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1.陽菜の決意

 四月の終わり、お天気の良い午後。

 わたしは校舎の裏手でボーッと空を見上げていた。

 緑の木々の間で木漏れ日を受けながら、空を見上げていた。

 青い空。深い樹々の緑に彩られ、どこまでも澄んだ青い空が、見るともなしに視界に入って来る。

 人は心の底からショックな出来事があると、驚いたり騒いだりするのではなく、こんな風に茫然自失するんだと、そんなどうでもいいことが、心のどこに浮かび上がっては消えていく。

 青い空の向こうに、二匹の白い鳥が見えた。不意に視界に飛び込んできた鳥たちは、くっついたり離れたりしながら少しずつ小さくなって、ほんの数秒後には見えなくなった。

 少しだけ大きさの違う鳥だった。

 ……楽しそう。恋人同士なのかな。

 そんな言葉が頭にポッと思い浮かび、胸に切なさが込み上げてきた。

 脳裏に大好きな幼なじみの男の子、カナの笑顔が浮かび上がる。その笑顔を思い浮かべただけで、何だか心がほっこりした。

 そのほっこりと暖かい気持ちに、何か意味があるなんて、知らなかった。

 ……好き。

 小学校の終わりくらいからよく女の子の口から出ていた、ごく自然な感情。

 ……好きだったんだ、わたし、カナのこと。

 胃の辺りがキュッと締め付けられるように痛み、ポロリと涙がこぼれ落ちた。

 でも、離れなきゃ、カナから。

 もう、わたしから、解放してあげなくちゃ。

 脅迫観念のように、そんな想いが沸き起こる。

 優しい、優しいカナ。その広い胸も、大きな手も、わたしが独り占めしていたら、いけないんだ。



 脳裏に浮かぶのは、ほんの少し前に、この木漏れ日の美しい場所で、同級生の女の子に言われた言葉の数々。

 同じ一日なのに、同じ場所にいるのに、その子と話す前と後では別の世界にいるかのようだった。



 すらりと背の高い、ショートヘアの女の子。隣のクラスの子だった。

 今年は違うクラスだけど、幼稚部から十二年も一緒だから顔も名前も知っていた。だけど、ほとんど話したことはない子。田尻真衣たじりまいさん。

「ちょっといいかな?」

 そう言われて呼び出された校舎裏。

 体育会系で元気いっぱいの彼女が、何かにつけて足手まといになるわたしに好意を持っていないのは知っていた。だから、一体何だろうと怪訝に思いはしていた。

 それでも、話があると言われたら、断る理由はなかったから、言われるままについていった。

 思い詰めたような顔をした彼女の口から飛び出したのは、思いも寄らない言葉だった。



「こんなこと、言う権利、ないかも知れないんだけど……」

 そう前置きしてから、数秒の沈黙の後、彼女は意を決したというようにキッとわたしを見つめて言った。

「叶太くんを解放してあげて!」

 ……え? ……かいほう……って?

 最初、何を言われているのか、分からなかった。

「……あの」

 戸惑うわたしに、その子は思い詰めたような顔で続けた。

「もう、いいでしょう!?」

「……え、っと」

 叶太くん……広瀬叶太ひろせかなた。カナ。わたし、牧村陽菜まきむらはるなの幼なじみ。家も隣で、幼稚園から、高一の今まで、ずっと一緒のクラスの男の子。

 幼なじみで、ずっと同じクラスで、誰よりも仲良くしている大切な友だち。

「いつまで、縛り付けるの!?」

 田尻さんはそう言うと、わたしに詰め寄った。

 思わず、一歩後ずさる。

「あの……、田尻さん?」

 訳が分からないといった顔をしたわたしに、田尻さんは、怒りをあらわにして、叫んだ。

「叶太くんが、なんで、あなたのことを、あんなに世話を焼いていると思ってるの!?」

 ……わたしの世話。

 そう、カナはわたしをいつも助けてくれる。世話を焼いていると言われたら、そうかも知れない。

 わたしは、生まれつき心臓が悪い。そのせいで、しょっちゅう学校を休むし、体育は一度だって参加したことがない。急に具合が悪くなって、保健室のお世話になることも日常茶飯事。

 カナはいつも、そんなわたしの面倒を見てくれる。

 十二年間、同じクラスだった。幼稚部の年中さんから、初等部、中等部、そして高等部一年生の今。ずっと同じクラスの腐れ縁。

 学校のプリントを届けてくれるのは、いつもカナ。授業のノートを取ってくれるのもカナ。

 学年が上がるたびに、カナが選ぶのは保健委員。毎年、必ず立候補してくれる。だから、具合が悪いわたしを保健室に連れて行くのは、いつもカナ。中等部の途中からは、身体の大きいカナは、体調を崩すたびに、わたしを軽々抱き上げて、保健室まで運んでくれるようになった。

 いつも笑顔で、元気で、そして、明るいカナ。そんなカナはクラスの人気者で、休みがちなわたしが、クラスに溶け込めるように、さりげなくフォローしてくれる。

 カナは優しい。

 とにかく優しくて、わたしを助けてくれる時にも、嫌な顔一つしない。

 普段は明るい笑顔のカナもわたしの具合が悪い時には心配そうな表情を見せる。だけど、けっして慌てたりしない。カナが落ち着いた声で「大丈夫だからな」って言ってくれると、わたしも大丈夫だって思えて来るんだ。



「ねえ、聞いてる!?」

 田尻さんの鋭い声が、わたしを現実世界に引き戻した。

「叶太くんが、なんで、あなたに優しいと思ってるの!?」

 ……なんで、カナが優しいか?

 なんでって、理由なんてあるの?

 だって、カナは昔から、いつだって優しかった。過去、カナが優しくなかったことなんて一度だってない。

 だけど、わたしにだけじゃなく、カナは誰とだって仲良くて、親切で、そしていつも笑っていて……。

 怪訝な顔をしているわたしを見て、田尻さんは舌打ちをした。

「叶太くん、あなたの身体のこと、責任を感じているんじゃない!!」

 ……責任?

 わたしの身体に? カナが?

「……どうして?」

 わたしは、困った顔をしていたと思う。だって、本当に分からなかったから。

 生まれつきの心臓病に、カナが責任なんて感じる要素なんてないはずだから。

 ……その時は、まだ、知らなかった。

 カナが、そんなことを考えていたなんて。

「信じられない!! 忘れてるの!?」

 田尻さんが、吐き捨てるように、そう言った。

「……え?」

 力いっぱいの悪意をぶつけてくる田尻さん。

 言われたことの意味は分からなかった。でも、忘れていると言われると、正直、不安になる。

 体調が悪い時に身の回りで起きたことを、すべて覚えているかと言われると正直、自信がない。発作を起こした時や高熱を出した時なんかは、断片的にでも覚えていられたら良い方で……。

 もしわたしが、忘れてはいけない何かを忘れてしまっているのだとしたら、田尻さんのこの怒りにも、ちゃんと意味があるのかも知れない。

 でも、それが何なのか、わたしには分からない。

「信じられない!!」

 にらみつけられて、わたしは思わず身体をきゅっと小さくした。

 田尻さんは続けた。

「年中になってから、あなた入園してきたじゃない」

 話は随分昔から始まるらしい。田尻さんとは幼稚部から一緒だから、それは考えられる中では一番古い話だ。

「……うん」

 わたしの心臓病は生まれつきで、特に生れてから数年は体調が悪い日も多くて、発育も遅くて、しかも三月生まれで身体も他の子よりかなり小さかったらしい。だから年少さんの年は、家でのんびりさせることにしたと聞いている。

 四歳になったばかりで入園した幼稚園。

 たくさんのオモチャ、たくさんの絵本、優しい先生、小さくて可愛いお弁当箱。それから、初めて見る同い年の友だち。

 年中さんから通い始めた幼稚園は、キラキラ輝いていた。

 病院と自宅しかなかったわたしの世界は、その日を境に大きく色づいた。

 だからこそ、その頃のことはよく覚えてる。

「それで!」

 懐かしさに思わず微笑んでいたわたしを現実に引き戻そうと、田尻さんが強い口調で続けた。

 わたしは慌てて、宙をさまよっていた視線を田尻さんに移す。

「入園して、一、二ヶ月した頃、牧村さん、幼稚園で倒れて、死にかけたじゃない」

「……うん」

 うんって言ったけど、でも、実のところ、よく覚えていない。

 走っちゃいけないと、飛び跳ねちゃいけないと、踊ってもいけないと、言われていた。物心ついたころから、自分は走れないんだと思ってた。

 だけど、幼稚園ではみんな走り回ってる。だからか、わたしも走ってしまったらしい。

 そして、当然のようにひどい発作を起こして倒れて、一ヶ月以上も生死の境をさまよった……らしい。後から、聞いたところによると。

 わたしの反応が薄いのが気に入らないのか、田尻さんが、また舌打ちをした。

「あの時、本当は走っちゃいけないあなたを走らせたのが叶太くん他、数名の男の子」

「……え?」

「叶太くんは、それを気に病んでいて、それで、ずっと、あなたの世話を焼いてきたんじゃないの!!」

 田尻さんの言葉がわたしの頭の中を駆け巡った。

 カナが、わたしを走らせた? まさか。

 カナはいつも、歩くのが遅いわたしに合わせて、ゆっくり、ゆっくり歩いてくれる。

 それに、わたしたちは、隣の家に住んでいて、わたしが走れないのを、カナが知らなかったはずがない。

 ……ううん。違う。

 カナ、いつから隣に住んでる? 幼稚園に入って、わたし、初めて同じくらいの年の子を見た……って思ったもの。

 じゃあ、カナが隣に住むようになったのは、わたしが幼稚園に入った後?

 覚えていない。

 ううん。きっと、どこかに記憶が……。

「あのね!? 聞いてる!?」

 田尻さんはいらだたしげな声を上げて、わたしの腕を掴んだ。

「……え? ……あ、はい」

 腕をつかまれ、ドキンと心臓が跳ねる。

 ゆっくりと、静かに呼吸を整えた。

「叶太くん、あなたのために、バスケだって辞めたんだよ!?」

「え?」

 田尻さんはバスケ部員だ。初等部でも、中等部でも、そして高等部に入った今も。

 初等部の四年生でクラブ活動が始まったとき、カナはバスケを選んだ。中等部になっても、バスケ部に入った。その縁で、カナと田尻さんは、結構仲が良いはず。

 でも、カナは大好きだって言っていたバスケなのに、中一の冬に、突然、辞めてしまった。どうしてか聞くと、昔から街の道場で習ってた空手の方に専念したんだって教えてくれた。

 あれは、ウソだったの?

 ……わたしのために、辞めたっていうの?

 なんで? どういうこと?

 わたしの頭の中に山ほどの疑問符が浮かぶ。分からないことばかりだと思うのに、なぜか、不安に押しつぶされそうになる。

「……なんで?」

 田尻さんはきっと答えを持っているのだと思って、声に出して聞くと、そんなことも知らないのかと言いたげに、キツイ口調で答えてくれた。

「あなたが、叶太くんがいない時に倒れて、また死にかけたからじゃない!!」

 カナがいないときに倒れた?

 また、……死にかけた?

 カナがバスケを辞めた中一の冬……一月。遠い記憶を掘り起こす。

 死にかけるまではそうないけど、倒れたり入院したりはしょっちゅうだから、すぐには思い出せない。

 三年前の一月……、そう。……確かに、倒れた。

 心臓が悪いわたしは、特例で車通学を許可してもらっていて、みんなとは違う裏門から学校を出る。

 その頃は、体調も良くて、手芸部に入っていた。だけど、その日の夕方、手芸部が終わった後、一人、裏門に向かう途中、急に具合が悪くなった。誰を呼ぶこともできないまま、わたしは意識を失った。倒れた場所が人通りのない裏口への廊下だったせいで、発見が遅れた。

 そして、とても寒い時期だったから、肺炎を併発して……。

 そう、確かに、あの時も危なかったのだと言われた。

 でも、それが、なんでカナと関係あるの?

「まだ、分からないの!?」

 田尻さんが声を大きくする。

 だけど、カナが責任を感じるようなこと、何もないのに……。

 一体、何を分かれというのだろう?

「聞いちゃったの。わたし」

 田尻さんが言った。

「叶太くん、お父さんに、あなたと同じクラスになれるように、頼んでいるんだって」

 ……え?

 言われたことの意味が分からずに、頭の中でそのまま反芻する。

 おとうさんに、あなたとおなじくらすになれるように、たのんでる……?

「あなたのことが心配だから、あなたの側にいられるように、あなたの世話をできるように、同じクラスにしてもらっているんだって!」

 田尻さんが叫んだ。

「……ウソ」

 今年もまた一緒か。腐れ縁だな。

 毎年、カナはいつも、わたしに笑いかけてくれた。

 始業式に出られなかった時も、たくさんのプリントを持って、クラスの様子を話しに来てくれた。

 今年も同じクラスだよ、ハル。すごい偶然だよな。

 ……あれは、ウソだったの?

「先生たちが話しているの、聞いちゃったのよ!」

 田尻さんの声が頭の中を素通りしていく。

 なのに、言葉の意味だけはちゃんと残って、わたしを混乱させる。

 先生たちが話していた?

 ……確かに。確かに、カナのお父さまは地域の有力者。だから、ちょっとくらいのムリなら、おじさまから頼めば、聞いてもらえるかも知れない。

 でも……、そんな……。

 そんなはずはないと思いたかった。だけど、わたしは、分かっちゃったんだ。それは、もしかして、……ううん、もしかして、じゃなく、きっと、まぎれもない真実なんだって。

 だって、考えてみても、おかしいもの。十二年間、ずっと同じクラスなんて、おかしいもの。

 偶然なんて、確率的におかしいもの。

 カナとわたし……そして、田尻さんが通うのは、幼稚部から大学院まである、県内でもけっこう有名な名門私立学校。

 カナのお家はお金持ちで、学園への寄付金もすごいのだと思う。だから、例えば、わたしと同じクラスにしてくれって、それくらいの願いなら、簡単に叶ってしまうと思う。

 わたしの世話がしたいから同じクラスにしてくれ、なんて、それくらいの願いなら、きっと叶う。

 だって、ただでさえ手のかかるわたしみたいな生徒を、自分から世話したいって言ってくれるんだよ? そんな先生にとっても都合のいい願い、叶えない理由が見つからない。

「だからね!!」

 ようやく、わたしが動揺したのを見て、田尻さんが勝ち誇ったように言った。

「叶太くん、離してあげて」

 目の前にいるのに、妙に遠くで田尻さんの声が聞こえていた。

 わたしの心の内に浮かぶのはカナだけだった。

 ……カナ、だから、帰宅部だったんだ。中一で、バスケ辞めた後も、ずっと。

「もう、自由にしてあげても、いいでしょう!? 十一年間、束縛してきたんだから、もういいでしょう?」

 四月に高等部に入学して、もうすぐ一ヶ月。そろそろ、部活を決める時期。だけど、カナは笑って、「帰宅部だよ」って言っていた。

 でも、カナの部屋にNBAのDVDや、バスケ雑誌が幾つもあるの、わたし、知ってる。カナが、体育のバスケの時間、どんなに楽しそうにプレイしていたか、知ってる。カナの瞳が嬉しそうにキラキラ輝いていたのを、ちゃんと知ってる。

 ……なんで、気がつかなかったんだろう。なんで、今まで、気がつかなかったんだろう。

 ぽろぽろと涙があふれ出した。

「ま、牧村さん!?」

 田尻さんが、突然、あふれ出した涙に驚いた顔をする。

「ご、……ごめんね」

 何に謝っているんだろう? カナに? それとも、田尻さんに? 突然、泣き出したことに?

 そんなの、決まってる。

 ……カナに、に決まってる。

 いつだって、校舎の裏口まで、わたしの乗る車が着く裏口まで、カナは迎えに来てくれた。

 いつだって、授業の後、裏口までわたしを送ってくれた。

 風邪を引くことすら滅多にない丈夫なカナだから、それはほとんど毎日で……。

 ……そう。

 中学に入学して、カナもわたしも部活に入っていたあの時期以外、ずっと……。

 カナは車まで送っていかなかったせいで、……目を離したせいで、わたしが死にかけたって思っているのかな?

 そんな必要ないのに。

 誰も悪くなんてないのに。

 あえて言うなら、わたしの自己責任でしかなくて……。

「分かってくれたのね!?」

 下を向いた顔を上げられない。

 怖くて、田尻さんの顔を見ることができない。

「……う…ん」

 わたしの答えに、田尻さんの持つ空気が、急にパッと明るくなった。

 嬉しげに両手を握りしめられて、思わず手を引こうとしたけど、テンションの上がった田尻さんの握力は強く、わたしは震える手を引き戻すことができなかった。

「じゃあ、叶太くんを解放してくれるのね!?」

 わたしは小さく頷いた。

 そのまま、顔を上げられなかった。

 とめどなくあふれ出る涙が、ポツリポツリと革靴をぬらした。

 地面も、靴も、自分の足も……、すべてが涙でゆがんで見えた。

 あんまり当たり前に側にいすぎて、気がつきもしなかった。

 あまりに、側にいすぎて、ずっと、ただの幼なじみだと思ってた。世話焼きで優しい、ただの幼なじみだと思ってた。大切な友人だと思っていた。

 だけど……。

 わたし、カナが好きだ。

 離れなきゃいけないって、そう考えただけで、こんなに胸が苦しい。

 涙が止まらない。

 ごめんね、カナ。

 今まで、ありがとう。


 大好きだからこそ、カナを解放してあげる。

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