固執
夏のホラー2020「18作品目」くらい
六月六日月曜日。
満員電車。少しの間隙もない車内。むせるような人いきれにため息を吐くと、向かいの扉から新たな乗客がどっと押し寄せ、とうとう指一本動かせない。
頭と頭の間から、私を見つめる男に気づく。もちろん首すら動かすことは叶わない。
男は数メートル隔てた所にいる。彼もまた動けないことは明らかだ。偶然首の角度が固まって、こちらを向いているだけだろう。
六月七日火曜日、雨。
誰かの傘が制服のスカートを濡らす。空調は故障してしまったのだろうか、或いは百パーセントを越える乗車率には対応できないのかも知れない。
幸いにも昨日とは異なり、私は乗降扉のそばにいた。壁と手摺に背中を預けてしまえば楽になる。
停車の度に奥へ押し込まれることもない。
突然電車が大きく揺れた。
よろめいた私が顔を上げると、そこには男の顔があった。浅黒い肌の男だ。切れ長の瞳には、私の姿が映し出されている。
背筋に冷たい汗が流れた。
勘違いじゃない。彼は意図的に私を観察している。
気味が悪くなり、目を閉じることで男の眼差しを振り払った。
六月八日にも男は変わらず同じ車両に乗ってきた。
当たり前のようにこちらをねぶる視線に、私は逃げ出したい衝動にかられた。
確か先月から、痴漢に対する注意換気がなされていた。
浅黒い肌、切れ長の目、尖った口髭。
男のくたびれたシャツからは、獣の臭いが漂っているに違いない。
車両を変えると気分が落ち着いた。
列車が止まり、乗客がなだれこむ。
その中にミヨちゃんと、ミノリちゃんたちのグループがあつた。
「おはよう、みんな」
彼女たちはお喋りに夢中で挨拶に気づいていない。
車内は混雑していた。仕方のないことだ。
会話に混ざりたくとも、人波を掻き分けていくことは難しく、諦めることにした。
六月九日木曜日。
今日は二人だけのようだ。
「昨日からなんだかミヨ、体だるいんだよねえ」
「そうなんだ、どこ?」
私は心配になってミヨちゃんの肩に手を添える。
彼女たちはソフトボールをしていて、ミヨちゃんは捕手だ。
「分かるう、ミノリもそうだよ」
「ミヨちゃんもミノリちゃんも部活頑張ってるもんね」
二人は疲れた様子で互いの肩をさすっている。
「そういえばさ、ミノリ凄い噂聞いちゃった」
「えー何々?気になるう」
ミヨちゃんが身を乗り出す。私も息を飲んで耳を傾ける。
「この電車にさ、例の痴漢のやつ、出るらしいよ」
「その男なら隣の車両にいつも乗ってくるよ。私、ここ数日ずっと会ってるもの」
「えーまじ?やだ、ミヨ怖くなっちゃった」
「いつの間にか背後にいて、目が合うと殺されるんだって」
「ちょっとやめてよミノリ。こんな話してて本当に来たらどうするのよ」
嫌がるミヨちゃんの頬がひきつっている。私も「目が合うと殺される」という台詞に怖じ気づいてしまった。
ミノリちゃんを乗せた電車が去った後、私とミヨちゃんはホームを歩いていた。
「全く、ミノリめ、変な噂で怖がらせるんだから」
ミヨちゃんは煩わしそうに呟いた。
「本当に噂なのかな、もしかして振り向いたらそこに」
冗談のつもりで振り向いた私の後ろには、浅黒い肌の男が立っていた。車両一つ分は離れているものの、こちらを見ていることは間違いない。
「ねえ、どうしよう。痴漢男がいる」
慌てた私がミヨちゃんの肩を揺する。しかしミヨちゃんはあっけらかんとして、
「うわあ、外に出たら寒くなってきた。トイレ行こう」
ゆったりとした歩調でトイレへ向かう。
「駄目だよ!逃げなきゃ、ついてくるよ」
どんなに私が説得しても、ミヨちゃんは断固たる姿勢を曲げず、階段の角のトイレへ駆け込んだ。
ミヨちゃんが用を済ませる間、私は気が気ではなかった。
ようやく手を洗いに出てきたミヨちゃんに話し掛けようと近づいたとき、鑑越しに男の姿が現れた。
「いやあっ、私たち殺されるんだわ!誰か助けて」
私はありったけの悲鳴を振り絞った。
ミヨちゃんも逼迫した状況にやっと気がついたのか、開いたままの口が塞がらない。
「あ、あ、あんた。死んだはずじゃ」
目をかっと見開いたミヨちゃんが私から遠ざかる。
「え?」
わなわなと震えるミヨちゃんの黒目を覗きこむと、首に青い痣が深く刻まれた女の子が佇んでいた。
髪は所々抜け落ちている。それはまるで強引にちぎられたように、頭皮はまだらに、そして途中で切れてしまった毛髪もあった。
「これは、私なの?」
ふいに頭やお腹に痛みが駆け巡り、
「っ痛ッ!」
私はその場に蹲った。
脳裏におびただしい映像がフラッシュバックする。
あの日電車を降りた私は、ミヨちゃんと別れて、トイレに行った。個室に入り、鍵を閉めたとき、上から男が振ってきた。
痛み。真っ赤に染まる視界。破れた制服。
それ以外に覚えていないのはきっと、あっという間に首を絞められてしまったから。
全てを悟った私の頬に涙が流れる。
なるほど道理で二人の会話に疎外感を否めなかったわけだ。
「大丈夫、私は殺したりなんかしないよ」
六月十日金曜日。
またあの男が乗っている。切れ長の目には私が映っている。止まってしまった私の時間は、あの日を繰り返し続けている。浅黒い肌の男の執着心は、死を以てしても解き放つことはできないのだろうか。
青春も体も奪われた私はあと何を失えば救われるの。(了)
「私」の台詞がなくても木曜日の二人の会話は成り立ちます。
もっと上手く書きたかったから、また次回別な作品でやってみます。