第10話 手紙の束
「ときに、アルディナ」
魔王の声に、彼女は沈んだ心を呼び戻された。
「実は、そなたあてに手紙が届いている」
「えっ、ここに、ですか」
意外な話だった。
「そうだ。そなたの住まいは知られていない。だが、今回の立ち回りせいかこの城に来ていることを突き止めた奴もいるようだな。そなた、美貌の世直し令嬢として有名になっているぞ」
「え……」
「素晴らしいな。そなたは、たくさんの人間に慕われているのだな」
「そ、そんなことは……」
手放しで褒められ、恥ずかしくて、アルディナは言葉を続けられない。
魔王は、執事のソムスから、藤の籠を受け取る。
「よく見るといい」
籠には、アルディナあての手紙が束になって入っていた。
彼女はそのなかの一通を取り出して覗いてみた。
――アルディナ様に一目で惚れてしまいました。
そんな文字が目に入ってきた。全身がかあっと熱くなってしまう。気を取り直して、他の手紙を見るものの。
――アルディナ様に結婚を申し込みたいです。
――余の国にぜひともご招待したい。一緒に食事でもいかがなものか。
直接だったり遠まわしだったりしているものの、ほぼ結婚の申し込みかそれに似たものだった。貴族の女性から、尊敬しています、素敵です、といったファンレターのようなものも一部混ざっていたが。
「このなかに、少しは興味のある者もいるだろう。持ち帰ってゆっくり読むがいい」
「はい。ありがとうございます」
さほど興味はないかもしれないが、このままにしておくことができず、頷く。
ソムスが郵便物をまとめてくれるようだ。
「それから、あともう一通だ」
「他にも?」
アルディナの前に、魔王はすっと一通の手紙を差し出す。
お世辞にもうまいと言えない、よく見ていた字。今はきっと代筆も頼めない身分なのだろう。
キリウスからだった。
――お前との婚約を破棄したのは、間違いだった。
いきなりそんな一文から始まっていて、アルディナは目を疑う。もう三年も前のことなのに。
――本当に愛していたのは、アルディナだけだ。お前のように余を理解し、尽くしてくれた女性はいない。すぐにでも婚約を結び直したい。
「……今更、何を」
思わず呟いてしまった。
「何が書かれていた?」
魔王の問いかけに、アルディナは思い切ってキリウスからの手紙をそのまま渡す。
目を通すと、魔王は尋ねた。
「もう遅い、か?」
「もう遅い……でしょうか」
アルディナは息を継いだ。
「そうではなく、最初から違っていました。わたくしは、愛していたのに愛されていなかった、と思っていたのですが、気づいたのです。愛なんてわたくしにもなかったと」
「そうか」
気遣うように言葉を発する魔王に、アルディナは溌溂とした声で告げる。
「帰ってから、丁寧にお断りのお手紙を差し上げたいと思います」
「キリウスとはそれでいいのだな」
「はい」
魔王様は、わたくしの心を気遣ってくださっている。
そう思うと、アルディナは明るく話すことができた。
「それなら」
魔王は手紙の束を指差す。
「このなかにでも、そなたに相応しい者がいるといいな」
「……」
アルディナは急にすべての灯りが消えたような虚ろな気持ちになった。
「これから幸福に暮らせることを願っておるぞ」
「……はい」
声が震えそうになり、返事だけで精一杯。
底知れない寂しさと、身を削がれるような切なさが溢れそうになる。
魔王様の世界には、やはりわたくしは入ることはできないのだわ。そうよね。所詮、人間のひとりに過ぎないのだもの。
そう思っても、思い切れない。離れたくない。
どうして、魔王様を好きになってしまったの……。
別れがこんなに辛いなんて。
青い空に雲がゆっくりと動いていく。
時は流れていくものなのだ。もうこんな日々は戻ってこないのかもしれない。
魔王様と一緒にいられて、幸せなのに苦しかった。心が温まっても、ひどく疼いて仕方がなかった。いつか終わりが来ることを思いつめて。
ずっとおそばにいたかった。
アルディナは自分の想いに蓋をしようとする。きちんと鍵をかけて。思い出に変えて。
けれど、その前に。
せめて、感謝の気持ちをしっかり表して、魔王様に少しでも覚えていてもらいたいわ。
「この三年、魔王様とご一緒できて、わたくしは本当に幸せでした」
アルディナはゆっくりと言葉を重ねていく。
「ただの馬鹿真面目な令嬢だとキリウス様には言われてきましたが、魔王様には優しいお心遣いをいただき、何とお礼を申し上げてよいか分かりません。魔王様の素晴らしいお仕事を手伝わせていただき、様々な経験を得ることができました。世直し令嬢などと言われたこと、恥ずかしくも嬉しく思いました。それに、こうしてお庭を散歩したり、お茶やお食事をご一緒させてくださり、学園でも水晶球で楽しくお話ができて、素敵な思い出がいっぱいです。魔王様のおそばにいられたこと、心から感謝申し上げます」
夢の時間を終えましょう。
そうしてわたくしは、魔王様との思い出を心に刻んで、生きてまいりましょう……。
一度息をついで、再び語り出す。
「魔王様と過ごせた三年間が大変名残惜しゅうございますが、わたくしは人間にすぎませんので、そろそろお暇……」
「わたしも名残惜しい」
「えっ」
言いかけていた言葉を呑み込んで、アルディナは声を上げた。
魔王は、アルディナを見つめる。赤い瞳のなかに金色の光が揺らめいている。
「この世界に干渉するのは面白いことだが、そなたと共に過ごした三年間は、格別に楽しかった。できれば、ずっとそなたと一緒にいたいものだ」
信じられない言葉だった。ずっと一緒にいたい、とは。
「魔王様……!」
アルディナの呼びかけに、魔王ははっとする。うっかり口を滑らせてしまった、と顔に書いてあるかのような。
アルディナは口を開いた。言葉を探すこともなく。
「わたくしも、魔王様とずっと一緒にいたいです」
「アルディナ……」
熱を隠し切れない彼女の発言に、魔王が名を呼ぶ。
「ひとつ、確認したい」
続いての魔王の言葉に、アルディナは高ぶった気持ちがやや下降する。何か問題があるのではないかと。
魔王は尋ねる。
「例えばわたしが魔王であっても、人間の娘は慕ってくれるものなのだろうか」
「例えば、ですか」
例えなくても、魔王様は魔王様なのに。
「そうだ。魔王のわたしは好かれることがあるのだろうか。例えば、娘の名前がアルディナだったとしたら」
アルディナは一瞬絶句する。
全然例えになっていませんわ。
「例えばって……その名前はわたくしと同じでは」
「ぐ、偶然だ」
「偶然ですか……」
魔王様は初心だと、執事のソムス様がおっしゃってましたわね。
「あの、例えはよく分かりませんが。わたくしは」
思うままに告げる。