8.陽菜と羽鳥
六月。梅雨。
毎日の雨が鬱陶しい。こんな雨続きの日、わたしの体調は崩れやすくなる。
昔は無理をして調子の良い振りをして登校して、学校で体調を崩して早退する羽目になっていた。そんな時は、カナがせっせと世話を焼いてくれて……。けど、やっぱり申し訳なくて、中等部に上がった頃から、無理せず最初から休んでしまうようになった。
この一ヶ月ほど、気が張っていたのか、危ういながらも、毎日登校できていた。
だけど、今日は何となく胃が重い。昔、切った胸の傷跡もシクシクする。何となく息苦しくて身体が重い。そんな身体の中から警告をわたしは久しぶりに感じていた。でも、まだ大丈夫。
カナは最近、物問いたげにわたしを見つめてくる。
送り迎えはまだ続いている。
以前は色んな話をしながら歩いていた。
わたしがろくに話さなくなった後も、カナは一生懸命、わたしに話しかけてくれた。だけど、今は、カナもわたしも無言で歩く。
日課のように、
「送り迎えは、もういいよ」
と言う。カナもまるで決まり事のように、
「いや、オレがしたいから」
と答える。
そうして、さぞかし居心地が悪いと思うのに、それでもカナはやってくるのだ。これが責任感からじゃないなら何だというのだろう?
うつむいて歩きながら、たまに涙がこぼれそうになる。唇をきゅっと引き結んで、手をぎゅっと握りしめて、なんとかこらえる。
そんな毎日に、わたしはもう疲れ切っていた。
放課後、また、図書館を口実にカナを置いてきた。だけど、図書館で本を探す気にもなれず、そのまま裏手に回った。
羽鳥先輩に教えてもらった図書館裏のベンチに座り、しとしとと降りしきる雨を眺める。雨は降っているけど、ベンチは広い軒の下に置かれているから、今日のような静かな雨なら濡れることはない。
いつもなら綺麗な木漏れ日が見える時間。だけど今日は雨で、辺りは薄暗くて、まるで憂鬱なわたしの心を映しているかのよう。
「ハルちゃん」
名前を呼ばれて声のした方に目を向けると、羽鳥先輩が立っていた。
「羽鳥先輩」
先輩はいつものように、優しくにっこり笑う。暗かった辺りが急に明るくなったような気がして、肩の力がすうっと抜けた。
「ごめんね。邪魔しちゃったかな?」
「いえ!」
思わず、大きな声がでる。
「ぜんぜん邪魔じゃ、ありません」
自然とこぼれる言葉は紛れもない本心だった。先輩はくすりと笑った。
「ありがとう。じゃあ、お邪魔させてもらうお礼に、いいモノをあげよう」
そうして、ポケットに手を入れると、わたしの目の前に小さなお茶の缶を差し出した。
「え?」
「暖かいよ」
先輩は早く手を出しなさい、というように缶を軽く揺する。
「あの……」
「今日、梅雨冷えだよね。寒いから、ね」
優しい笑顔につられて受け取ったお茶は、とても暖かかった。両手でお茶を包み込むようにして持つ。
そうして、ようやく自分がこごえていたことに気が付いた。いつの間にか涙がこぼれ、先輩がわたしの頭を優しくなでた。
羽鳥先輩はずっと隣に座っていてくれた。何も言わず、ただ隣にいてくれた。
いつしか涙が止まっていた。それでも、わたしは、先輩にもらったお茶を手にしたまま空を見て、木々を見て、雨を見て、何も考えず、何もしゃべらず、ただ時が流れるのに身を任せた。
どれくらい経ったのだろう。もともと薄暗かった空が更に暗くなっていた。時計を見ると五時を指している。
「そろそろ、帰った方がいいかな?」
先輩も腕時計に目をやる。
「ごめんなさい。すっかり遅くなっちゃった」
先輩は、また優しく笑う。
「ボクのことは、気にしなくていいよ」
それより、と先輩は続けた。
「ハルちゃんはご家族が心配するんじゃない?」
「大丈夫です。……あの、図書館に寄るって電話したから」
カナと歩きたくなくて、言い訳のように図書館を使った。
「そうか。でも、そろそろ帰った方がいいよね」
「はい」
先輩の言葉に、小さくうなずく。
「家に電話する?」
「いえ。もう、迎え、来てると思うから」
そう言うと、先輩はすっと立ち上がった。
「車まで送ろうか」
瞬間、身体が固まった。
暖かかった空気が、急に冷え込み、現実世界に戻されたような、冷や水を浴びせかけられたような、そんな気持ちにおそわれた。
振り切るように置いてきたカナ。
置き去りにされたカナの傷ついたような目。わたしたちを包む重い空気。人通りの少ない裏口への廊下に、虚しく響く2つの足音。
何度となく繰り返される、カナから離れなくちゃ、カナを自由にしてあげなくちゃ、と言う想い。
こんなに好きなのに。
こんなに好きなのに。
こんなに好きなのに。
カナと離れなくちゃ、いけない。
がんばっても、がんばっても、届かない。
カナは優しいから。カナは責任感が強いから。今まで、わたしが、甘えすぎていたから……。
羽鳥先輩はわたしの言葉を待っていた。
でも、歩けない。カナ以外の人とは……。歩けない。
「……あの、」
わたしが絞り出すように声を出すと、先輩はいつものように優しく目を細めた。
「やっぱり、ハルちゃんの悩みは、その辺りかな?」
「え?」
「ごめんね。カマかけちゃった」
……羽鳥先輩?
先輩は、不意にわたしの頬に手をふれた。
「ハルちゃん、やせたよね」
「え?」
「食欲、ない?」
ここ一ヶ月、何を食べても味がしない。食欲もなくて体重も減ってしまった。
「ずっと、悩んでたでしょ?」
「……あの」
「いつでも、聞くよ?」
先輩は何かを探すようにポケットに手を入れた。それから、しゃがんで、まだベンチに座っていたわたしに目線を合わせた。膝の上で握りしめていた手を取られ、上を向けられ……。
「はい」
手のひらにコロンと載せられたのは、ミルキー三つ。
「これくらいなら、食べられるでしょう?」
「え?」
先輩は、うーん、どうしようかなとつぶやき、わたしの手のひらから、ミルキーを一つ取ると、きゅっと両端を引いた。
「口開けて」
思わず反射的に口を開けると、先輩はポンとわたしの口にミルキーを放置込む。次の瞬間、懐かしい甘い味が口の中にふわっと広がった。
羽鳥先輩は膝に手を当てて、よいしょ、と立ち上がり空を見た。
「行こうか?」
小さくうなずく。
「分かれ道まで、ね」
先輩はほほえみ、わたしの鞄を手に取った。
カナとしか歩けない。
だけど、裏口への道じゃなければ……。
「あの……ありがとうございます」
「どういたしまして」
先輩は嬉しそうに目を細めると、行こうか、とゆっくり歩き出した。
カナより細い先輩。顔つきもぜんぜん違うし、タイプもまるで違う。
だけど、背の高さがほとんどカナと同じだった。ゆっくりと、わたしに合わせて歩いてくれるのも。
先輩は何も言わない。だけど、さり気なく、わたしの歩く速さを気にかけてくれている気配を感じた。穏やかで優しい気遣いが心地よかった。