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ヒトラーの行った経済復興政策

 武田知弘『ヒトラーの経済政策』(祥伝社新書151)より、ヒトラー率いるナチ党の行った経済政策についてのまとめ。

 ナチ党の行った「アウトバーン」などの当時の公共事業政策と、現代日本の公共事業政策の違いについての説明。

● ハイパーインフレと世界恐慌からの建て直し


 1929年10月24日。この日、ニューヨーク・ウォール街の証券取引所から発生した「世界大恐慌」は、あっという間に世界中に波及した。

そしてこの未曾有の経済危機で、もっとも大きな被害を受けたのがドイツだった。


 当時のドイツは、第一次世界大戦の敗戦で各国から巨額の賠償金を請求され、最大の工業地帯ルールをフランスに占領されたり、通貨の膨張によるハイパーインフレなどで、経済は極度に麻痺していた。

 経済基盤の弱かったドイツはたちまち大混乱に陥り、やがて、大不況に突入した。

国民総生産は35%も減少し、失業者が激増、1923年には約560万人に達した。実に労働者の三人に一人が失業していた。



● ヒトラーがドイツの経済不況を克服


 そのときに登場したのがヒトラーで、ヒトラーは大不況のさなかの1933年1月に政権の座につくと、その3年後には、失業者を160万人にまで減少させ、世界恐慌以前の1928年の状態にまでドイツ経済を回復させた。

 これは世界恐慌で大きな被害を受けた国のなかでもっとも早い回復だった。例えばアメリカが世界恐慌のダメージから完全に立ち直れたのは1941年のことだった。


※ 世界恐慌から10年後の1938年時点の各国の失業者数

 ・イギリス135万人(最大時300万人)

 ・アメリカ783万人(最大時1200万人)

 ・ドイツ43万人(最大時600万人)

 ・日本27万人(最大時300万人)


 世界恐慌の発生以来、世界の列強はその対策のため、貿易を閉ざし、自国と自国が支配する植民地のみで交易をする「ブロック経済化」を進めた。

アメリカの「ドル・ブロック」、イギリスの「スターリング・ブロック」、日本も満州へと進出し、独自の円ブロックを形成しようとしたりした。

 しかし、当時のドイツは植民地を持ってはおらず、領土侵攻もできなかった。

だがそのような状況のなか、ヒトラーは、国内政策だけで素早く景気を回復させることに成功したのだった。



● ドイツを蘇らせたナチスの「第一次4ヵ年計画」


 ヒトラーは政権を取った2日後の1933年2月1日、新しい経済計画『第一次4ヵ年計画』を発表する。

 この『第一次4ヵ年計画』は、以下の内容で構成されていた。


・公共事業によって失業問題を解消

・価格統制をしてインフレを抑制

・疲弊した農民、中小の手工業者を救済

・ユダヤ人や戦争利得者の利益を国民に分配

・ドイツの経済界を再編成 



● 軍備よりも失業問題の解決を優先


 ナチスというと軍事国家という印象が強く、

「ヒトラーは政権を取るや否や莫大な予算を使ってドイツを再軍備した。だから失業も減ったのだ」と思われてきた。

しかし実際は、ナチスの初期のころは意外なほどに軍事費が少なかった。

 では、ナチスは最初のころ何にお金を使っていたのか?

ナチスでは、アウトバーンなどの公共事業や、国民の福祉増進に使っていたのだった。

ナチスは労働者の福利厚生に手厚い支援をしていて、ナチス・ドイツは当時の世界でもっとも充実した福利厚生制度をもっていた。

 ナチスが国民のために支出した費用(軍事費以外の支出)は、1935年で一人当たり210マルク。ナチス政権前の1932年は185マルクなので、ナチス政権のほうが国民の福祉に使ったお金は大きいということになる。

 ナチスというのは『国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)』という党の正式名称が示すとおり、そもそもは労働者のための党であり、大衆政党を目指していた。そのため先ずはドイツ社会最大の問題である失業にその全力を傾けたのだった。



● 「アウトバーン」の奇跡


 ヒトラーがどうやって失業を減らしたのかというと、高速道路アウトバーンをはじめとする公共事業によってである。

 アウトバーンの計画自体は、ヒトラー以前にもあった。

1921年にはベルリンとバンセーを結ぶ高速道路「アーヴス」が作られ、また失業者救済のための公共事業が計画されたのはブリュニング内閣のとき。

しかしヒトラーの功績は、これらを「開始したこと」ではなく、これらの公共事業を「かつてない規模」で行ったということだった。

 ヒトラー以前の公共事業は、総額で3億2千万マルクに過ぎなかった。だから景気に及ぼす影響は微々たるものだった。

しかしヒトラーは初年度から20億マルクの予算を計上した。この思い切りこそが、ドイツ経済復興の最大の要因となった。



● どうやって莫大な資金を捻出したのか?


 アウトバーンをはじめとするナチスの公共事業計画は、最初の年だけで20億マルクが計上された。それまでの公共事業費の数倍をたった一年で消費してしまう額だった。

 しかしそれには金がいる。

ヒトラーは資金捻出のために、世界的に有名な金融家のシャハト博士を掻き口説いた。ドイツ帝国銀行の総裁、経済大臣の重要ポストに非ナチス党員であるシャハト博士を就かせた。

シャハトは、第一次世界大戦後のハイパーインフレを収束させた伝説の人である。

 シャハトは、国債を発行し16億マルクの資金を捻出し、前期に追加計上された公共事業費の未消化分6億マルクと合わせて22億マルクを作った。

もちろんシャハトは、インフレが起きないように緻密な計算をした。

 シャハトはドイツ帝国銀行の総裁に任命されると、現段階のドイツ経済を検証し、どの程度なら国債を発行してもインフレが起きないかを計った。そして16億マルクという数字をはじき出した。

そしてこの16億マルクが、ドイツを救うこととなった。



● なぜナチスの公共事業は絶大な効果があったのか?


 アウトバーンは失業対策として様々な工夫が凝らされていた。

建設費のうち46%が労働者の賃金に充てられていた。これは驚異的な数字だった。

 たとえば日本では今でも失業対策(景気浮遊策)として、高速道路の建設が進められているが、ゼネコンなどの企業や地主に払われる金が非常に大きく、労働者に支払われる賃金は微々たるものでしかない。

 アウトバーンの建設では、まず労働者の賃金から決められ逆算して予算が組まれた。またナチスの作った労働戦線という組合が企業を監視していたため、労働者のピンハネをすることは許されなかった。

 また公共事業で買収する土地は、その公共事業計画が決定したときの値段を基準にされることになっていた。そのために、公共事業が決定したとたんに地価が上がり、不動産屋が一儲けするということができなくなった。


 「公共事業を行って景気を刺激する」ということは、ナチス以外の国々でも行われてきている。

アメリカの「ニューディール政策

や、バブル以降の日本でもよく行われている。しかし、いまだかつてナチスのような絶大な効果を挙げた例はない。

 90年代に日本で行われた公共事業の規模は500兆円。国の歳出の6、7年分にあたる。

ナチスはアウトバーン建設の最初の年でも、投入された金は歳出の30%程度なので、支出規模だけでいうならば、日本の90年代の公共事業のほうがはるかに大きい。

しかし、日本ではそれほど景気への効果は表れていない。


 ナチスの公共事業は、その支出の多くが労働者に振り分けられるようにされていた。建設費の46%

までが労働者の賃金になっている。

 公共投資においては、投資した金が、貯金に回される額が少なければ少ないほど、景気への効果は高い。

その消費がまた景気の効果を生み出すのだ。

経済学でいうところの「乗数効果」が得られるということ。

 実際、ナチスの公共事業が始まってから、衣料品などの需要が増えた。失業者が今まで買い控えていた服を買えるようになったため、衣料業界の景気がよくなったのだった。衣料業界の景気がよくなれば、それがまた別の業界の景気拡大効果をもたらす。そのようにして産業全体に景気の波及効果があったわけである。


 一方、日本の公共事業の場合、地主や大手ゼネコンに支払われる金が大きい。

建設費は、大手ゼネコンから中堅業者、零細業者という具合にピラミッド式にお金が流れていくようになっているため、労働者の取り分は非常に少ない。

 つまり日本の公共事業では、投資したお金は地主や大手ゼネコンの蓄財に回るので、あまり消費拡大にはつながらない。

その結果、景気への波及効果がほとんどなくなってしまうのだ。 


 ナチスの公共事業は、適切な事業内容が選択されていた。

アウトバーンは、ドイツの産業が活性化するのに大変役に立って、自動車の販売台数も、アウトバーンの建設と呼応する形でうなぎ登りに伸びている。

つまりアウトバーンは、ドイツ経済にとってもっとも必要なものが、もっとも必要な時期に作られたということなのだ。

 一方、日本の公共事業の場合は、アウトバーンと同じ「道路」が中心ではあるが、全国の交通網はひととおり整備されており、ことさらに必要がない道路ばかりが建設された。だから産業の活性化につながらなかった。


 そして、ナチスの公共事業は、一定の時期に集中的に行われていた。

ナチスは不況がもっとも酷かった1933年に、莫大な予算を集中して投入した。

その結果、ドイツ経済自体の潜在能力を素早く引き出すことに成功した。

公共事業を開始して2、3年後には、建設業以外の業界が活気づいて、産業界全体の景気が回復した。

 それに対して、日本の90年代の公共事業では、約500兆もの資金を10年間にわたって分散投資した。

その結果、建設業界はすっかり公共事業に頼る体質になってしまい、しかも公共事業関係以外の業界はあまり活気づかないという構造的な問題が生じることとなってしまったのだった。








書き足すかもしれないので連載形式にしておきます。

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