第1話 孤立無援の婚約破棄
「アルディナ・フォーゼンハイム公爵令嬢、お前との婚約を破棄する!」
突然、この国の王太子キリウスの声が響き渡った。
王立学園の卒業パーティーでのこと。キリウス王子がこんな宣言をするのを知らなかったのは、当の公爵令嬢ただ一人だけだった。
「今、何とおっしゃったのでしょうか……」
公爵令嬢アルディナは、問いかける自分の声がひどく震えていることに気づいた。
彼女からしたら、全く思いもかけないこと。
しかし、生来の気質からか、すぐに気をとり戻そうとする。
一体何の間違いなのかしら。きちんとお尋ねしなくては。
「あの、今のお言葉は……」
もう一度問い返そうとしたとき、キリウスが声を上げた。
「婚約を破棄すると言っているのだ。お前とて身に覚えがあるだろう」
キリウスは、自慢の金色の巻き毛を振り払い、唇をゆがめて笑う。さらに、隣に立っていた女性の肩を抱き寄せる。
男爵令嬢べリアナだ。
胸もとが大きく開いた、けばけばしいピンク色のドレスに、ごてごてした大ぶりの宝石のネックレス。派手な装いで、先ほどからキリウスのそばにいるのが気になってはいたのだが。
「お前がべリアナにした悪行の数々を余は知っておるのだぞ。態度がよくないからと、べリアナに陰湿ないじめを繰り返したな」
陰湿ないじめ?
全く覚えのないことを言われて、アルディナは気が動転してしまう。
「何をおっしゃっているのかよく分かりません。わたくしは、べリアナ様にいじめなど……」
「とぼけるのはいい加減にしろ」
キリウスは青い瞳で冷たく一瞥すると、言い放つ。
「階段からべリアナを突き落とそうとしたのを目撃した者もいるのだぞ。余がべリアナに心惹かれているのを嫉妬したのだろう。お前がそのような嫌がらせをする人間だとは思わなかった。王妃として相応しくないぞ」
王妃として相応しくない、という言葉に、アルディナはひどく衝撃を受けた。
紫水晶のような瞳が輝きを失いかけて、ゆらめいている。形よい薄紅色の唇が引き結ばれる。
婚約者として今日の日のために誂えた水色のドレスは、ところどころに細かなクリスタルを散りばめたもの。
アルディナは、両手の震えを止めるためにそのドレスの裾をぎゅっと握りしめる。
その刹那、彼女の耳のうちに幼少時の家庭教師の言葉が甦った。
『あなた様は、将来この国の王妃となられるおかた。より完璧な所作、容姿、言動を目指すのですよ』
しっかりしなくては。
アルディナは、キリウス王子の前へ進み出て、凛とした声で告げる。
「恐れながら、申し上げます。わたくしはべリアナ様に、おっしゃるような嫌がらせなどしておりません」
「黙れっ」
王子の威圧するような声に、アルディナはびくりとした。
「その場を見た者もいるのに、まだ言い訳などするのか。嘘偽りまで申すとは罪深いな」
「……」
あまりのことに、言葉を継ぐことができない。
周りを見回すと、みなひそひそと話しているが、アルディナに対する目は冷ややかだ。いつもは公爵令嬢として恭しく接してくる者さえ、蔑むように見つめてくる。
一方で、キリウス王子の取り巻きたちはにやにやしている。濡れ衣を着せ、婚約を破棄することは、まるで事前に知っていたかのようだ。
この人たちなら、『階段から突き落とすところを見た』と、きっと証言するに違いない。
キリウス自身もアルディナの様子を眺めて、満足げにあざ笑っている。
そのとき、甘えるような女性の声がした。
「まあ、キリウス様。そんなに責めてはいけませんわ。わたくし、たいして怪我もしていませんもの。そのくらいにしてあげてはいかがでしょう?」
べリアナの発言に、キリウスは急ににこやかに微笑み、見ているほうが恥ずかしいくらい体を摺り寄せる。
王子はうっとりしながらもアルディナに聞こえるように話す。
「罪深いお前に対して、このべリアナは許すと言っている。何と優しい心の持ち主だろう」
髪をなでられたべリアナは、さらにとろりと甘い声を出す。
「いいえ、キリウス様。わたくし、当然のことをしたまでですの」
「べリアナ。そなたこそ、王妃にふさわしい。余はやっと真実の愛に目覚めた気がする。身分差はあっても本物の愛だ」
アルディナが息を吞む前で、キリウス王子は高らかに宣言する。
「余は、公爵令嬢アルディナとの婚約を破棄し、今この時をもって男爵令嬢べリアナを新たな婚約者とする」
途端に、周りの者が手を叩きだす。増えていく拍手のなかで、アルディナだけが呆然としている。
これはやはり、仕組まれていたことなのだわ。
アルディナは確信すると、思い切って声を上げた。
「お待ちください」
拍手が鳴りやんだ。王子と取り巻きが訝しげな顔をして彼女を見つめる。
「あの……」
人々を静めたものの、氷のような視線を受け、アルディナはためらう。
こうなった今、どうしても訊いておきたいと思うことがあるのだけれど。
「どうした。まだ文句を言うつもりか。お前はいつも余のすることにあれこれと難癖をつけおったな」
「それは……」
「お前の馬鹿真面目な言動には本当に呆れていたのだ。やれ目立ちすぎだの、もっと倹約しろだの、ちっぽけな国の王子にまで挨拶に行けだの、うるさくてしょうがなかったぞ。少しは黙って粛々と従う従順さはないのか」
王子のまくしたてる言葉に、アルディナは俯いてしまう。
確かに、自分のことをキリウスをはじめとする人々が「生真面目令嬢」と揶揄しているのは知っていた。
それでもドレスを握りしめる冷たい手に力を込め、アルディナは言葉を発しようとする。
「あの……」
「お前はもう余の婚約者でも何でもないのだぞ。態度を改めて発言せよ」
アルディナの心は濁流に吞まれたように翻弄される。だが、すぐにぐっとせき止めた。彼女は長くつややかな銀色の髪を整える。
淑女の礼をとる。誰からも美しくたおやかに見えるように。
彼女は問いかけた。
「ひとつだけお尋ねすることをお許しください、キリウス殿下。わたくしのことは、愛していなかったのでしょうか」
キリウスは、一瞬だけ呆けた顔をしたかのように見えた。しかし、すぐに元のにやにやとした表情に戻る。
「ふん、うぬぼれるな。一度たりともお前など、愛することはない」
キリウスの放った言葉は、アルディナの心をナイフの切っ先のように鋭く傷つける。
耐え切れず、彼女はその場に頽れたのだった。
第1話をお読みくださって、ありがとうございました。