遥か愛しき、禍つ夢
久しぶりに、その夢を見た。
一言で言ってしまえば悪夢の類だが、既に数え切れないほど見飽きた夢だったので、今さら慄く事もない。何一つ共感できない演劇でも眺めるみたいにどこまでもどこまでも、冷たく心が冷えていくだけ。
全くなんてことはない。
ただ足首まで浸かる血の海を、ただひたすらに歩み続けていくだけだ。
強いて言うのであれば、ちょっと周りを見渡せば『――』共の死骸が散らばっているのが、少し不快ではある。
ああ……中には人間の肉片も飛び散っているが、原型を留めていなさ過ぎて、体のどの部位かも判然としない。
手の指か、足の指か。腕なのか、脚なのか。
舌なのか唇なのか。骨なのか歯なのか眼球なのか。
顔なのか内臓なのか肝臓なのか脊髄なのか心臓なのか脳なのか――――――
そんな光景に囲まれた地獄を、何の意味もなくただただ進んでいくだけの、そんな夢だ。
夢だというのに、血溜まりの放つドス黒さや、ヌルリとした生暖かい粘液が足首に絡みつく感触だけはイヤになるくらいに鮮明で、そればかりはいつも吐き気を催す錯覚に襲われる。
しかしそれは、あくまでも錯覚に過ぎない。
夢中の時間感覚だが、数分も耐えていれば嘘の様に綺麗さっぱりなくなって消える。まさに、夢のごとく。
だからいつもの様に堪え、いつもの様にまた歩み始める。
そんな事を、十回だか二十回だかと繰り返していると……
突然、場面が切り換わる。
今度は打って変わって穏やかな、草木や川に囲まれた大自然が眼前に広がった。ここには辺り一面の血の池も、醜悪な残骸も、吐き気を催す悪臭も存在しない。
だがしかし、この場所こそが己にとって最悪の、最も生を狂わせた場所だ。先の血の池地獄よりも、さらに思い出したくない記憶がここにはある。
……ふと、誰かに呼び掛けられた。
夢の中の自分は、迷わずに振り向こうとする。
最初の頃は止めようとした事もあったが、無駄と悟った今となってはどうするつもりもない。
それに、本音を言えば。
この悪夢の中にあっても、この瞬間だけは、心が喜びに跳ねるのを禁じ得ない。
たとえこの後、何が待ち受けているのか分かっていても……
『彼女』に会えるのは、ここだけなのだから――
☆ ☆ ☆
「――――はいはいはいはい起きるです起きるです!! ぼけぼけ寝ぼすけなお前の為に、このクロちゃん様自ら叩き起こしに来てやったですよ! むせび泣いて感激するがよろしいです! あと実は先にマーシャに頼んだけどにべもなく断られちゃったのはナイショです!」
シキが目を覚ますのと同時に、アホがドスドスと足音を響かせてやって来た。
そのアホは自らが経営している宿のドアを蹴破り、人の寝室へと飛び込んでくる。
「さあさあとっとと起きやがれです! この宿にいる間、朝食の時間だけは絶対厳守だと昨日ちゃーんと説明したです! マーシャも額に青筋浮かべて待ってるですよ!」
枕元までやってきては、パンパンと手を鳴らして捲し立てるアホが、クロという名の狐少女だった事を思い出す。
そしてそのついでに。
もう一つ思い出した事があった。
「あー……忘れてたぁ」
仰向けのまま、手のひらで顔を覆ってしまう。
クロは腰に両手を当てて、呆れた。
「はあ? 朝食の時間を忘れてたですか? アホですね!」
「お前にアホ呼ばわりされたら人生終わりだよ……ちげーっつの」
上体を起こし、ジロッと恨めしげな視線を向けると、クロはビクリと体を震わせ、獣らしく「キシャー!」っと威嚇の体勢を取る。
「な、なんですか!? 宿の主たるこのボクに歯向かうですか!? 宿泊料上げるですよ!!? 昨日微妙に足りない分を、マーシャに頭下げて借りてたの知ってるですからねっ!!」
「あー違う違う。久しぶりだったんで、ちょっと忘れてただけだ」
「? 朝食でなければ、何を忘れていたです?」
「別に、大した事じゃねーよ。ただな……」
キョトンとして問うてくるクロに、シキはつまらなさそうに頬杖を突いた。
「オレって枕が変わると、夢見悪くなるんだわ――ってな」
☆ ☆ ☆
「遅い」
一階にある食堂に到着するやいなや、そんな一言と同時に、顔面目掛けて火球が飛んできた。
あくび混じりに片手で打ち払うと、射手はチッ! と思い切り舌を打った。
「初級魔法とはいえ、この私の魔法をそんな簡単に捌くなんて……やっぱり昨日のアレは、まぐれじゃないみたいね」
「そういうのを顔面ファイア・ボールで確認すんのやめてくんない? オレでなきゃ死んじゃうよ」
「クロも死ななかったわよ。ふっ飛ばされて壁にめり込んでたけど」
「訂正するわ。オレかアホじゃなきゃ死ぬ」
言いながら、四人掛けに丸テーブル向かい合う形で席に着くと、必然的に相手の事が良く観察できた。
透き通りそうなほど白い肌に、燃え盛る炎の様に真っ赤な髪と瞳がよく映えている。
一見すらっとした細見の体躯ながらその実、肉体はしっかりと鍛えられており、こうして近くで見ていると、強気な眼光も相まって決して華奢な雰囲気は感じられない。
――ちょっと気性の荒い、炎の妖精。
そんな風に表現しても過言でない美少女の名前は、マーシャと言った。
「ちょっと、どうして当然の様に向かいに座ってくんのよ。まるで私とアンタが仲間みたいじゃない。他のとこ行きなさいよ」
「そうはいかない。オレはどうしてもお前に、聞きたい事があるんでな。どうしても、だ」
シキの視線が、すぅ、と鋭くなる。応じてマーシャの目の端も釣り上がった。
しばらく睨み合ったのち、赤い少女は気を鎮める様に鼻を鳴らした。
「……ふん、まあいいわ。私もアンタに聞きたい事があるしね。特別に付き合ってあげる」
「そうこなくっちゃな」
マーシャの承諾を得た事で、シキは破顔する。
そこに……
「やあやあやあやあ! 全員揃った様ですね! これでやぁっっっと朝食を並べられるです!」
アホっぽい声が、食堂中に響き渡った。