第15話 アルディナと元婚約者
「まあ、キリウス様」
以前のキリウスからは想像のできないことだ。王族だったのに追放されて、一からでも大貴族を目指すとは。王太子としてふんぞり返っていたときとはまるで違う。
アルディナはふわりと微笑む。
「よく頑張ったのですね」
キリウスの婚約者であったときは、本当に辛いこと、理不尽なことにも耐えてきた。
他国の王子に対してキリウスが失礼なことを言い出し、アルディナが父親に相談して、お詫びに贈り物をしたときには、「あんな国に何機嫌取っているんだ。無駄遣いするな」と叱られたこともある。
けれど、こうして変わったキリウスと三年ぶりに会うと、そんな出来事もはるかに遠い夢か幻のようで、懐かしい気持ちになる。
キリウスが一度、自分のことを「俺」と言いかけたのも、アルディナは聞き逃さなかった。
今では「余」なんて言い方はしていないのだろう。辺境伯のもとで、多くの使用人に交わって仕事をしているに違いない。
よく頑張った、という言葉はアルディナが自分自身にかけた言葉でもあるかのように感じられた。
キリウスと再会して、こんな境地になるなんて思いもよらなかった。不思議なことに、今はキリウスに対して慈愛のようなものさえ持てる。
「きっと、そのうちキリウス様にもよいかたが現れますよ」
「黙れっ。お前が来るんだっ」
「いいえ、キリウス様」
婚約者だったころには従ったようなキリウスの強い口調にも、臆しない。
彼女は彼女自身だった。
元婚約者の顔色を窺い、その言動に操られることは決してない。
「わたくしは魔王様に心惹かれ、どんなときも一緒にいたいと思いました。わたくしは、魔王様を愛しています。キリウス様を、この先も愛することはないのです」
「何を言っている。騙されるものか。余とお前との間に真実の愛はあるのだ」
キリウスが破れかぶれで言い出した言葉は、アルディナに閃きを与える。
「わたくし、今ようやく分かりました。真実の愛を見つけたのは、わたくしのほうです。わたくしと魔王様が。種族の差があっても本物の愛かも……っ」
アルディナは、その思いつきにどこまでも陶酔してしまう。
そうだわ。これこそが真実の愛でなくて何なのかしら。
薔薇色の頬に両手を添え、うっとりしているアルディナに、キリウスは声を失う。ぽかんと口を開けたまま、その様子を見つめてしまう。
それからようやく我に返って、やや力弱くなったものの、言い放つ。
「いい加減にしろ。いいから、余の元へ来るんだ」
再びキリウスが腕を取ろうとするが、アルディナは反射的に振り払う。それが、キリウスの気分をひどく害したらしい。
「さっきから聞いていれば、お前、随分生意気だぞ。すっかり魔王に誑かされたようだな」
「誑かされてなどいません。魔王様を悪く言わないでください」
「何だと」
キリウスの表情が変わる。アルディナははっとした。ひどく焦る。
怒らせてしまったに違いない。
「さっさと来い」
身を引く隙もなく、手首を強く掴まれて引っ張られてしまう。先ほどとは全く力加減が違う。
「痛い。離してください……っ」
アルディナが抵抗したそのときだった。
「わたしの花嫁に何をする」
魔王が現れた。
その双眸に剣呑な光を帯びながら。
「魔王様」
アルディナはキリウスの緩んだ手から逃れ、魔王のもとへ駆けていく。彼はすぐさまアルディナを背に庇うと、キリウスに問いかける。
「水晶球を送って、きちんと話をしただろう、キリウス?」
アルディナが断りの手紙を出して以来、キリウスは魔王城へ『アルディナと結婚するな』としつこく手紙を送りつけてきたらしい。それで、魔王は水晶球を通じて、キリウスと話し合ったのだという。
魔王様、キリウス様とそんなことまで。
アルディナは初めて知って、呆然とする。
ちょうど、魔王がお忍びで婚約指輪を届けてくれた頃合いだろう。
あのとき魔王様は何も言わなかったけれど、本当はキリウス様のことを話したかったのでは。
無邪気に来訪を喜んで、恍惚とした表情で指輪に見入っているのを目にしたら、確かに言えないかもしれないけど。
嬉しすぎて、何も気づかなかった、わたくしって……。
アルディナは恥じ入るが、今はそのことに考えを巡らせている場合ではない。
「婚礼が今日であることは教えてやった。ただ、わたしの邪魔をするようなら消し炭にしてやると話したはずだが?」
確かめるように魔王は問いを投げかける。
だが、キリウスは拳を握りしめ、もはや完全に冷静さを失っている。
「アルディナはもともと余の婚約者だ。お前なんかと結婚させるものかっ。今すぐアルディナとの婚約を破棄しろっ」
魔王の朱金の瞳が鋭くなる。
次の瞬間、魔王の手から炎が噴き出し、キリウスへと襲いかかる。キリウスは悲鳴を上げて、飛びのいた。
もちろん、細工された火だ。多少熱かろうが、体が焼けることはない。
「なな、何ということをっ」
キリウスは、自分の頭に手をやって、叫んだ。
見ると、キリウスが今でも自慢にしているらしい金の巻き毛が半分ほど焦げている。
「ひっ、ひどいぞ、魔王っ」
キリウスの非難に対し、魔王は静かなのに、どこか底冷えのするような声を響かせる。
「アルディナはわたしのものだ。絶対に渡さん」
魔王様、本気みたい。
アルディナは純粋に驚いた。
いつも上から物事を眺めているような、ゆとりあるはずの魔王様なのに。半分はからかうような言葉も、今は見られない。珍しい。
それにしても、その様子は。
やっぱり格好いいですわ。
それに『絶対に渡さん』という言葉には、きゅっと心を掴まれてしまう。
アルディナは心底痺れてしまった。
喚き散らすキリウスに対し、あくまで冷徹な魔王。その手のひらには再び炎が揺らめく。
さすがのキリウスも慌てる。
「やややめろっ。分かったっ、もういい」
キリウスは戸口へ駆けだそうとする。だが、一瞬早く魔王はその服の背中を引き、取り押さえる。優雅なのにすばやい動作。魔王はその麗しい容姿にもかかわらず、力も強く、キリウスは全く抵抗できなかった。
「待て。もうひとつやっておくことがあるだろう」
「なな何をだ」
震え声で尋ねるキリウスに、魔王は冷たく命令を下す。
「わたしの花嫁に、謝罪しろ」
「は?」
「アルディナ嬢に謝れと言っておる。そなた、ただの馬鹿王子で終わらなかったことだけは評価してやる。苦労してやっとアルディナがそなたのために尽くしてくれたことが分かったのだろう。どれだけアルディナに迷惑をかけていたのかも自ずと知れただろう。どうだ?」
圧力のある魔王の物言いに、キリウスはすくみ上りつつも、こくんこくんと頷く。
その様子に、アルディナは目を瞬いた。
この一年、水晶球を通じて、魔王とたくさんの対話を重ねてきた。もちろん、カルム王子やミレーネのことを報告してはいたが、それだけとは言えなかった。
話すうちに、自然とキリウスとの過去も打ち明け、気持ちを聞いてもらったこともある。
ダンスの練習をさぼったキリウスに、舞踏会で足を踏まれた話などをしたときは、愚痴になってしまったかと猛省したものだ。
けれど、魔王はそんな思いをしっかり汲み取り、キリウスにも今問いかけてくれたのだと感じた。