純文学とは世界の記述の開放性に焦点を当てた作品群である!
純文学についての持論です! 私、これでも一生懸命考えました! 是非見ていってください!
<アブストラクト>
純文学とは、全ての情報を作品の中に組み込むことはできないという性質を利用することによって、読者が作者とは独立に組み込まれていない部分を想像し、作品に対して解釈したり、イメージを形成したりすることを認められた作品である。このとき、その想像を独立に行うことができる点で作者と読者が対等になれる特徴を持っている。
純文学。堅苦しいイメージありますよね? 「純文学ってなんだ?」って問いなんですけれども、これ、やっぱり定義が難しいんですよ。「小説家になろう」に限った話じゃなくって、文学の愛好家たちの間でも純文学とそれ以外との境界線が不明瞭って指摘、耳に入るんですよね。それくらい曖昧な純文学、全く定義できないのかって話なんですけれども、最近なんとなく見えてきたものがあるので、持論を述べてみようと思います。
まぁ、結論はタイトルそのまんまなんですけどね(笑)
※ ※ ※
純文学とは何か? と聞かれたら私はこう考えます。
「世界の記述の開放性に焦点を当てた作品群である!」
と。これだけ聞いて 分かった! って言う人いたらすごいと思います! いやぁ、文学意識高い系的な主張ですもんね(笑) 多分訳わかめなのは明らかに 世界の記述の開放性 って言葉でしょうね。何言うとんねんって。これ多分私の造語(笑)
この言葉の意味を説明するためにまずは 世界の記述可能性 という概念について説明したいと思います。世界の記述可能性を踏まえたうえで、 「記述の開放性」 という概念を説明したいと思います。
※ 世界の記述可能性とは?
これ、ネットで調べましたところ、一応アカデミックな用語としてもつかわれているみたいですが、今回はそういうのを引用する形ではなくって、自分の頭の中で自己完結したことをダラダラと定義します(笑)
世界の記述可能性 とは文字通り 「世界はどこまで記述可能なのか?」 というのを意味しています。ここで言う「世界」とは現実世界でもいいですし、異世界でもいいですし、異世界転生であれば、現実世界と異世界とその通路(?)の全体ともいえまして、物理的客観的な世界とか精神的空想的な世界とかまぁ、語弊を恐れずいうなら「世界観」と読んでもいいような類のものです。
例えば、私が最寄りのコンビニに出かける状況を考えてみましょう。この状況を文章で説明しようとした場合、
「私は近所のコンビニへと買い物に出かけた。」
ってだけでも充分ですよね? これだけでも伝わる。「私という人が、近所にあるコンビニへ、買い物を目的として外を出かけた」というイメージがその中に含まれてますよね? はい。でも、これもう少し細かく表現できそうにありません? 例えばですね、近所といっても「どの場所からの近所?」というのがあるんです。「家の近所」と安易に言っていいのでしょうか? もしかしたら「私」という人物は会社にいるかもしれない、学校にいるかもしれない、旅行先に居るのかもしれない、と色々と可能性があるわけですよね? それを含めると次のように書き加えることができます。旅行先に居ることを前提にしましょう。
「日光に出かけている私は、近所のコンビニへと買い物に出かけた。」
これ、まだ書き加えられる気がしません? 確かに「私」がどこにいるのかは分かりました。けれども「日光」って地名ではありますけれども、具体的に細かい場所まではまだ言えてないわけですよね? 日光の旅館とかホテル? それとも東照宮? あるいは駅? それも含めて書けるはず。他にも「近所のコンビニ」って書いてあるけれども、どのグループ会社のコンビニ? とか 店名は? とかあるわけですよね。あと「買い物」ってさらって書いてますけれども、何を買いに行ったの? って言うのも書けるはずですよね?
「日光に出かけている私は、今いる○○ホテルから近所にある××コンビニの▲▲店にお酒を買いに出かけた。」
こんな感じで記述をつけ足せます。ただ本当は実はこれでもまだ不十分。厄介なのは、物理的距離空間なんですよ。まず、「○○ホテル」とありますけれども、まぁ理論上は地球上の座標で場所を表現することはできますよね? 理論上はですけど。さらに、「○○ホテルから近所にある××コンビニの▲▲店」までの経路ってありますよね? これ、座標平面上の関数式のように経路を数式化しようと思えばできなくはないですよね? まぁ、きれいな式が出てくるかどうかは分かりませんが。 そんな感じで地球上の物理空間で表現しようと思えば表現できるわけです。でも、その地球も自転して太陽の周りを公転して、じゃあその太陽も動いてるよね? で、太陽系が所属する銀河系も動いてるよね? 銀河系が属する宇宙空間も膨張してるよね? って感じで、無限に記述できることがごまんと増えてくるわけです。
「宇宙空間上の座標 X において、日光に出かけている私は、今いる○○ホテルから近所にある××コンビニの▲▲店に関数Y の経路でお酒を買いに出かけた。」
まぁ、これ、人間とは完全に客観的に独立した「神様の言語」みたいなのがあれば、記述できそうだとは言えそうですけれども、日常言語だとどうよ? ってなるわけです。で、この例でのスタートダッシュは「私は近所のコンビニへと買い物に出かけた。」という部分だけですけれども、「私」だけに注目したとしても、時系列的な問題もあるわけですよね? 生まれてから死ぬまでの動きとか。あと私以外にも人は居るし、動物とか植物だってそれぞれの生死の過程があるわけですし、さらには生物ですらない無機質な存在の動きとかあるわけですよね? ある特定の原子の動きとか。あとは別の惑星とか銀河系とかの話も含めて。
こんな諸々を同時並行に日常言語で記述できるか? って言ったら、まぁ、一般的な感性だと無理なわけです。(ちなみに、こういったものを全て記述された資料のことをオカルト業界では アカシックレコード って呼んでるんだと解釈しています。その時の記述はどうしても「神様の言語」みたいなものになるだろうなぁとは思いますが)
※ 作品として必要な記述、不必要な記述
こうしたとき、日常言語で記述できる範囲って思いっきり狭められるんですよね。
で、この話を前提に置いたとき、小説とかの作品って、どこまで記述を詳細に書くかっていう問題が出てきます。物語に直接関係ある話だった場合、「私は近所のコンビニへと買い物に出かけた。」という文脈は作中に埋め込む必要があります。例えば、推理小説とかで作中に「私」のアリバイを示す伏線にしている場合とか。他方で、日光に旅行に出かけた話それ自体を作中に入れない場合は、「私は近所のコンビニへと買い物に出かけた。」という一文丸ごとカットされるわけです。
いってしまえば作品として必要な記述と不必要な記述って言うのがまぁあるわけですよね? 作品の流れの中に必要な文脈だけを挿入し、作品の流れでは蛇足・邪魔になるものは削除して文章の全体像を描くわけです。
※ 記述の開放性・閉鎖性 (造語です)
で、作品の中で、表現された記述って言うのは、恐らく二つの性質のうちのどちらかに属するんだと思います。その二つというのは、
開放的であるか? と 閉鎖的であるか?
です。記述が開放的かどうかって言うのはこれだけ聞いてもわけわからないですよね? まぁ、無理やり作った造語だからそうなってしまうのも致し方ないです。と言うことで、より細かく説明します。
とはいってもそれほど難しくないんですけどね? ある意味書き手と読み手の関係なんですよ。
書き手と読み手がそれぞれ思い描くその作品のイメージが開放的であるか閉鎖的であるか
を表しています。
「書き手と読み手がそれぞれ思い描くその作品のイメージが開放的である」
という場合には、作品の記述から拾ったイメージについて、書き手は書き手で作品のイメージがあって、読み手は読み手で作品のイメージがあって、そのイメージの大幅な乖離が許される場合を 「開放的」 と読んでいます。
対照的に、
「書き手と読み手がそれぞれ思い描くその作品のイメージが閉鎖的である」
という場合には反対で、書き手と読み手がそれぞれ抱くイメージの乖離は小さくする必要があります。
大雑把に言えば、前者は自由な解釈を認め、後者は自由な解釈を認めないといえますでしょうか? 或いは、前者は解釈にエネルギーを注ぐ必要があり、後者は解釈にエネルギーを注ぐ必要はない、っていう方法もあると思います。
※ 記述が閉鎖性:大衆文学
後者の代表的な例は王道的な推理小説ですね。基本的には、事件が起きて、探偵役が推理して、犯人役を言い当てる、という流れですが、ここで探偵役が犯人役をなぜ特定できたのかについては、推理場面の記述ですべて書かれてありますよね? 読者はそのすべてを知ってから読了する訳です。「実は探偵はノリと勢いだけで推理したんじゃないか?」とか「こうしていれば犯人は逃げ切れたのに」とかは解釈するのは勝手ですけれども、読み方としては蛇足になるわけです。
もちろん 推理ものでも「解釈の余地」を残した作品はあります。それでも、むやみやたらと解釈していい部分と解釈しちゃいけない部分って言うのは分かれるわけですよ。例えば殺人事件について、「殺人は推奨すべきだ」っていう解釈を推理もので拾えるか、って言ったら、さすがにストップがかかるわけですよね? 推理ものは基本的に、どんな理由があっても犯罪はよくないのスタンスですから。そういった意味では、自由な解釈を認められていなくって、読者は作者のイメージに合わせて読む必要がある。
まぁ、ここではイメージの乖離が小さいという言い方をしていますが、これって作者と読者の関係について次のように考えることもできるんです。
「作者は読者がイメージしやすいように文章を表現し、読者は表現された文章をそのままイメージする」
これ、芸術性よりも娯楽性に重きを置く なんてよく言われる 大衆文学 によくある特徴だと思いません? 娯楽を重視した場合は、解釈なんて作業することなしに、読むことだって可能なんですよ。
ライトノベルとかだって、世界観の解釈をしようと思えばできますけれども、他方で、そういうのに一切かかわらず、ただただ物語の展開だけを追いかける読み方だってできるわけですよね。そこには、解釈という作業を挟まなくっても文章の理解を阻害されないという特徴があるわけです。また、そう言った解釈が行われる場合でも、最後には推理小説のように、最終章で解釈の答えを書き手が渡してくれるに違いないって言う期待がありません? ある意味そう言った期待があるからこそ、解釈祭りみたいなのが出てくると思うのです。
つまり、大衆文学 (ラノベとかなろう系も含めて) を次のようにいえると思います。
「大衆文学とは世界の記述の閉鎖性を利用した作品群である!」
「作者は読者がイメージしやすいように文章を表現し、読者は表現された文章をそのままイメージする」ことができる特徴を利用して、娯楽を楽しめるように文章が組み立てられているのが大衆文学といえるわけです。
大衆文学の場合は、記述されている内容だけでイメージが完結しており、それ以上追加でイメージを膨らませる必要はないともいえるでしょう。
※ 記述の開放性:純文学
その逆、つまり、 世界の記述の開放性 に焦点を当てているのが純文学といえます。
大衆文学の場合、記述されている内容だけでイメージを完結させることはできますが、純文学の場合、そう言ったことができないことありません? 字面をそのまま読んでもよく分からない部分が残ったりとか。実はそれ、世界の記述の不可能性や記述の不必要性を逆手に取っているんです。
純文学では全ての描写を描けるわけではないと言うことを前提にし、読者に意識させている節があります。記述されている部分だけではイメージを浮かべるには不十分な部分が存在し、読者は行間を読むなどの方法で補ったり、イメージを膨らませる必要がでてきます。そうしたとき、読者は「記述されていない部分」に無理やり目を向けさせられ、それを補わなくては作品の全体像をイメージすることができない。そうしたとき、書き手は書き手で構築した作品の世界観とか物語展開に自分自身で解釈を持っていながら、書き手とは独立に、読み手は読み手で、世界観とか物語展開に自分自身で解釈を当てはめるのです。
読み手の解釈が独立に行えるという意味で、開放的といえると思います。そうした開放的という部分があるから、文学作品の中であるあるなのが、現代文の入試問題とかで、作者の解釈と出題者の解釈が全く違う ってこと。あれ、純文学独特の特徴だと思うのです。
同人誌みたいに 同じ作品をベースに 同人作家好みの設定を切り取り切り取りをして、異なる解釈が行われる、というのとはわけが違います。 同じ作品の中で同じ作品の土俵の上で出ている設定全てを頭に叩き込みながら、その文脈の上から異なる解釈が出てしまっているのです。
※ 作者と読者の対等性のベクトルの違い
純文学にしても大衆文学にしてもそこにはある種の作者と読者との対等性が浮かび上がります。
大衆文学の場合、作者が描く記述はその記述の中で完結しており、描かれていない描写を無視することで、読者は作者と共に完結された記述を同じように共有できることを想定しているという点で二者は対等です。
純文学の場合、作者が描く記述はその記述の中で完結していません。読者は記述には反映されていない部分、いわゆる行間も読むことによって作品の全体像を補わなくてはなりません。記述されていない部分を自由に解釈したり想像したりすることができるという点で、作者と読者は対等だといえます。
※ 記述の開放性を芸術的と呼んでいる
さて、純文学の定義というか説明について、娯楽性よりも芸術性って言い方している場合あるじゃないですか? あれのいわんとしていることって何かというと、記述が開放的であると言うことなんですね。描かれていることについてすべてを語っているわけではなく、受け取り手が自由に解釈する、或いはしなくてはならない状況にあるということ。
絵画とか古典的な音楽なんかまさにそうですよね? 視覚情報として、聴覚情報として、作品を楽しんでいるわけですけれども、目に映るものがすべてではないですし、耳に入ってくるものがすべてではないわけですよね? 絵画の場合だと、その絵が描かれたバックグラウンドは何かみたいな謎があるわけです。『モナリザ』なんかが分かりやすい例じゃないですかね? 音楽だと、音の情報を経由しておきながら、それ以外のイメージを聞き手は描く必要がありますよね? ベートーヴェン交響曲第九番だったら喜びを、ドヴォルザーク交響曲第九番だったら、アメリカの開拓をイメージする訳です。これらのイメージって、あの和音の羅列を聞かされるだけではできないですよね? どこかで補足情報として持って初めてイメージできる。
受け取り手にそういう情報を模索する努力を強いている部分がこういった芸術作品にあるわけです。それが小説、特に純文学なんかは顕著に表れていて、その部分を芸術的って呼んでるんですよね。
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まぁ、まとめますと、純文学って言うのは、全ての情報を作品の中に組み込むことはできないという性質を利用することによって、読者が作者とは独立に組み込まれていない部分を想像することによって作品に対する解釈したり、イメージを形成したりすることを認められた作品であり、独立にそれを行うことができる点で作者と読者が対等になれる特徴を持った作品である、といえると思います。
もちろん、大衆文学も全ての情報を作品の中に組み込むことはできないという性質を利用することがあります。この点は比重の置き方ですね。だから、純文学と大衆文学の境界線があいまいに感じるんことがあるんだと思います。
それでも、字面に基づいてイメージしたことがほぼ作者と乖離しないことが確約されている限りは、それは大衆文学で、字面に基づいてイメージしようとしたとき、そのイメージの仕方が自然と作者と異なってしまう場合があるときは純文学といっていいんじゃないかなぁって思いますね。
以上が持論になりまーす! まぁ、突っ込みとかいっぱいありそうだけど(笑)
コメント、意見、どしどし送ってくださーい! 返せる範囲で返します!
もう少しコンパクトにまとめられたら簡約版を作ってみます!