徊していることに気づいたが、もはやどうでもよかった。このまま何の実りもない人生を終えることに何ひとつためらいはない。
少しずつ森の奥へと誘い込まれていく。梟が一声鳴く。
空を見上げると、今宵は満月。その光が木々の間へと降り注いでいた。
アルディナはふと、前方から何か向かってくるのに気づいた。足音がする。
こんなところに人はいないはず。
けれど、魔族のなかには人とあまり姿の変わらない者もいる。
近づいてくる。なぜかアルディナは誘われるように、そちらへ歩を進めていく。
月の光にその姿が映し出され、はっとする。
年若い青年の姿なのに、どこか威厳のある佇まい。上品で美しく整った顔立ち。月明かりを反射して、赤い瞳が不思議な光を放っている。
長い黒髪が風にたゆたう。二本の立派な角が見える。
噂に聞いていた魔王の姿だとアルディナは気づく。
圧倒的な力を持つ魔族の主。
分かっているのに、引き返せなかった。本来なら逃げるべきなのに。むしろ、彼女は近づきたいと思っていた。
あの瞳に自分を映し出してほしいと願っていた。胸が高鳴り、全身が震える。
わが身を差し出すかのように、アルディナは一歩一歩近づいていく。
「そなたは、アルディナ・フォーゼンハイム嬢だな」
深い声に名を呼ばれて感じたのは。
喜びと、それが永遠に続かない恐れ。
己の感情にひどく揺さぶられながらも、アルディナは返事をする。
「はい」
凛と透きとおった声が出せたのは、いつ以来だろうか。
虚ろだった心が彩られ、華やかな昔の記憶も甦るかのような気がした。
今ここに、自分が在ることがどうしようもなく、嬉しい……。
「魔王様……でしょうか」
「いかにも」
美しく艶のある唇が声を紡いだ。それだけでアルディナの心は動く。
魔王の双眸が彼女を捉えていた。彼女自身はその奥深くへと絡め取られている。
「そなたは、王太子より婚約を破棄され、この地に居を構えたようだな。魔物は怖くないのか」
「はい、怖くありません。わたくしは、婚約者にも愛されないまま、生きる意味も失いました。わたくしの心はもう恐怖も感じず、ただ虚ろなだけで……」
アルディナは言葉を続けられなくなった。
自分の心は、何も感じないはずだったのに。
その気づきが伝わったかのように、魔王は微かな笑みを浮かべた。
「そなたの心は虚ろではないだろう。キリウスに対しても、このままでいるつもりか」
アルディナの胸の奥に、ちりちりと焼けつくような感触があった。
思わず胸もとへ手を添えたとき、魔王は告げた。
「そなたの暗き願望を、わたしはもう知っている」
ささやくように魔王は続ける。
「あの国はわたしも気に食わなくてな。ひと息に滅ぼすのは造作ないことだが、どうせなら王族を苦しめ、長い時をかけてじわじわと滅ぼしてやりたいと思うのだ。そなたはあの国のことなら詳しいだろう。力を貸してくれるか」
わたくしの願望……?
そう言われると、自分の心を殺してきたような気がする。キリウス様に対しても愛されなくて悲しむよりも別の感情がどこかにあったのかもしれない。
それに、魔王様をたった一目見ただけで、心が動いた。強く惹かれてしまった。
その気持ちはあまりに大きく、抗いがたい。
魔王様に。
わたくしは、魔王様のところに。
アルディナははっきりとした答えを自分のなかに見出す。
「もちろんです。わたくしをどうかお役立てくださいませ」
月光を浴びた魔王に、アルディナは熱意を込めて返事をする。
魔王は満足げな微笑をたたえるのだった。
イラストは、汐の音様の「【挿絵限定】続自由絵一覧」より、お借りしました。